sairo

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押入れから出てきた日記帳には、鍵がかかっていた。

「こんな日記帳、持ってたかな?」

首を傾げながら、入っていた箱の中を探る。けれども鍵は見つからなかった。
他の箱の中だろうか。すぐには使わないものを押入れの中に詰め込んだ、過去の自分を少しだけ恨む。

「ないなぁ」

押入れから別の箱を取り出し、中を探るが見つからない。箱だけでなく押入れの中も確認したが、それらしい鍵はなかった。
小さく溜息を吐く。
押入れの整理は捗らず、見覚えのない日記帳には鍵がかかっていて中を確認できない。
机の上に置いた日記帳に視線を向ければ余計に疲れを感じて、目を逸らし肩を落とした。
鍵を探すため箱から出したものを戻し、押入れの中に箱を押し込む。押入れを閉めた後で日記帳を片付けていないことに気づいたが、これ以上何もする気力が起きず、ベッドに倒れ込むように横になるとそのまま目を閉じた。



空腹を感じ、目が覚めた。
辺りは暗い。窓の外には夜が広がり、空には星が煌めいている。
どうやらあのまま眠ってしまったらしい。
溜息を吐き、ベッドから抜け出し電気をつける。サイドテーブルに置かれた時計を見れば、十時を過ぎている。夕飯には遅すぎる時間だが、軽く何か食べようとキッチンに向かった。

何かあっただろうかと、冷蔵庫の中を覗く。水やお茶などのペットボトルと調味料がいくつか。そして空いた袋の中に残る食パンが一枚。
溜息を吐いて、パンとジャムを取り出した。

「一人暮らしって自由だけど、こういう所が不便」

パンを焼く気にもなれず、そのままジャムを塗る。行儀が悪いと思いながらもパンを咥えつつ、ジャムを戻してお茶のペットボトルを取り出した。
パンをお茶で流し込み、息を吐く。ペットボトルを冷蔵庫に入れながら風呂に視線を向けるが、今から入る気力はなかった。
そのまま部屋に戻り、何気なく机の上を見る。鍵のかかった日記帳。何故かそれが気になって、机に近寄り手に取った。

「いつ書いたんだろう?」

記憶を辿るが、思い出せない。けれど、日記帳は自分のものだ。
そう確信することを不思議に思いながら、日記帳を手にベッドに横になる。鍵はかかったまま。いっそ壊してしまおうかなどと物騒なことを思いながら、少し色あせた表紙をそっと撫でた。

――1月10日。

ふと、頭の中で声がした。
子供の声。びくり、と肩が揺れるが、手は日記帳から離れない。

――お年玉で日記帳を買った。かわいいお花の、カギのついた特別な日記帳。

声は語る。嬉しそうに、どこか恥ずかしそうに、日記を読み上げる。

――カギはふたつ。わたしとあの子のためのカギ。ふたりだけの秘密の日記にしよう。

これはこの日記帳に書かれていることなのか。弾む声が一日おきの日々の出来事を語っていく。
学校のこと。勉強のこと。あの子とどこへ行って、何をしたのか。
一日おきなのは、あの子という誰かとの交換日記だからだろうか。どれもが楽しい思い出のようで、ささいな出来事もすべて特別なことのように語っていた。
恐怖はない。ただ疑問ばかりが浮かんでくる。
この声は自分のものなのか。あの子とは誰なのか。
声はあの子の名前を語らない。僅かに記憶に残る日々を綴り感情が揺さぶられるのに、あの子の顔だけは出てこない。
声が語る内容は一月を過ぎ、二月へと続いていく。一日おきは欠かさず、あの子との日記が綴られる。
そして、日記は三月になった。

――三月。

そこで声は止まる。
何かあったのだろうか。声は沈黙を続け、不安に日記帳に触れたままの手が震えた。

――あの子はいない。

酷く淡々とした声だった。今まで弾むように感情を露にしていた声の突然の変化に、息を呑む。

――日記帳も、カギもない。全部流されて、連れていかれてしまった。だから、わたしたちの秘密はここでおしまい。

感情が抜け落ちた声が告げ、それきり何も聞こえなくなる。
ゆっくりと日記帳から手を離す。体を起こし、頭を押さえた。

「なに……今の……?」

目眩がする。頭が痛い。聞こえた声も、その内容も、自分の記憶も、色々なことがいっぺんに押し寄せて、訳が分からない。
強く目を閉じる。眉間に刻まれた皺を指で伸ばし、深呼吸を繰り返す。

「あの子は、いない……」

確かめるように呟いた。それだけで、浮かぶあの子という輪郭がぼやけていく。
これは、思い出してはいけないものだ。思い出してしまったら、戻ることはできない。
理由も分からないのに、理解できる。その正反対の感覚か苦しい。

「あの子はいない」

何度も繰り返す。言い聞かせるように、祈るように声に出す。
もう一度深呼吸をしてから、恐る恐る目を開けた。
見慣れた自分の部屋。ぐるりと部屋を見回し手元に視線を落とした。

「っ……!?」

日記帳が濡れていた。表紙がふやけ、紙が捲れている。
錆びついた鍵穴に触れれば、その途端にぼろりと崩れ、外れてしまう。まるで枷が外れたことを喜ぶかのように、濡れているはずの紙の端が僅かに膨らんだ。
今ならば、中身を見ることができる。
内側から囁く誘惑に、肩を揺らして頭を振った。
思い出してはいけないと思ったばかりだというのに、思い出したいと思う衝動が恐ろしかった。
あの子はいない。
言葉にしようとして、けれど声が喉に張り付き掠れた吐息しか溢れない。じわりと涙で視界が滲むのが唯一許された抵抗のように思えて、それが無性に悲しいと感じていた。
不意に、背中を撫でられる感覚がした。小さなその手に優しさを感じて、困惑と共に涙が溢れ落ちていく。
苦しい。悲しい。寂しい。会いたい。
たくさんの感情に、押し潰されてしまいそうだ。

「――ごめんなさい」

気づけば、背を撫でる手に謝っていた。
次から次に涙が溢れ、しゃくりあげながら、何度もごめんなさいを繰り返す。

「何もできなくて、ごめんなさい。弱くて、ごめんなさい……こうしなきゃ前を向けなくて、ごめんなさい」

優しい手は、ただ背を撫で続ける。
微かに香る海の匂い。二度と繋ぐことのできない手。それに痛みを覚えて日記帳を抱きしめ、声を上げて泣き続けた。



気がつけば、朝を迎えていた。
重たい頭に眉を寄せながら、体を起こす。ベッドや周りを見るが、日記帳はどこにも見当たらなかった。

「夢……?」

どこからが夢だったのだろう。痛む頭を押さえながら考えるが、何も分からなかった。
深く溜息を吐く。気持ちを切り替えるため、顔を洗おうと立ち上がった。
いっそシャワーを浴びれば、すっきりするのかもしれない。お湯と共に、夢の名残りなどすべて流してしまえるだろう。
そう思いながら、何気なく机の上に置かれたままの新しいスケジュール帳の表紙を指でなぞった。
新年だからと、新しく買ったスケジュール帳。簡単な日記帳としても使えるものだが、日記として使うことはないだろう。

一度閉ざされた日記を、もう一度開ける勇気はない。

「まだ、頭が眠っているみたい」

思わず苦笑する。何故そんなことを思うのか、分からなかった。

「ごめんね」

無意識に溢れた言葉。きっと、夢から抜け出せていないのだろう。
準備を整え、足早に風呂に向かう。
早く目を覚まさなければ。夢など忘れなければ。

夢にしなければ、戻れない。
前を見ることなど、二度とできなくなってしまうのだろうから。





20260118 『閉ざされた日記』

1/19/2026, 11:26:35 AM