「なんでオマエがここにいる」
眉を顰めた父を見て、不安が込み上げ隣で座る彼女を見た。
「やぁ、刑部。お邪魔しているよ」
けれど彼女はいつもと何も変わらず。穏やかに微笑んで、お茶を啜る。
その後ろでは、弟妹たちが彼女の四本の尾にじゃれ合い遊んでいた。
「ねぇねも一緒に遊ぼうよ」
誘われるものの、曖昧に笑って首を振る。
彼女はわたしの大切な友達ではあるが、神使であることに変わりはない。彼女の尾で遊ぶなど罰当たりすぎて、こうして見ているだけでも口元が引きつってしまう。
「何しにきた。用がないならさっさと帰れ」
「友達の家に遊びに来ているんだ。すぐにかっとなるのは悪い癖だよ、刑部」
「うるせぇ。オレの仔をたぶらかしやがって」
不機嫌さを隠そうともしない父を強く睨みつけた。それだけで口籠る父を一瞥し、小さく息を吐いてから彼女を見る。
父とは違い、彼女はとても楽しそうだ。弟妹たちをあやす尾は止めず、こちらを向いて優しく笑う。
頭を撫でられれば、それだけで不安や畏れはすぐに消えてしまう。
「大事にされているね。子煩悩な刑部を見るのは意外でとてもいい」
「そうなの?ととさまはずっとこんな感じだけど、前は違ったの?」
「おい。余計なことは言うなよ」
横から口をはさむ父に視線を向けて、彼女は肩を竦めた。頭を撫でる手は止めないまま、どこか懐かしむように目を細めて口を開く。
「一言で表すとしたら、傲慢。あるいは尊大。矜持が高くて、でも一族を守り通す責任と度量はある……完全無欠な孤高の王様って所かな」
目を瞬き、父を見た。弟妹たちも遊ぶのを止めて父を見ている。
確かに父は、何でも知っていてとても強い狸だ。王様という表現も間違ってはいない。
けれどわたしが知る父は優しくて暖かくて、少しだけ情けない。彼女の言葉が想像できなくて、穴が開くほどに父を見つめた。
「やめろ。そんな目で父様を見るんじゃない」
「だって」
「ねぇ……?」
「ととさまが孤高……意地悪だから?」
弟妹たちの言葉に項垂れる父が、何だか可哀そうに見えてくる。彼女を見つめれば、小さく笑いそっと背を押された。
促されて立ち上がり、父の側に寄る。背を撫でながら、落ち込む父を慰めた。
「大丈夫だよ、ととさま。今のととさまは、ちゃんと優しいから。昔、というか若い頃は誰しもやんちゃしたくなるって、前に読んだ本に書いてあったし。ととさまは成長できてるんだから、もっと自信持って!」
「常盤《ときわ》。慰めようとしてくれるのは理解できるが、それは父様に止めを刺す言葉だ」
さらに項垂れる父を見て、背を撫でる手を止める。途方に暮れて彼女を見ればどこか生温かい目で見つめられ、耐えきれずに狸の姿に戻るとその場をぐるぐると回り出す。
「神使め……常盤に変なことばかり教えやがって」
「それは違う。学校というのは学ぶ所だ。特に図書室という所は、人間の書いた様々な本が収まっているからね……それに人間として学校に通わせた時点で、人間らしさが身につくことは覚悟していたのだろう?」
落ち着いている彼女とは違い、父は怒ったり落ち込んだりと忙しい。どうすればいいのか分からず視線を彷徨わせていれば、部屋の外でこちらを伺う母と目が合った。
「かかさま」
小さく呼べば、弾かれたように父が振り返る。しかし母と目が合い、途端に顔を赤くして視線を逸らした。
「お蕎麦、茹で上がったけど」
「あぁ、そうだな……ここで、皆で食うか」
「分かった。持ってくるね……常盤のお友達も、ぜひ食べていってください」
「お言葉に甘えよう。感謝するよ」
彼女の言葉に母は柔らかく微笑んで、台所の方へと去っていく。父も母について部屋を出ていき、ようやく落ち着くことができた。
「常盤」
呼ばれて彼女の側に寄る。尾を振り首を傾げれば膝の上に乗せられて、優しく背を撫でられた。
「刑部はよき番を娶ったようだ。己自身をも傷つける険しさが消えて、本当の意味での守ることを覚えたようだね」
「どういうこと?」
「皆幸せだという意味だよ」
目を細めて彼女は笑う。よくは分からないけれど、彼女も後ろで遊ぶ弟妹たちも笑っている。
何だかそれが嬉しくて、甘えるように彼女に擦り寄った。
「どうぞ。海老天か、かき揚げか。好きなのを選んで」
母に言われ、迷わずに海老天を取る。蕎麦に乗せて香りを堪能していると、ふと彼女はどちらを選ぶのかが気になった。
「え?それって、油揚げ……」
「そうだよ。うどんでも蕎麦でも、お揚げは大事だからね」
何処からか取り出した油揚げを蕎麦に乗せる彼女を見て、目を瞬く。弟妹たちも興味深そうに彼女の蕎麦を覗き込み、父は眉を顰めて嫌そうな顔をした。
「これだから狐ってやつは……」
「でも美味しそうかも」
「お蕎麦に油揚げって初めて見た」
「油揚げはうどんじゃない?蕎麦にはかき揚げの方がいいよ」
彼女は周りの反応の一切を気にせず、母に礼を言って微笑んだ。母はそんな彼女を見てもあまり反応は見せず、ただほんの僅かに眉を下げて、油揚げの乗った蕎麦に視線を向けた。
「一応、おつゆはかつおだしにしているけど……合わなかったらごめんなさい」
母の謝罪に、彼女は驚いたような顔をする。けれどすぐに優しく目を細めて笑った。
「大丈夫。お揚げは何にでも合うから、問題はない。気にかけてくれてありがとう」
自信たっぷりな彼女に、母は表情を和らげる。
全員の準備ができた所で、父は彼女を一瞥して手を合わせた。
「それじゃあ……頂きます」
父の言葉にそれぞれが頂きますと手を合わせる。箸を手に、皆思い思いに蕎麦を堪能する。
海老天やかき揚げに噛り付く弟妹たちを横目に、海老天を避けて蕎麦を啜る。隣にいる彼女も油揚げを避けて蕎麦を啜っているのを見て、何だか嬉しくなった。
「欲しいの?なら、半分こしようか」
「いいの?じゃあ、わたしの海老天も半分あげる」
「おい、ちょっと待て。さりげなく共食させようとするんじゃねぇよ。オレの娘に手を出すな」
父の不機嫌の理由が分からず、首を傾げる。
半分こはさすがに卑しかっただろうか。眉を下げ彼女を見るが、肩を竦めて笑うだけで何も言わず、益々分からなくなる。
「神人共食を気にしてるんだろうけど。そもそもお蕎麦を食べてる時点で、ここにいる皆共食してるのに何言ってるの。それに私みたいな人と神使じゃなくて、狐と狸なんだからあまり変わらないでしょ」
「だけどよ。ただでさえ距離が近いってのに……」
「まったく。仕方ないね」
拗ねてしまった父を見て母は呆れたように笑うと、自分のかき揚げを半分にして父の蕎麦に入れる。目を見張り半分のかき揚げと母を交互に見て、父は頬や耳を真っ赤にして何も言えずに蕎麦を啜り出した。
「なるほど。刑部が惚れるわけだ」
くすくす笑いながら、彼女はいつの間にか半分にしていた油揚げをわたしの蕎麦へと入れてくれる。それに慌てて海老天を半分にして、大きい方を彼女の蕎麦へと入れた。
「ありがとう。しっぽの方でよかったのに」
「わたしがあげたかったからいいの!あと、油揚げありがとう」
「あ、ねぇねずるい」
弟妹たちが気づいて文句を言うが、それを気にせず蕎麦を啜る。
温かい。部屋の暖かさと、蕎麦の温かさ。そして彼女の優しい温もりに心の中まで温かくなってくる。
ふと、遠くで除夜の鐘が鳴り出した。一年が終わり、また新しい一年が始まろうとしている。
油揚げを齧りながら、彼女を見た。彼女も海老天を食べながらこちらを向いて、どちらからともなく笑い合う。
「よいお年を」
「うん。よいお年を」
今年も来年も。きっとその先も、大切な親友の側にいる。
そんなことを思いながら噛り付いた油揚げはかつおだしが染み込んで、じゅわっと甘い幸せの味がした。
20251231 『良いお年を』
夕暮れの空に、星を見つけた。
見つけた瞬間に、思わず駆け出していた。
捕まえたかったわけではない。追いかけたかったわけでもない。
ただ何もかもを星のせいにして、逃げたかった。
息が切れるのも構わず、星だけを見て走る。
辺りはすっかり暗くなり、自分が今どこを走っているのかも分からない。
遠い星に手を伸ばす。届かないと知っている。知っていて、求めている。
息苦しさに足元がふらついた。疲れた体は、そのまま前のめりになり、咄嗟に目を閉じた。
倒れる痛みを覚悟する。けれどもそれは訪れることはなく。
「なんだい、危ねぇな。気ぃつけんと、倒れるとこだったべな」
恐る恐る目を開ければ、目の前には星のように煌めく目をした誰か。
自分を抱き留め、呆れたように笑っていた。
海の底に沈んでいくような、そんな静かな終わり。
手の中の宝物は粉々に砕け、もう元には戻せない。
小さく溜息を溢した。
誰もいない。ひとりぼっちの秘密基地。
結局、みんな忘れてしまったのだ。自分だけが子供で、みんなは大人になってしまったのだろう。
「仕方ない。大人になったんだから、仕方ない」
言い聞かせるように繰り返す。込み上げる涙を乱暴に拭い、歩き出す。
終わりなんてこんなものだと、無理矢理に笑ってみせた。
目を閉じて、外の音に耳を澄ませた。
かたかたと、窓が音を立てている。音を立てて過ぎていく風に乗って、空高く舞う自分を想像して笑う。
見下ろす街並みはとても小さく、煌びやかだ。きらきらと色鮮やかな灯りを見ながら、速度を上げて飛んでいく。
街を過ぎ、山を越えて、そして海へと辿り着く。
風に乗り、さらに高く飛んでいく。
このまま、海の向こうへと。
そんな想像をしながら、苦笑して目を開けた。
気がつけば、見知らぬ部屋で三面鏡を前に座り込んでいた。
窓から差し込む月明かりが三面鏡を照らし、暗がりに自分の姿を映し出す。表情もなく鏡を見つめるその姿は、まるで幽鬼のように虚ろだった。
鏡から目を逸らせずにいれば、自分の意思とは無関係に片手が上がる。鏡に触れようと、指先が近づいていく。
だが正面の鏡に映る自分は、凍てついたかのように動かない。虚ろな目をして、手が触れるのを待っている。
手が鏡に近づく。止めることもできず、逆らう意思もない。
微動だにしない、正面の鏡に映る自分へと指先が触れる、その寸前。
背後から伸びた誰かの腕が手を掴み、そのまま後ろへと引き倒した。