sairo

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10/15/2024, 9:02:23 PM

夜空を優雅に舞う、青白い火を目で追いかける。
腕を伸ばしても火は高く、遠く。ちっぽけな自分の、短い腕では届くはずもない。
はぁ、と吐息が漏れる。
白く濁る息が外気の冷たさを余計に感じさせ、思わず身を震わせた。
さて、これからどうしようか。
何をするべきなのか、何処へ行くべきなのか。
考える。悩み見上げる空に、もうあの青白い火は何処にも見えない。
途端に心細くなり、慰めるように合わせた手を胸元に抱いて目を閉じた。


「取り繕った所で、踏み惑っている事に変わりはないがな」
「やめろ。そういう酷い事を平然と言うんじゃない」

目を開ける。
青白い火はやはり見えない。だが、背後の馴染みのある声に、気づかれぬよう微かに安堵の息を漏らした。

「酷くはないだろう。真の事だ」
「飛べないんだから仕方がない。同じような木々が続けば、誰でも迷うだろう。木々の上まで高く飛べれば、きっとすぐにでも道は見つかるはず」

屁理屈でしかないと思いながらも思った事を口にすれば、呆れた笑い声が響く。
それを咎めようと振り返り、絶句する。
思い描いていた姿とは異なる、半身を黒く焦がした知人が、記憶と違わぬ子供のような眼をして笑っていた。

「見苦しくてすまん。相手を侮っていた」
「……今度は何をやらかした」

見目以外には何一つ変わらぬ様子に、胡乱げな視線を向ける。
どこぞの狐らの喧嘩に巻き込まれにいったか。あるいは腹を空かせるがあまりに怪火でも呑み込んだか。

「神に手を出した」
「馬鹿か?それとも気が狂ったか?」

思わず、正直な感想が漏れる。
予想していたものの斜め上をいく理由に、それ以上の言葉が出てこない。
常から危ういと思う事はあれど、まさかここまでとは。

「信仰の途絶えかけた神ならば何とかなるとは思ったのだが、やはり神ではあるな。話が通じるものでなければ、残るものなどなかっただろう」

呵々と笑ってはいるものの、その声にいつもの覇気はない。
よく見れば、その笑みすら僅かに引き攣っているのが見て取れて、馬鹿か、と声には出さずに繰り返した。

「まあ、何だ。そんな訳で体が痛くて堪らない。治してはくれまいか」
「好き好んで焼かれにいったのだろう?そのままで良くないか」
「いみじき事を言うな。わざわざ迎えに来たのだ。もっと優しくしてくれ」
「自業自得だろう。優しくするべき部分が何処にもない」

そうは言えど、痛む体で無理をしてまで迎えに来てもらったのだ。その礼くらいはするべきだろう。
誰にでもなく言い訳をしながら、背負っていた籠から竹筒を取り出す。
栓を抜き、中の水を振りかければ、ぎゃっと短く叫ぶ声が上がった。

「優しくしてくれと言っただろうに!痛みで、真に気が触れそうだ!」
「優しくするべき部分がないと言った。それに、これが一番早く、良く効く」

空になった竹筒を籠に戻し、背負う。

「迎えに来てもらった事に対しての対価は支払った。それで?帰り道は何処だ?」
「少しは心を惑わしたりはないのか、薄情め」
「それくらい耐えられるだろうし、もう痛みはなくなったはずだ。気を引きたいがために、痛む振りをするのは止めてくれ」

視線を向ける事なく、空を見た。
月も星も雲に隠れているために、己が今何処にいるのかをさらに曖昧にさせている。
もしも空を飛べたのならば。
鬱蒼と生い茂る木々より高く、遮るものの一切が存在しない空から見下ろせば。
きっと、還る道はすぐにでも見つかるだろうに。

「汝人は飛べん。飛べたとて、帰る道など見えはせぬ」

知らず言葉が漏れてしまったのか。
答える声に、先ほどまでの気軽さはない。淡々と紡がれる、慈悲の欠片もない言葉に、逸らしていた視線を向けた。
表情の抜け落ちた熱のない目が、咎めるようにただ己を見ていた。
それを気づかない振りをして、気分を害したように睨めつける。

「嫌がらせか?なんでそうも酷い事を言うんだ」
「事実だ。試してみるか?」

言葉より早く、抱きかかえられ強く風が吹いた。
思わず目を閉じ。感じる浮遊感に、落ちぬようにと強くしがみつく。

「ほら。此処から見えるのか?」

促され、目を開ける。
見下ろす木々は、何処までも広がり。
何処までも同じようで、還る道など何一つ分かりはしない。

「汝人には見えんだろう。たとえ地の果てまで駆けようと、空高く飛ぼうと、それは変わらぬ。此処は我らの領域故に」

言葉を失った己を哀れむような、穏やかな声が降り注ぐ。

「汝人を還す訳にはいかぬ。我らのためにここに在る。還れはせぬが、帰る場所は与えよう」
「今更。それを敢えて言うなんて、本当に酷い」

常を装い、嘯いて。
空を見上げる。今の場所よりももっと高く。雲のさらに上へと憧れる。
あの青白い火は、還るための道標は、きっとこの妖にすら届かない程の高みへ行ってしまったのだろう。
だから見つからない。届かない。
だからこそ、分からなくなる。
帰りたいのか。還りたいのか。
分からないからこそ、また道に迷い続けるのだろう。

「さて、帰るとするか」

風が吹く。
心の底の灯火が、風に掻き消され凪いでいく。

「泣かなくなったな。良い事だ」

呟く声に、当たり前だろうと苦笑する。
疾うの昔に涙は涸れ、帰してと泣き叫ぶ声すらも嗄れ果てた。
残るのはもう、諦念にすらなりえない無だ。
表を取り繕う事は出来る。誤魔化し続けるのは簡単だ。

「迎えに来てもらって、泣く必要があるもんか」

嘘を吐く。人にしか出来ぬ事だ。
偽りを積み上げ、本当だと騙し込む。
簡単な事だ。

ただ笑えばいい。



20241015 『高く高く』

10/14/2024, 8:48:44 PM

「やめて。来ないで。嫌だってば!」
「そんなに嫌がる事はないだろう。前は喜んでいたじゃあないか」
「だから!それは子供の時の話だって!」

部屋の中を逃げ回る。
悲しげな表情に心が痛むが、だからといって捕まるわけにはいかない。

「何を言う。おまえはまだまだ子供だろうに」

呆れて息を吐くその姿に、思わず唇を噛みしめる。
分かっている事であるが、それでもまだ子供としてしか見られていない事が悔しかった。
あとどれくらい歳を取れば、大人として認めてくれるのか。

「ほぅら、捕まえたぞ。鬼事は終いにして、湯浴みをしようなぁ」
「やだっ。離して、変態じじい!」

彼から意識を逸らしていたせいか、抱き上げられて逃げられない。
嫌だと暴れても全く意に介さない様子に、じわりと危機感が首を擡げた。

「そこまで言う事はないだろうに。そんなに儂と湯浴みをするのが嫌なのか?」
「一人で入りたいの!いつまでも子供扱いしないで」

半ば叫ぶように伝えれば、渋々ながらも下ろされる。
安堵に深く息を吐き、荒くなった呼吸を整える。
ちらりと横目で様子を伺えば、隠す事なく不満を表した表情がはっきりと見えた。
目が合うと眉を下げ、悲しい顔をされる。
この顔は駄目だ。弱い事を知っていて、敢えてするのだから質が悪い。
絆されないようにと、慌てて目を逸らす。

「もう一人でお風呂にも入れるし、一人で寝る事だってできるんだから。何も出来なかった子供じゃない」

世話を焼かれるばかりの子供ではないのだと繰り返す。
きっと彼には伝わらないのだろうけれど。それでも、伝えないままには出来ない。

「おまえは子供だよ」
「子供じゃない」
「子供さ。大人になろうと、必死で背伸びをしている可愛い子。親の庇護を失って、巣立つ事も出来ず。飛び方も知らずに、空へと手を伸ばして藻掻いている。哀しい、愛しい、子供だよ」

頬に触れられ、目を覗き込まれる。
一言一言、言い聞かせるように紡がれていく言葉に、彼の瞳の中の自分の顔が歪んでいくのが見えて。
聞きたくないと身を捩っても、手が離れない。
逸らそうとしても、眼が逸らす事を許さない。

「強情を張るな、愛い子。子供は子供らしく、儂に世話を焼かれていろ」

静かではあるけれど強い言葉を、否定する事は出来なかった。


「さて、では湯浴みをしようなぁ。さっきの鬼事で汗をかいただろう」

機嫌良く目が細まり、抱き上げられる。
いい子、と背を撫でられあやされながら、向かう先を見るともなく見る。
良くはない気もするが、彼が満足そうであるならば、それでいいのではないか。
微睡む意識の隅で、そういえばどこへ向かうと言っていたのかを思い返し。

途端に鮮明になる意識に、全力で抵抗した。

「だからっ!一人で、入るってば!」

耳元で叫び、頭を叩けば、さすがに堪えたのか緩んだ腕から抜け出し距離を取る。
危なかった。もう少しで流されてしまう所だった。
睨み付ければ、ちっと舌打ちをされる。

「そのまま流されてくれれば良いものを」
「変態!馬鹿!もう、あっち行って!」
「何がそんなに嫌なんだ。儂が嫌いにでもなったのか?」
「そうじゃない!一緒に入るとか、そんなの…は、はしたない、だろうに!」

力一杯に叫ぶ。
きょとり、と目を瞬かせて。そうか、と頷き笑う。

「そんな些事なぞ気にするな。お互い見慣れているだろう?」
「気にするから!見慣れてる、見慣れてないとかの話じゃないから!」
「そうか?なればそうだな…儂が女の体になれば問題はないか?」
「それはそれで、問題しかないからっ!」

何を言っているのだろうか。理解が追いつかない。
反射で否定すれば、彼は拗ねたような表情で未練がましくこちらを見つめてくる。
けれど、その表情はすぐに柔らかいものへと変わり、ふんわりと微笑んだ。

「我が儘め。だが子供とは皆、我が儘なものだ。ここは儂が折れるとしようか」

仕方がない、と手を伸ばして頭を撫でられる。

「何かあれば、すぐに声を上げるのだぞ。あぁ、だが溺れてしまっては声が出せんか。やはり共にいた方が、」
「溺れない!一人で入って溺れた事なんてないから!」
「今までが問題ないからといっても、絶対ではないからなぁ」

妥協を見せたというのに、すぐに撤回しないでほしい。

「落暉《らっき》」

頭を撫でている手を取る。
大人として認めてくれないのならば、彼の望むようにするだけだ。そうして、うまく扱えばいい。
子供らしくはないな、と認めてもらえず、拗ねた心が苦笑したようだった。

「お風呂上がりに、何か甘いものが食べたい。作って」

手を握り、強請る。
それだけで彼の表情は明るくなるのが分かった。

「そうか!なれば今から作ろうなぁ。何がいいか。夕餉もあるから、軽いものがいいな」
「夕ご飯は、なめこのお味噌汁にして」

さらに上機嫌になった彼の手を離す。

「お風呂、行ってくる」
「気をつけて行っておいで。作り終えたら、迎えに行こう」
「手抜きはしないで。ちゃんと作って」
「急に我が儘になりおって。いいぞ。おまえがまだ食べた事のないものを作ってやろう」

最後にもう一度頭を撫でて、彼は風呂場とは正反対の方へと向かう。
台所へと行くのだろう。
彼の背を見送って、安堵の息が漏れた。
何とか危機は脱したようだ。
しかし、ふと気づく。

「世話を焼くって…もしかして、ご飯食べさせられたり、寝かしつけされるって事?」

想像して、羞恥に顔が赤くなる。
幼い頃にされた彼の言う世話を思い出し、耐えきれずにしゃがみこんだ。

「早く、大人になりたい」

大人になりたいだなんて、そう思う事こそ子供のようだと感じながらも。
切に願わずにはいられなかった。



20241014 『子供のように』

10/13/2024, 10:05:34 PM

誰もいない教室で一人、迎えを待っている。
窓の外から聞こえる運動部のかけ声。吹奏楽部の練習の音。
何一つ変わらない。いつもの放課後だ。

一人足りない事を、誰も気に留める事などいない。

存在しないとはこういう事かと、どこか呑気に考えながら、使う者のいない机の縁をそっとなぞった。
窓の外を見遣れば、赤い空が段々に色を黒に染めている。
すっかり日が沈むのが早くなってしまった。こうして待つ時間も、少しずつ短くなっていく事だろう。
椅子を引き、腰掛ける。
誰からも気に留められない、この机の前の席は、自分の席だ。
席に座り、後ろを振り返って色々な話をした事が、遠い昔のように思える。実際には、二月ほどしか経っていないというのに。
ふふ、と思わず笑う。過去を懐かしむなど、大人のような気がして可笑しくなってしまった。

「夏休みは大分濃かったから、待つ時間はこれ位がちょうどいいのかもね」

誰にでもなく呟いて、伸びをする。
待つのは嫌いじゃない。
約束をした彼女を信じているから。

彼女は彼女ではなくなるのだと言われた。神との契約によって、新しくなるのだとも。
正しく理解は出来なかった。
だから会いに行った。会って、時間の許す限り話して。
そして約束をした。
今度は会いに来てほしいと。待っていると。

待つのは嫌いじゃない。
時間が掛かる事など、分かっている。
覚えていないだろうと言われたのだ。自分の事だけを忘れず会いに来てくれるなど、都合の良いおとぎ話を信じたりはしない。
けれど、約束をしたから。
きっといつか思い出して、会いに来てくれると信じている。だから、待っているこの時間は、嫌いではなかった。

「そういえば、学生の時はここで待てるけど、卒業になったらどうしよう。いっそ留年した方がいいかな」
「それはやめて。というか、なんでそういう選択肢が当たり前のように出てくるの」

誰にも拾われる事がないであろう呟きに、返る言葉。
呆れたような、懐かしい声音。

「えっ?なんで?」

教室の入り口。声のした方を見ると、約束をした彼女が呆れた顔をして立っていた。

「なんでって、約束したからに決まってる」

慌てて駆け寄ると、小さく笑われる。
姿もその表情も、変わらない。
理解が追いつかず、頭にたくさんの疑問符を浮かべると、彼女の笑顔が、少し困ったようなものへと変わる。

「なんで?てっきり年単位で待つんだと思ってたのに」
「なんでだろう。割とすぐに思い出せたんだよね」
「なにそれ。あたしの覚悟をどうしてくれる。でも、早く来てくれたおかげで、留年するかどうかの究極の選択はなくなったから良かったけど」
「だから、なんでその選択肢が当たり前のように出る」

はぁ、と溜息を吐かれる。
そんな所も変わらない。夏休みが訪れる前に戻ったようだ。
「なんか、変わらないね。もっとこう、きらきらしてたり、すごい美人になったりとかも想像して、会えても分かるか少し心配だったんだけど」
「人並みで悪かったね。これでも新しくなったんだけど。元の体は厳重に封印されてしまったから」

だろうな、と頷いた。
普通の人には耐えられない程の呪を抱えて、長い年月を生きてきたのだと聞いた。
新しくなるならば、その呪とやらもなくなってしまうのだろう、むしろなくなってしまえと思っていたのだから、何の不満もない。
けれど、彼女はその肯定を別の意味で捉えたようだった。

「外側も中身も変わってしまったから、会うべきか悩んだのだけれど。一応約束だったからね」

来た事を申し訳なく思っているようなその表情に、むっとした。
頬を両手で包んで、目を合わせる。

「変な勘違いをしないで。約束する時に言ったけど、人でも呪でも関係ないの。外側がぐちゃぐちゃしてようが、中身がどろどろだろうが、あたしの親友なんだから、堂々とあたしの側にいればいいの」

目を逸らさず言い切れば、どこか幼い瞳が不思議そうに瞬く。
変わっていないように見えたが、どうやら新しく生まれたのは確からしい。
そんな事を思いながら名前を呼ぼうとして、まだ新しい名前を聞いていなかった事に気づいた。

「名前。まだ聞いてなかった。教えてくれる?」

頬から手を離し問いかければ、彼女はとても嬉しそうに笑う。
名前を聞かれるのが、それを答えるのが幸せだと、彼女の笑顔が告げていた。

「黄櫨《こうろ》」

黄櫨。新しい彼女の名前。
音の響きでしか分からないはずのそれが、正しく認識出来て少しだけ苦笑する。
名付けた神の主張の激しいその名に、呆れに似た感情が浮かんでしまう。
彼女が幸せである限りは、言葉にする事はないだろうけれど。

「じゃあ、黄櫨。改めて、会いに来てくれてありがとう。これからもあたしと親友でいてくれる?」
「もちろん。これからもよろしく、曄《よう》]

くすりと、どちらからともなく笑い合う。

「おかえり、親友。ここにはどれくらいいられるの?」
「ただいま、親友。卒業まで一緒にいられるよ。人らしく生きるのが、神様の望みだからね」

手を差し出せば、当たり前のように手を重ねて繋ぐ。
待っていた日常が戻ってきた。
それが嬉しくて、繋いだ手を揺らしてもう一度声を出して笑った。



202401013 『放課後』

10/13/2024, 12:20:40 AM

気づけば、三方を白のカーテンに覆われたベッドで眠っていた。
起き上がり、あれ、と首を傾げる。少し前の記憶を辿る。
本を読んでいたはずだ。
寝付けずベッドから抜け出し、夜の音を聞きながら。
いつの間にか眠ってしまったのか。それで様子を見に来た父にベッドへと運ばれたのか。
それにしても、このカーテンは何だろう。
月に照らされているのか、その仄かな光を白が強調し、まるで映画のスクリーンのようにも見える。

ぼんやり眺めていれば、不意に目の前のカーテンに影が浮かび上がる。
曖昧なその形は、次第に輪郭をはっきりとさせ、髪の長い女性の人影を取った。

「眠れないの?」

小首を傾げて、影は聞く。

「今日はたまたま、だよ」

答えるが、きっとばれているのだろう。

「俺を運んでくれたのは、誰?」
「お父さま。ずっと起きていたから、桧にお願いして香りを届けたの。眠ってしまったあなたを運んでもらったのよ」

ごめん、と謝ろうとすれば、それを遮るように影が首を振る。
謝るのは違う。そう言われたような気がして、出かけた言葉を呑み込み、改めて口を開いた。

「いつもありがとう」
「どう致しまして。あなたが元気で笑っていてくれるのならば、それでみんなが幸せになれる」

影の歌うような囁きに、何だか照れくさくなってしまって、思わず視線を逸らした。
庭にいる、人ではない彼らはいつも優しい。
その優しさに返せるものはあるのかと、優しさをもらう度に少しだけ不安になる。

「何かお返しが出来ればいいのに」
「言ったでしょう。笑ってくれていればいいの」
「それだけで、本当にいいの?」
「そうよ。でも、そうね」

影が背後を振り返る。
ひそひそと話す声に、皆いるのかと小さく笑ってしまう。
何を話しているのだろう。声は小さくうまく聞き取る事が出来ない。
暫くして影がまたこちらに向き直る。
影の表情は分からないけれど、何故か笑っているような気がした。

「あなたがもっと我が儘になってくれれば嬉しい。我慢をしないで、何でも話してくれたらいいのにといつも思っているの」

そうだそうだと、影の背後でたくさんの声が同意する。

「どんな些細な事でもいいの。嬉しいとか、楽しいとか。感じた事を話してくれたら、みんなも嬉しいし楽しくなる。寂しいとか、悲しいとか。吐き出してくれれば、安心するのよ」
「迷惑じゃない?」
「まさか。一人で耐えているのを見ているだけの方がつらいわ」
「言ってもいいの?」
「言って。何でもいいから。どんな些細な事でもいいから、みんなにお話しして」

そっか、と言葉を溢す。
うまく言葉に出来ない気がしたが、それでもいいよと言われているようで。
皆に促されるようにして、口を開いた。

「目を閉じると、母さんが出てくる。あの日の、寝ているような母さんを思い出す。寝ているんだって思って声をかけても、全然起きなくて。肩を触ったらすごく冷たくて」

涙は出ない。悲しい訳ではない。
それでも思い出してしまう。その自分でもよく分からない溜まった思いは、分からないからこそ名前をつけられず、誰かに話す事も出来ないと思っていた。

「このまま寝たら起きられるのか、とか。一人は寂しいだろうな、とか考えて。考えるから、目が冴えて。そうすると眠れなくなる。ずっと」
「そう。考えてしまうの。じゃあ、」

――考えなくてもいいように。

しゃん、と。どこからか、鈴の音。
音に合わせて、影がくるりと回る。
くるり、ふわり、と綺麗なステップを踏んで、踊り出す。

「きれい」

影が舞うのに合わせて、笛が高らかに音を響かせる。
鈴と、笛と。それから、左右から聞こえる弦の音は三味線か。
気づけば、左右のカーテンに様々な影が現れ、緩やかな曲を奏でていく。
曲に合わせて影が舞う。
ひらり、くるり、と影の舞に目を奪われて。
ふわり、くらり、と意識が揺らぐ。
いつしか微睡んで。体が揺れて、瞼が重くなっていく。

「眠る事は怖くはないでしょう。大丈夫、明日は必ず訪れる」

背中を暖かな手に支えられ、ゆっくりとベッドに寝かされて。
大丈夫、の言葉に、抵抗する事なく目を閉じる。
母の姿は見えなかった。

――おやすみなさい。可愛い子。

誰かの声。
ありがとう、と心の中で呟いた。



20241012 『カーテン』

10/11/2024, 9:55:42 PM

午後の穏やかな日差しが、眠気を誘う。
閉じそうになる瞼を、微睡む意識を繋ぎ止めるため、頭を振った。
それでも、少し経てばまた瞼は重く、微睡んで。
仕方がないと、読んでいた本を閉じた。
これはもう、少し眠ってしまった方が良いだろう。
欠伸をひとつして、伸びをする。
本を手に立ち上がると、丁度良く兄が帰宅したみたいだった。
「おかえりなさい」
「ただいま」

いつものように挨拶を交わせば、穏やかに笑んで挨拶を返してくれる。
しかし、その笑みはこちらを認識して、訝しげなものへと変わった。

「泣いていたの?」

側に寄り、目尻を拭われる。
さっき欠伸をした時だろう。その指先についた滴に、またかと苦笑し首を振る。

「本、読んでたら暖かくなって、眠くなってきちゃった」
「夜更かしするからだろう」
「そんな事ないと思うけどなあ。ちゃんと日付が変わる前にはベッドに入ってるよ」

兄はいつもこうだ。
心配性で、過保護。
昔から少しでも泣けば、すぐに側にきて心配し、泣く原因を取り除こうとする。
まるで、泣く事を恐れているみたいだった。
その心配が、いつからか息苦しくなる時があり、以前よりも兄が苦手になってしまっていた。
だから進学を機に、兄から離れようと一人暮らしを選択したはずなのに。
何故か一緒に暮らす事になってしまった理由は、未だによく分からない。

「でも、最近夜中に起きているじゃあないか。眠れないの?」

気づかれていたのか。
どうしようかと、表情には出さずに悩む。
正直に嫌な夢を見ると言う気にはならなかった。
眠れるようにとあれこれ世話を焼かれるのも嫌だし、言って夢の内容を詳しく聞かれるのも嫌だ。

「早く寝過ぎちゃってるのかも。もう少し起きていようかな」
「そんな訳ないだろう。途中で目が覚めるというなら、悪い夢でも見ているのかな」
「どうだろう。よく覚えてないから分かんないや」

相変わらず、兄は鋭い。
曖昧に笑って誤魔化すが、おそらくそれすらも分かっているのだろう。
小さく息を吐く。兄から少しだけ視線を逸らして。

「兄さんがいつまで経っても独り身だから、それが心配なのかもね」

嘘でも、本当でもない答えを呟いて、自室へと戻った。
目はすっかり冴えてしまっていた。





今日もまた、同じ夢を見る。

暗い部屋。
その奥に積み上がる、たくさんの同じ顔をした人形達。
目の前の、無表情の兄。

「なぜ」

冷たい指先が、目尻をなぞる。

「なぜ、泣く」

指先を濡らす涙は、止まる事はなく。
声もなく、表情ひとつ変えずにただ涙を流す。
もう、これしか出来ないからだ。
声もなく、四肢の自由もない自分には、もうこれだけしか意思を伝える術がない。

「また失敗か」

無機質な声音。
涙で濡れた手が首を掴み、そのまま引きずられていく。
部屋の奥。さらに深い暗がりに積み上がる人形の数が、また一つ増えた。

いつまで繰り返すのだろうか。
すでに兄の目的は達せられたはずだ。
彼女を取り戻すために、代価品として元のこの身を燃やしたのは兄だろうに。
何故、今更。
燃え滓を集めた所で、元には戻る事など決してない。
記憶をかき集めた所で、それが命になる事などあるはずがない。
分かっているだろうに。どうして認めようとしないのか。

兄の去った部屋。
静寂の中、涙を流す。
悲しいのか、苦しいのか。今はもう、その理由は擦り切れ思い出す事はない。
積み重なる、たくさんの失敗作の自分達が、声もなく泣いている。
部屋を濡らす涙は嵩を増し、それはいつしか部屋を沈めていく。
悲しみも、苦しみも、寂しさも。身も心もすべてを涙は鎮め解かしていく。


願わくは、兄がこの部屋を忘れ、二度と戻る事がないように。
苦海に永く沈む事のないように。
無意味と知りながらも、思わずにはいられなかった。





目が覚めた。
まだ空は暗く、朝は遠い。
溢れ落ちる涙を拭い、息を吐いた。

いつからか見るようになった夢。
最初は、逃げ出した。部屋から出る事は出来たが、それだけだった。
次は、歩く事が出来ず、床を這いながら逃げようと足掻いた。小さな舌打ちと共に視界が暗転した。
何度も繰り返す夢。夢だと笑い飛ばす事は、もう出来なくなっていた。

体を起こそうとして、止める。
顔を洗いに行きたいが、兄に気づかれる訳にはいかない。それよりはと、体を起こす事なくもう一度目を閉じた。

こんこんと、扉を叩く音。

「大丈夫?」
「寝てるんだから、起こさないでよ」

かちゃりと、扉が開く音がして、兄が入ってくる。

「まだ入っていいよって、言ってないよ」
「ごめんね」

軽い謝罪に、いつもそうだと愚痴を溢す。
戻る気配のない兄に、体を起こして何、と要件を尋ねた。

「目が覚めたみたいだから。ほら、タオルを持ってきたから、目を冷やして。腫れてしまうよ」

準備の良すぎる兄に思う所はあれど、素直に渡されたタオルを目に当てる。
冷えたタオルの心地良さを堪能していれば、兄の静かな声が鼓膜を揺すった。

「どんな夢を見た?」

忘れた、と言葉にするのは簡単だ。
けれどそれを、兄が許してはくれないのだろうと、そう思った。

「兄さんがいつまでもお婿に行かないで、ずっと部屋に籠もってお人形遊びをしている夢」

何それ、と困惑を含んだ声。
それに、正夢にはしないでね、と呟いた。



20241011 『涙の理由』

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