sairo

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10/10/2024, 9:57:19 PM

赤く艶やかな果実を一つもぎ取る。
しゃり、と音を立てて囓れば、広がる甘酸っぱさに目を細めた。

今年も無事に実りを迎える事が出来た。
上等だ。きっと満足してもらえるはず。
そう思えば、緩む口元を押さえる事が出来なかった。
手をかけてきたものが、こうして最良の結果を伴って応えてくれる。この瞬間が、何よりも好きだ。
たわわに実る種々の果実も。
一面に広がる黄金の稲穂の海も。
心を躍らせ、目を楽しませてくれる。

しゃり、とまた一口果実を囓る。
ふふ、と声には出さずに笑んで。
瑞々しさを咀嚼し、甘露を嚥下する。
また一口、と口にしようとして。

「あぁ、今年もよく実っているなぁ。実にうまそうだ」

しかし背後から聞こえた声に、手を取られてかなう事はなかった。
しゃり、と手にした果実を囓られる音がする。

「うん。やはりうまいな」

穏やかな声に、硬直する。
一呼吸置いて、じわじわと全身に巡る熱に、慌てたように身を捩った。

「ちょっと、勝手に食べるな」
「いいじゃあないか。少し前までは、儂の膝の上で喜んで食わせてくれただろうに」
「それは小さい時の話だろうに。いつまでも引きずるな、じじい」
「すっかり口が悪くなってしまって。儂は悲しいぞ」

まったく悲しげなそぶりも見せない、笑いを含んだ声音。
さらに熱が駆け巡り出すような錯覚に、耐えきれずに逃れようと暴れ出す。
だがその反応すらも楽しむように、腰に手を回され体を引き寄せられ、いとも簡単に抵抗を封じられてしまう。

「ちょっ、と。離せ、こら。このっ、変態!」
「酷いなぁ。大きくなったら儂のお嫁さんになると、あれだけ言ってくれていたのになぁ」
「だからっ、それは小さい時の話でっ!」

触れている体に、呼吸がうまく出来なくなってくる。
胸の鼓動が忙しなく、巡る熱が動けない体の代わりに暴れ出す。
後ろにいてくれて良かった。今のこの顔を見られずにすんでいるのだから。
恥ずかしくて、うれしくて、死んでしまいそうだ。

「おまえが育てたものは実にうまいな。あやつに引けを取らん。あやつが常世を渡り心配ではあったが、おまえは実によくやってくれているよ」

しゃりしゃり、と果実を食べる音。
合間に囁かれる言葉に、暴れていた熱が勢いを少しだけ殺し、胸の痛みを生み出した。

「寂しくはないか。一人で泣く事はなくなったと聞いているが、我慢はするなよ。溜め込まずに、儂らに吐き出してしまえ」
「別に、我慢なんてしてないし。一人でも、大丈夫だから」

熱が勢いを殺していく。
胸の痛みが強くなり、きゅっと唇を噛みしめた。
恥ずかしい気持ちも、うれしい気持ちも凪いでしまい、虚ろな残り滓が澱みのように溜まっていく。

「強情者め。一体誰に似てしまったのだろうな」

呟く声は、珍しく少し寂しげだ。

「一人にしているからか。それならば」

芯まですべて平らげて、ようやく手を離される。
けれどそれを寂しいと思うより早く、くるりと体を反転させられ、抱き上げられた。
久しぶりに見る変わらぬ姿に、間近で見る顔に、凪いでいた気持ちや熱が再びこみ上げてくる。
澱みが一瞬で流されていくのを感じた。

「なっ!?」
「前のように、儂が世話を焼いてやろうなぁ。食事も湯浴みも任せておくとよい。夜は眠れるまで話をしてやろう」

あやすように揺らされながら、歩き出す。
家に戻るのだろう。懐かしいと、微笑むその横顔に、文句は言えず。

「あやつは母でありながら、子を育てる事にはとんと向いていなかったからなぁ。儂らがおらんかったら、今頃おまえはここにいなかったかもしれん」
「お母さんの悪口は、やめて」

確かにそうではあるけれど、と思いながらも否定する。
仕方がない事だ。人には向き不向きというものがある。
それに、正確には子育てに向いていないというわけでもない。
ただ張り切れば張り切るほどに空回りをして、惨事を引き起こしていたというだけだ。

「それと、まだやる事がたくさんあるから、下ろして」
「収穫ならば、出来るモノが他にいるだろう。たまには休む事も必要だぞ」

それに、と懐かしむように、期待に心躍らせるように、彼は子供のようなきらきらした表情で笑う。

「久方ぶりにおまえの世話が焼けるのだ。儂の密やかな楽しみに付き合ってはくれないか?」
「…ずるい。収穫、楽しみにしてたのに。いやと言えなくしないで」
「ならば、明日は一緒に収穫しようなぁ」

益々笑顔になる彼から顔を背け、小さく馬鹿、と呟いた。
顔が熱い。体の熱が、ぐるりと巡る。

待ち望んだ、年にこの時期だけの特別な瞬間は。
結局は、彼と一緒に過ごす一時の喜びに負けてしまうらしい。

「さて、夕餉は子らに頼んで沢で魚でも捕ってもらうか。最近は食事が疎かになっていたとも聞く。そこはあやつに似らんでくれよ」

歌うような囁きに、肯定も否定もせずに目を閉じる。
とんとん、と背を優しく叩かれ、寝かしつける心地良さに微睡んで。

踊るような鼓動の高鳴りに、気づかれぬように一人笑った。


20241010 『ココロオドル』

10/9/2024, 10:32:54 PM

名前を、呼ばれた気がした。
体を起こそうとするも、指先ひとつ動かせず。
ならばと、声を上げようとするも、掠れた吐息が漏れるだけだった。

それにしても暗い。今は何時頃なのだろう。
随分眠っていた気もするし、全く眠れなかった気もする。
夢を見ていないからかもしれない。
何時寝たのだろう。

そもそも、今は目覚めているのか。
自分は、目を開けているのだろうか。


「手に負えぬものまで対処しろなど、わっちは一言も言っていませんが。一体何をしているのですか」

聞き慣れた声。
したん、と何かを打つ音がした。

あぁ、機嫌を損ねてしまっている。

宥めなければ。
あれは構ってもらえずに、拗ねている時の打ち方だ。
早くしなければと、まだぼんやりとする意識を引き戻すように。

目を、開いた。



「やっと起きましたか」
「ち、とせ?」
「まだ呆けているのですか。わっち以外の何に見えると」

ふん、と鼻を鳴らすその姿に、ごめん、と掠れた声を漏らす。
声がうまく出ない。体が鉛のように重い。
何が、どうして、と混乱する思考で直前の記憶を辿ろうとすれば、しなやかな尾に頬を張られ妨げられる。

「わっちの社に入り込もうとした無礼者の瘴気に中てられたのです。まったく嘆かわしい」

そういえば、確かに境内の掃除中に黒い澱みを見たような気もする。
社に近づいたから、追い払おうとして。
腕を掴まれた後の記憶が、なかった。

「澱み、は?」
「犬に喰わせました。余剰分は切り裂いて燃やしましたが」
「ささら、どこ」
「そこで転がっています。たったあれだけで消化不良を起こすなど、本当に使えない」

そこ、と示された場所に視線を向ける。
視界の隅に、力なく揺れる茶色い尾が見えた。

「穢れが抜けきるまでは、おとなしく寝ている事です。社の管理の礼として、動くまでの世話を犬に行わせましょう」

そこで自ら行わないのが、猫らしい。
力なく礼を述べれば、視線を逸らし尾を揺らした。
ゆらゆらと揺れる尾を見ているうちに、段々に瞼が重くなってくる。

「ここ暫く、お前はよく働きました。ゆるりと休むが良いでしょう」
「でも」

落ちていきそうな意識を、何とか繋ぎ止める。
休むとしても、一日二日で元の通りには動ける訳でもないだろう。
その間に二人の世話や、神社の管理が出来なくなる事が不安だった。

「お前が心配するような事は、何一つありません。さっさと休みなさい」

素っ気ない言葉に、おとなしく目を閉じる。
すぐに訪れた睡魔に、今度は抗う事なく意識を落とした。



「まったく手が掛かる」

男が深い眠りについて、暫くして。
猫の姿をとる神は誰にでもなく呟くと、犬の元へと近づき、爪を出した前足を容赦なくその頭へと突き刺した。
ぎゃん、と小さく鳴いて、文字通り飛び起きる。

「な、何。あ、えと、」
「煩い」

ぴしゃり、と静かでありながら鋭い言葉に、犬は慌ててお座りをする。

「いつまで休んでいるつもりだ。さっさと動け、犬」
「はいっ!」

背筋を伸ばして返事をする。
眠る男の側へなるべく音を立てぬようにしながら近寄ると、枕元へと乗り男の額に前足を触れさせた。
僅かな険しさを浮かべる男の表情が、少しずつ穏やかなものへと変わる。

「それが終わったならば、人の形を取り、食事の準備をなさい」
「人…」
「わっちがわざわざ教えたのだ。出来ぬとは言わせぬ」
「出来ます!ボク、頑張る」

男を起こさぬよう声を潜めながらも、犬は神を見てはっきりと頷いた。
男の役に立とうと、自分から教えを請うたのだ。犬には出来ないなど言うつもりも、思ってさえもいなかった。

「よろしい。なれば、わっちは少し出る。留守中、それに何かあればその首、胴と切り離す故に心する事だな」
「大丈夫。ゴシュジンは守ります。今度こそ、絶対に」

噛みしめるように呟けば、神はそれ以上は何も言わず。
何も出来ぬ己の無力さに歯がみして、神に従い教えられるままに澱みを喰らったその従順さを、少しばかりは認めているからだ。
犬から視線を逸らす。
だが言い残した事を思い出し、振り向かすに口を開く。

「それが目覚めても、寝所からは出さぬように。無理を通すようであれば、眠らせなさい。それには休息が必要です」
「分かりました。ゴシュジン、最近は頑張りすぎてたから、しっかり休んでもらわないと」

今回の事がなくとも、男には休息が必要なのは犬の目にも明らかだった。
家事に、社の管理に、金銭を得るためのいくつかの仕事。
ここ数日の男の忙しない一日を思い返して、犬はしみじみ頷いた。

「社周りの化生を一通り狩り終えたら戻る。貴様にもいくつか残しておく故、後で狩るように」

それだけを言い残し、神の姿がゆらりと揺れて消える。
気配が完全に消えたのを確認して、犬は強張らせていた体の力をようやく抜いた。

「やっぱ、怖い。でも頑張らないと」

存在自体が畏怖するものではあるが、犬に必要だったすべてを請えば教えてくれるほどの優しさはある。

「今度はちゃんと守るから。今はゆっくり休んでね、ゴシュジン」

束の間ではあるが、ゆっくりと休んでほしい。
そのためにも、もっと出来る事を増やしていかなければ、と。
穏やかに眠る男を見て、犬は強く頷いた。



20241009 『束の間の休息』

10/8/2024, 10:42:46 PM

「どちら様でございましょうか」

無感情な眼に見据えられ、どう答えるべきかを思案する。

満ちる月が照らす夜。
辺りには何もなく、目の前の袿姿の幼子以外には誰もいない。

「幼子が斯様な夜半に何をしている?」

問いには答えず、別の問いを返す。
答えが返らぬ事に対してか、それとも問いで返された事に対してか。幼子は無感情な眼を細め、口元に笑みを浮かべた。

「あなた様も幼子に変わりはないでございましょうに。異な事を仰られる」

あぁ、ですが、と、歌うような囁きが、鼓膜を揺する。

「あなた様は先の人のようでございますね。そしてわたくしの呪の残滓が感じられまする」

幼子の言葉に乗せた呪に、体を縫い止められる。
身じろぎ一つ出来ぬ己の頬に、幼子は愛おしげに触れ。

「なれば、あなた様はわたくしのものにございましょう」

作られたものではない、美しい微笑みを浮かべた。

意識が揺れる。
幼子の眼が、声が、触れる熱が、境界を曖昧にしていく。

「お前のものでは、ない」

声を出す。否定する。
強く、力を込めて。
絡みつく蜘蛛の糸を、振りほどくように。

「今の、お前のものではないよ」

言葉を、繰り返す。

「そうでございますね。貴様には、まだ早い」

声と共に、感じる浮遊感。
幼子とは異なる男の腕に抱き上げられ、安堵に力が抜けた。
おとなしく身を委ねれば、幼子の微笑みは消え無感情な眼に見上げられる。


「先のわたくしですか。その姿、母上はお亡くなりになられましたか。あるいは、蜘蛛が滅びたのでしょうか」
「貴様には早いと言うたであろうに。ですが、それに敢えて是と答えましょうか」

幼子の問いに吐き捨てるように答えを返し、酷薄な笑みを浮かべ。
それに気分を害して眉根を寄せたその表情に、かつての彼はこんな表情も出来たのだなと、場違いな事を思った。

「さて、戻ると致しましょうか。これ以上、見苦しいものを見せる訳にはいきませぬ故」
「見苦しい、ですか。先のわたくしは、随分と粗暴になられたようで」
「真の事にございましょうや。己を偽らねばならぬほど弱く、惨めな存在など、見苦しくてたまりませぬ」

随分な物言いだ。
幼少の頃の自身に対して、評価が厳しすぎるのではないだろうか。
眼に怒りを宿し、唇を噛みしめる幼子を見る。
綺麗だと、素直に思う。童女のような身形ではあるが、逆にそれが彼の美しさを際立たせている。
思う所はあるのだろうが、やはり見苦しいなどとは思えずに。
疲労に働かぬ思考で、深く考えもせずに思った事を口にした。

「私はきれいだと、思う。今も、昔も。きれいで、美しい」

動きが止まった。
呆れたように溜息を吐かれ。虚を衝かれたように幼い深縹の瞳が瞬いた。
ざり、と。
土を踏み締め幼子が近づき、腕を伸ばす。
だがその腕は、届かない。
幼子が近づけば、逆にその距離が開いていく。

「何度も言わせないでくださいまし」
「いずれわたくしのものになるのであれば、今のわたくしがもらっても良いではありませぬか」
「戯れ言を。母の骸の下で死んでから、出直して参れ」

ざわり、と風が舞い上がる。
月が歪み、世界が滲む。
くらりと目眩にも似た感覚に目を閉じ縋れば、宥めるような指先が髪を梳き、頬を撫ぜた。

遠くなる幼子の声を聞きながら、またいずれと胸中で束の間の別れを告げた。



目を開ければ、無数の星が瞬く夜空の下、二人きり。

「満月《みつき》。言葉は力を持ちます故、軽率に紡ぐものではありませぬ」

見上げた術師は、何とも言えぬ複雑な表情をしている。
呆れればいいのか、怒ればいいのか、はたまた喜べばいいのか。
様々な感情が入り交じる深縹に、初めて見るなと半ば感心しながら手を伸ばす。
頬に触れ、深縹を真っ直ぐに見返して。

「本当のことを言って何がわるい。満理《みつり》はきれいだ」

力を込めて言葉にすれば、見つめる深縹が柔らかく笑んだ。

「満月には殺されてもいいのかもしれませんね」

歌うような囁きに、意図が見えず困惑する。

「満理、それは」
「土蜘蛛の男は、契った妻に殺されるが定め。私の母はそれに抗い、私を女と偽って育てましたが…ああして母に望まれるままに女に成ろうとする己を見れば、無様としか言いようがありませぬ」
「そんなことはないだろう」

かつての己を嘲り逸れる視線を、頬を包み込む事で遮り。
僅かに見開かれた目を見据え、口を開く。
傷つき壊れ、頑なになった彼に届くよう、言葉に思いを乗せる。

「なんどでも言おう。満理はきれいだ。母のために生き、主のために生きた満理のその様を。その想いを、私は何よりきれいだと思う。それは満理があいされてきたことを示すものだからだ」

息が切れる。
体が重く、力が抜けていく。

「つかれた。なんだ、これは」
「術師でなき者が、軽率に言葉を紡ぐからにございましょう。自業自得です」

呆れたように息を吐き。
だが、だらりと腕が落ち弛緩する体を、抱きしめられる。強く、力を込めて。けれど壊さぬように、優しく。
離れぬように。

「愚かな満月。暫し眠りなさい。何も視えぬ程、深く」

促され、見つめる深縹が揺らぐ。
落ちていく意識に、抗う事なく目を閉じる。

「私の箱庭を照らす月。籠から逃げ出し蜘蛛の糸に絡め取られた、憐れな雛鳥よ。兄弟に飼われていた方が、幸せでしたでしょうに」

けれど。
哀しい響きを纏うその声に、目は開けぬままに口を開く。

「ばかな満理。私がえらんだんだ。私のしあわせを、かってにはかるな」

呟いて、意識を落とした。



20241008 『力を込めて』

10/7/2024, 3:58:06 PM

「誕生日おめでとう、俺」

薄暗い部屋。ベッドの上。
膝を抱えて呟いた。
どうして、と幾度目かの疑問を溜息と共に溢す。
あれからどれだけの時間が経ったのか。あとどれくらいここにいれば出られるのか。
ベッドの向こう側。無駄だと思いながら、手を伸ばす。
遮るものはない。見えてはいない。
けれど、
暖かく、柔らかく。
見えない壁が手を阻む。ベッドと部屋を区切っている。

朝にはなかったものだ。
目覚めて、部屋を出て。
父と朝食を取り、急に呼び出されて仕事へと向かうその背を見送った。

出られたのだ。普通に、何の障害もなく。
だから何の気にもせず、部屋に戻り。
休日の早朝。出かけるにしてもまだ早い、と。
寂しい気持ちをいつものように蓋をして。もう一寝してから、これからどうするのかを考えようと、ベッドに飛び込んだ。

そうして、気づけば見えない壁に囲まれて、ベッドから出れなくなっていた。


かさり、と。
項垂れる自分の前に、上から紙が落ちてくる。
素人目でも分かる、上質な紙だ。鼻腔を擽る墨の匂いに紙を広げれば、文字が書き付けてあるのが薄暗い室内でもはっきりと分かった。

「読めない」

だが、哀しいかな。
達筆すぎるくずし字は、文字と認識出来るのがやっとで、何が書いてあるのかなど分かりはしない。

ぱさり、と。
今度は上から花が振ってきた。
オレンジ色のバラの花。一本の茎に五本の花を咲かせている。
何故、と首を傾げ。上を見上げて。

――待たせたね。

誰かの声と共に、手を引かれ。

世界がくるり、と反転した。



「いやぁ、すまないね。思ったよりも準備に手間取ってしまったよ」

楽しげな声と明るい光に、思わず閉じていた目を開ける。目の前の不思議な景色に、目を瞬いた。

「庭、だよな?」

いつもの自宅の庭、のようだった。
けれど花が、咲いていた。
咲き終わったはずの花も、まだ蕾すらつけていなかったはずの花も。
季節問わず、庭のすべての花が、咲き乱れていた。

これは母が愛した、窓の向こう側の世界だ。
ふと、そんな事を思った。

「説明もなく待たせてすまなかったね。驚かせようとしたのだが、寂しい思いをさせてしまったようだ」
「誰?」

背後から聞こえる知らない声に、振り返る。
やはり知らない、美しい誰かが優しい目をして笑っていた。

「なに、ただの通りすがりだよ。気まぐれにこの庭に訪れる年寄りさ」

年寄り、と自称してはいるが、父とさほど変わらないように見える。

「まあ、気にするな。それより皆が主役をお待ちかねだぞ」

にやり、と笑われ、背中を押される。
思わず足を踏み出して。
風に舞い上がる花びらが、雨のように、雪のように振ってくる。

――お誕生日、おめでとう。

木々の上から、草花の合間から、祝う声が聞こえてくる。笑う子達に手を引かれて、促され。蔓で編まれた椅子に座った。

木の葉が風と踊り、雲が絵を描く。
雨音が澄んだ音色を響かせて、木々が朗々と歌い上げる。
極彩色の鳥から渡された、籠の中の木の実は、甘く瑞々しく。
何故だろう。その味は母を思い起こさせた。

綺麗な景色が、滲む。
息が詰まり、しゃくり上げて。
自分が泣いている事に気づいた。

「好きなだけ泣くといいぞ。母御を喪って寂しいだろうに、今までよく頑張った」

偉い偉い、と褒められる。
いい子いい子、と撫でられて。
止める事が出来なくなった涙が、閉めていた気持ちの蓋を開いてしまう。

寂しい。悲しい。苦しい。
折角の誕生日なのに、どうして誰もいないの。
約束したのに、どうして置いていくの。
置いていかないで。一人にしないで。
どうか、どうか。

一緒に、連れて行って。


「うんうん。寂しいな。悲しいな。ずっと我慢をしてきたものなぁ。過ぎ去った日を、手の届かない過去を母御の部屋に閉じ込めて。父御のために尽くしてきたのは、褒められるべき事だ。儂らがたぁんと褒めてやろうなぁ」

だから、と滲む世界が囁く。
慈しむような、暖かな光に包まれる。

「閉じ込めたものを吐き出してしまえ。儂らが受け止めてやろう。そうしてすべて吐き出したなら、母御と父御と三人、笑い合った日々を思い返すといい。幸せな過去を想い、眠ると良いぞ」
「ど、して」

どうして。
どうして、そこまで心を砕いてくれるのか。

――だいすきだから。
――笑ってほしいから。
――一緒にいたいから。

しゃくり上げながら呟いた一言に、応える声はどこまでも優しい。

「この庭に好かれるよい子には、与えられて然るべきものだろう?どれ、折角のめでたき日だ。儂が言祝いでやろうなぁ」

世界が揺れる。
ゆらゆらと、穏やかに。
揺り籠のような暖かさに、意識が揺れる。

「目が覚めれば、父御が戻っているだろう。二人で誕辰の祝いの続きをするといい」

目を手で覆われて、滲む世界が暗くなる。
怖くはない。この暗闇は暖かだ。
揺らされて、包まれて。
母が亡くなったあの日から、初めて。

夢も見ないほど深く、眠りに落ちる事が出来た。





帰り道をただ急ぐ。
急に呼び出され、出る事になってしまったと話した時の息子の顔を思い出す。
無理に作った笑顔に、胸が締め付けられた。
無理をさせている。あの日からずっと。
妻を喪ってから、あの子は自分の意思を伝えなくなった気がする。過ぎていく日々に、あの子の作った笑顔を何度見た事だろう。
元より周囲に気を遣う、優しい子だ。無理をさせてしまっている事が心苦しい。
もっと我が儘になってもいいだろうに。
だがそれを伝えた所で、大丈夫だと、またあの作った笑顔を見せるのだろうが。

「ただいま」

ドアを開け、声をかける。
返事がない事に、僅かに不安が過る。
靴はある。出かけてはいないはずだ。
急くように、息子の部屋の前まで向かう。

こんこん、と。
ノックをしても返る言葉はない。
僅かだったはずの不安が大きくなり、躊躇いながらもドアを開けた。

「寝ているのか」

ベッドで穏やかに寝息を立てる息子の姿に、詰めていた息を吐く。
開いた窓から差し込む、明るい日差しの中で眠る息子の表情は、妻がいた頃のようにあどけない。
思わず笑んで近づけば、眠る息子の傍らに一枚の紙とバラの花が落ちている事に気づく。
紙を手に取り見れば、今時珍しいくずし字で書かれたもののようだった。
申し訳ないと思いながらも、目を通す。

息子の誕生日を祝う文字。
生まれてきた事を、生きていてくれる事を喜ぶ、純粋な気持ちが綴られていた。

紙を元に戻し、バラを見る。
オレンジのスプレーバラ。一つの茎に五つの花。
花言葉は『幸多かれ』。そして『あなたに出会えて本当によかった』。

「そうか。息子は愛されているんだな」

妻が愛した庭の、自分には見えないモノ達。
彼らの贈り物なのだと、何故かそう思った。
息子は一人ではない。愛してくれるモノがいる。
それが人か人ならざるモノかなど、些細な事だ。

誕生日のお祝いの最後に、庭にいる彼らの話を聞いてみるのも良いのかもしれない。
過ぎてしまった日の、彼女の言葉を想う。

――この子はきっと、わたしたち以外にもたくさん愛されて育つわ。負けていられないわね。

その意味を、ようやく理解する事が出来た。

窓に向かう。
そこから見える、庭に向けて。

深く、深く礼をした。



20241007 『過ぎた日を想う』

10/6/2024, 11:20:03 PM

彼女の式は、生きているのだという。
人の形を取っている事だけではない。
中身が、式を構成する核が人のそれである、と。
ならば、それは最早式ではなく。
それは言葉にするのも悍ましい、最悪の外法だ。
それ故に、彼女は幼き頃から疎まれ、忌み嫌われ。
呪われ続けているのだといわれていた。



虚ろな式に、意思が宿り始めたのはいつの頃からか。
否、それは正確ではない。
意思はあった。ただそれが、今まで器を通して表に出なかっただけの事。
それの意味を理解した時、周囲の悪意に抗う事を止めた。

ようやくだ。

ここまでに費やした時間は、想定していたものよりも長くなってしまった。だが、それでも長すぎるという訳でもない。
傍らに座る式を見る。
虚ろに悲哀を浮かべるその瞳に、そんな顔をしないでくれと、自由に動かせなくなってきた手を必死に伸ばした。

どうか悲しまないで欲しい。
ようやく願いを叶える事が出来るのだから。
生きたい、と。
あの日藻掻いた小さな手に、これで応えられる。

伸ばした手を取られ、口付けられる。
その熱を感じる事が出来ぬのが、ただ口惜しい。

彼の背越しに広がる夜空をぼんやりと見つめ。ふと、昔に聞いた星座の話を思い出す。
記憶を辿り見る空に、暗い星の集まりを認め、あぁ、と声が漏れる。

善悪を計る天秤。

この身に宿るそれを計ったとするならば、やはり悪に傾くのだろう。
それでも構わない。確かに端から見れば、これは外法であり、禁術だ。
故に人は誹り憎み、排除するべきと死の呪いを放つ。
抗う事を止め呪いに蝕まれた体は、冬を越す事なく朽ちて行くのだろう。

小さく笑みを浮かべる。
置いていく事に僅かな寂しさと不安があるが、できる限りの事はした。
この体が終われば、彼は目を覚ます。
そういう術だ。共に生きる事は叶わない。
あとは、ただ。
これから先に訪れる、人となるであろう彼の生が実り豊かなものであればと願うだけだ。





静かに眠る彼女の頬に触れた。
その冷たさに、唇を噛みしめる。

朧気な意識が鮮明になり、己の意思で体を動かせるようになった日。
人となった彼が最初に行ったのは、彼女を連れて空間を閉じる事だった。
彼女と共有していた記憶ではなく、本能で歪を作り上げた。

「お姉ちゃん」

その呼び方が適切かは分からない。
どちらが最初か、知るよしもない。
だが産まれたのは彼女一人だったのだから、これで構わないはずだ。

これからどうするべきか。
彼女は人として生きる事を望んでいたが、彼女なくして生きるつもりは毛頭ない。
すれ違う想いを正せぬまま、こうして最悪を迎えてしまった事に歯がみする。

生きたい、と。
藻掻いたのは確かだ。しかしそれに続く想いを、彼女は最後まで知る事はなかった。

生きたい、ふたり一緒に。

願いはそれだけだ。
彼女がいないのであれば、意味がない事だ。

空を見上げる。
閉じたその日から動きを止めた夜空に、明るい星の集まりを認め、知らず睨み付けた。

神の子達。不死の体を持つ弟と、持たぬ兄。

兄の死後、弟は父である神に、己の不死を兄に分け与えたいと願ったのだという。果たしてその願いは聞き届けられ、彼らは星座に召し上げられて永久に共に在る。
彼女は生を分けはしなかった。
彼女はその生をすべて与え入れた。自身のために、一滴も一欠片も残そうとはしなかった。
もしも彼女が、空で寄り添うあの弟のように不死であったならば。或いは共に生きる先があったのかもしれない。

星から目を逸らし、眠る彼女を見る。
今更だ。もしもを想像したとして、今ここにいる彼女が目を覚ます事はない。

「お姉ちゃん」

呼ぶ声に返るものはない。

「一緒にいられるのなら、影の中でも、式の中でも、それで幸せだったんだよ」

言葉は、彼女に届かない。
ならばせめて、と。
冷たい彼女と寄り添って眠りにつく。
生まれる前。母の揺り籠の海にいた時のように。

双子として生まれるはずだった二つの命は、けれど生まれ落ちたのは一つだけだった。
人として生まれた彼女。いくつかの欠片を残すのみで、人の形すら持たなかった彼。
その彼の生きたいという願いに、生まれる彼女は手を伸ばし、自身の影の中に収めた。
そして時を経て、影から式へと依代を移し、人へと生まれた彼は今、こうして生を拒んでいる。
藻掻き伸ばした手を掴んだ彼女を拒んでいる。
それは彼の本意ではなかったが、彼女のいない世界にたった一人で生きられる程、彼は強くはなかった。

いずれ終わりは来る。
時を止めたこの場所が、永久になる事はない。
術師ではあるが人でしかない彼には、この歪を形成し続ける事が出来はしない。
それでいい、と思う。
力尽きた時か、外から暴かれた時か。
どちらにせよ、それは彼の終わりを意味する。
それでいい。それがいい。
彼女の側で終わる事が出来るのなら、それはなんて幸せな事だろうか。
穏やかに笑む。彼女と手を重ねて、繋ぐ。
訪れる終わりは、彼にとっての希望であり、救いだった。

ただひとつ。
もしも願う事があるとするならば。

次の生こそ、一緒に。

ただそれだけだ。



20241006 『星座』

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