「やめて。来ないで。嫌だってば!」
「そんなに嫌がる事はないだろう。前は喜んでいたじゃあないか」
「だから!それは子供の時の話だって!」
部屋の中を逃げ回る。
悲しげな表情に心が痛むが、だからといって捕まるわけにはいかない。
「何を言う。おまえはまだまだ子供だろうに」
呆れて息を吐くその姿に、思わず唇を噛みしめる。
分かっている事であるが、それでもまだ子供としてしか見られていない事が悔しかった。
あとどれくらい歳を取れば、大人として認めてくれるのか。
「ほぅら、捕まえたぞ。鬼事は終いにして、湯浴みをしようなぁ」
「やだっ。離して、変態じじい!」
彼から意識を逸らしていたせいか、抱き上げられて逃げられない。
嫌だと暴れても全く意に介さない様子に、じわりと危機感が首を擡げた。
「そこまで言う事はないだろうに。そんなに儂と湯浴みをするのが嫌なのか?」
「一人で入りたいの!いつまでも子供扱いしないで」
半ば叫ぶように伝えれば、渋々ながらも下ろされる。
安堵に深く息を吐き、荒くなった呼吸を整える。
ちらりと横目で様子を伺えば、隠す事なく不満を表した表情がはっきりと見えた。
目が合うと眉を下げ、悲しい顔をされる。
この顔は駄目だ。弱い事を知っていて、敢えてするのだから質が悪い。
絆されないようにと、慌てて目を逸らす。
「もう一人でお風呂にも入れるし、一人で寝る事だってできるんだから。何も出来なかった子供じゃない」
世話を焼かれるばかりの子供ではないのだと繰り返す。
きっと彼には伝わらないのだろうけれど。それでも、伝えないままには出来ない。
「おまえは子供だよ」
「子供じゃない」
「子供さ。大人になろうと、必死で背伸びをしている可愛い子。親の庇護を失って、巣立つ事も出来ず。飛び方も知らずに、空へと手を伸ばして藻掻いている。哀しい、愛しい、子供だよ」
頬に触れられ、目を覗き込まれる。
一言一言、言い聞かせるように紡がれていく言葉に、彼の瞳の中の自分の顔が歪んでいくのが見えて。
聞きたくないと身を捩っても、手が離れない。
逸らそうとしても、眼が逸らす事を許さない。
「強情を張るな、愛い子。子供は子供らしく、儂に世話を焼かれていろ」
静かではあるけれど強い言葉を、否定する事は出来なかった。
「さて、では湯浴みをしようなぁ。さっきの鬼事で汗をかいただろう」
機嫌良く目が細まり、抱き上げられる。
いい子、と背を撫でられあやされながら、向かう先を見るともなく見る。
良くはない気もするが、彼が満足そうであるならば、それでいいのではないか。
微睡む意識の隅で、そういえばどこへ向かうと言っていたのかを思い返し。
途端に鮮明になる意識に、全力で抵抗した。
「だからっ!一人で、入るってば!」
耳元で叫び、頭を叩けば、さすがに堪えたのか緩んだ腕から抜け出し距離を取る。
危なかった。もう少しで流されてしまう所だった。
睨み付ければ、ちっと舌打ちをされる。
「そのまま流されてくれれば良いものを」
「変態!馬鹿!もう、あっち行って!」
「何がそんなに嫌なんだ。儂が嫌いにでもなったのか?」
「そうじゃない!一緒に入るとか、そんなの…は、はしたない、だろうに!」
力一杯に叫ぶ。
きょとり、と目を瞬かせて。そうか、と頷き笑う。
「そんな些事なぞ気にするな。お互い見慣れているだろう?」
「気にするから!見慣れてる、見慣れてないとかの話じゃないから!」
「そうか?なればそうだな…儂が女の体になれば問題はないか?」
「それはそれで、問題しかないからっ!」
何を言っているのだろうか。理解が追いつかない。
反射で否定すれば、彼は拗ねたような表情で未練がましくこちらを見つめてくる。
けれど、その表情はすぐに柔らかいものへと変わり、ふんわりと微笑んだ。
「我が儘め。だが子供とは皆、我が儘なものだ。ここは儂が折れるとしようか」
仕方がない、と手を伸ばして頭を撫でられる。
「何かあれば、すぐに声を上げるのだぞ。あぁ、だが溺れてしまっては声が出せんか。やはり共にいた方が、」
「溺れない!一人で入って溺れた事なんてないから!」
「今までが問題ないからといっても、絶対ではないからなぁ」
妥協を見せたというのに、すぐに撤回しないでほしい。
「落暉《らっき》」
頭を撫でている手を取る。
大人として認めてくれないのならば、彼の望むようにするだけだ。そうして、うまく扱えばいい。
子供らしくはないな、と認めてもらえず、拗ねた心が苦笑したようだった。
「お風呂上がりに、何か甘いものが食べたい。作って」
手を握り、強請る。
それだけで彼の表情は明るくなるのが分かった。
「そうか!なれば今から作ろうなぁ。何がいいか。夕餉もあるから、軽いものがいいな」
「夕ご飯は、なめこのお味噌汁にして」
さらに上機嫌になった彼の手を離す。
「お風呂、行ってくる」
「気をつけて行っておいで。作り終えたら、迎えに行こう」
「手抜きはしないで。ちゃんと作って」
「急に我が儘になりおって。いいぞ。おまえがまだ食べた事のないものを作ってやろう」
最後にもう一度頭を撫でて、彼は風呂場とは正反対の方へと向かう。
台所へと行くのだろう。
彼の背を見送って、安堵の息が漏れた。
何とか危機は脱したようだ。
しかし、ふと気づく。
「世話を焼くって…もしかして、ご飯食べさせられたり、寝かしつけされるって事?」
想像して、羞恥に顔が赤くなる。
幼い頃にされた彼の言う世話を思い出し、耐えきれずにしゃがみこんだ。
「早く、大人になりたい」
大人になりたいだなんて、そう思う事こそ子供のようだと感じながらも。
切に願わずにはいられなかった。
20241014 『子供のように』
誰もいない教室で一人、迎えを待っている。
窓の外から聞こえる運動部のかけ声。吹奏楽部の練習の音。
何一つ変わらない。いつもの放課後だ。
一人足りない事を、誰も気に留める事などいない。
存在しないとはこういう事かと、どこか呑気に考えながら、使う者のいない机の縁をそっとなぞった。
窓の外を見遣れば、赤い空が段々に色を黒に染めている。
すっかり日が沈むのが早くなってしまった。こうして待つ時間も、少しずつ短くなっていく事だろう。
椅子を引き、腰掛ける。
誰からも気に留められない、この机の前の席は、自分の席だ。
席に座り、後ろを振り返って色々な話をした事が、遠い昔のように思える。実際には、二月ほどしか経っていないというのに。
ふふ、と思わず笑う。過去を懐かしむなど、大人のような気がして可笑しくなってしまった。
「夏休みは大分濃かったから、待つ時間はこれ位がちょうどいいのかもね」
誰にでもなく呟いて、伸びをする。
待つのは嫌いじゃない。
約束をした彼女を信じているから。
彼女は彼女ではなくなるのだと言われた。神との契約によって、新しくなるのだとも。
正しく理解は出来なかった。
だから会いに行った。会って、時間の許す限り話して。
そして約束をした。
今度は会いに来てほしいと。待っていると。
待つのは嫌いじゃない。
時間が掛かる事など、分かっている。
覚えていないだろうと言われたのだ。自分の事だけを忘れず会いに来てくれるなど、都合の良いおとぎ話を信じたりはしない。
けれど、約束をしたから。
きっといつか思い出して、会いに来てくれると信じている。だから、待っているこの時間は、嫌いではなかった。
「そういえば、学生の時はここで待てるけど、卒業になったらどうしよう。いっそ留年した方がいいかな」
「それはやめて。というか、なんでそういう選択肢が当たり前のように出てくるの」
誰にも拾われる事がないであろう呟きに、返る言葉。
呆れたような、懐かしい声音。
「えっ?なんで?」
教室の入り口。声のした方を見ると、約束をした彼女が呆れた顔をして立っていた。
「なんでって、約束したからに決まってる」
慌てて駆け寄ると、小さく笑われる。
姿もその表情も、変わらない。
理解が追いつかず、頭にたくさんの疑問符を浮かべると、彼女の笑顔が、少し困ったようなものへと変わる。
「なんで?てっきり年単位で待つんだと思ってたのに」
「なんでだろう。割とすぐに思い出せたんだよね」
「なにそれ。あたしの覚悟をどうしてくれる。でも、早く来てくれたおかげで、留年するかどうかの究極の選択はなくなったから良かったけど」
「だから、なんでその選択肢が当たり前のように出る」
はぁ、と溜息を吐かれる。
そんな所も変わらない。夏休みが訪れる前に戻ったようだ。
「なんか、変わらないね。もっとこう、きらきらしてたり、すごい美人になったりとかも想像して、会えても分かるか少し心配だったんだけど」
「人並みで悪かったね。これでも新しくなったんだけど。元の体は厳重に封印されてしまったから」
だろうな、と頷いた。
普通の人には耐えられない程の呪を抱えて、長い年月を生きてきたのだと聞いた。
新しくなるならば、その呪とやらもなくなってしまうのだろう、むしろなくなってしまえと思っていたのだから、何の不満もない。
けれど、彼女はその肯定を別の意味で捉えたようだった。
「外側も中身も変わってしまったから、会うべきか悩んだのだけれど。一応約束だったからね」
来た事を申し訳なく思っているようなその表情に、むっとした。
頬を両手で包んで、目を合わせる。
「変な勘違いをしないで。約束する時に言ったけど、人でも呪でも関係ないの。外側がぐちゃぐちゃしてようが、中身がどろどろだろうが、あたしの親友なんだから、堂々とあたしの側にいればいいの」
目を逸らさず言い切れば、どこか幼い瞳が不思議そうに瞬く。
変わっていないように見えたが、どうやら新しく生まれたのは確からしい。
そんな事を思いながら名前を呼ぼうとして、まだ新しい名前を聞いていなかった事に気づいた。
「名前。まだ聞いてなかった。教えてくれる?」
頬から手を離し問いかければ、彼女はとても嬉しそうに笑う。
名前を聞かれるのが、それを答えるのが幸せだと、彼女の笑顔が告げていた。
「黄櫨《こうろ》」
黄櫨。新しい彼女の名前。
音の響きでしか分からないはずのそれが、正しく認識出来て少しだけ苦笑する。
名付けた神の主張の激しいその名に、呆れに似た感情が浮かんでしまう。
彼女が幸せである限りは、言葉にする事はないだろうけれど。
「じゃあ、黄櫨。改めて、会いに来てくれてありがとう。これからもあたしと親友でいてくれる?」
「もちろん。これからもよろしく、曄《よう》]
くすりと、どちらからともなく笑い合う。
「おかえり、親友。ここにはどれくらいいられるの?」
「ただいま、親友。卒業まで一緒にいられるよ。人らしく生きるのが、神様の望みだからね」
手を差し出せば、当たり前のように手を重ねて繋ぐ。
待っていた日常が戻ってきた。
それが嬉しくて、繋いだ手を揺らしてもう一度声を出して笑った。
202401013 『放課後』
気づけば、三方を白のカーテンに覆われたベッドで眠っていた。
起き上がり、あれ、と首を傾げる。少し前の記憶を辿る。
本を読んでいたはずだ。
寝付けずベッドから抜け出し、夜の音を聞きながら。
いつの間にか眠ってしまったのか。それで様子を見に来た父にベッドへと運ばれたのか。
それにしても、このカーテンは何だろう。
月に照らされているのか、その仄かな光を白が強調し、まるで映画のスクリーンのようにも見える。
ぼんやり眺めていれば、不意に目の前のカーテンに影が浮かび上がる。
曖昧なその形は、次第に輪郭をはっきりとさせ、髪の長い女性の人影を取った。
「眠れないの?」
小首を傾げて、影は聞く。
「今日はたまたま、だよ」
答えるが、きっとばれているのだろう。
「俺を運んでくれたのは、誰?」
「お父さま。ずっと起きていたから、桧にお願いして香りを届けたの。眠ってしまったあなたを運んでもらったのよ」
ごめん、と謝ろうとすれば、それを遮るように影が首を振る。
謝るのは違う。そう言われたような気がして、出かけた言葉を呑み込み、改めて口を開いた。
「いつもありがとう」
「どう致しまして。あなたが元気で笑っていてくれるのならば、それでみんなが幸せになれる」
影の歌うような囁きに、何だか照れくさくなってしまって、思わず視線を逸らした。
庭にいる、人ではない彼らはいつも優しい。
その優しさに返せるものはあるのかと、優しさをもらう度に少しだけ不安になる。
「何かお返しが出来ればいいのに」
「言ったでしょう。笑ってくれていればいいの」
「それだけで、本当にいいの?」
「そうよ。でも、そうね」
影が背後を振り返る。
ひそひそと話す声に、皆いるのかと小さく笑ってしまう。
何を話しているのだろう。声は小さくうまく聞き取る事が出来ない。
暫くして影がまたこちらに向き直る。
影の表情は分からないけれど、何故か笑っているような気がした。
「あなたがもっと我が儘になってくれれば嬉しい。我慢をしないで、何でも話してくれたらいいのにといつも思っているの」
そうだそうだと、影の背後でたくさんの声が同意する。
「どんな些細な事でもいいの。嬉しいとか、楽しいとか。感じた事を話してくれたら、みんなも嬉しいし楽しくなる。寂しいとか、悲しいとか。吐き出してくれれば、安心するのよ」
「迷惑じゃない?」
「まさか。一人で耐えているのを見ているだけの方がつらいわ」
「言ってもいいの?」
「言って。何でもいいから。どんな些細な事でもいいから、みんなにお話しして」
そっか、と言葉を溢す。
うまく言葉に出来ない気がしたが、それでもいいよと言われているようで。
皆に促されるようにして、口を開いた。
「目を閉じると、母さんが出てくる。あの日の、寝ているような母さんを思い出す。寝ているんだって思って声をかけても、全然起きなくて。肩を触ったらすごく冷たくて」
涙は出ない。悲しい訳ではない。
それでも思い出してしまう。その自分でもよく分からない溜まった思いは、分からないからこそ名前をつけられず、誰かに話す事も出来ないと思っていた。
「このまま寝たら起きられるのか、とか。一人は寂しいだろうな、とか考えて。考えるから、目が冴えて。そうすると眠れなくなる。ずっと」
「そう。考えてしまうの。じゃあ、」
――考えなくてもいいように。
しゃん、と。どこからか、鈴の音。
音に合わせて、影がくるりと回る。
くるり、ふわり、と綺麗なステップを踏んで、踊り出す。
「きれい」
影が舞うのに合わせて、笛が高らかに音を響かせる。
鈴と、笛と。それから、左右から聞こえる弦の音は三味線か。
気づけば、左右のカーテンに様々な影が現れ、緩やかな曲を奏でていく。
曲に合わせて影が舞う。
ひらり、くるり、と影の舞に目を奪われて。
ふわり、くらり、と意識が揺らぐ。
いつしか微睡んで。体が揺れて、瞼が重くなっていく。
「眠る事は怖くはないでしょう。大丈夫、明日は必ず訪れる」
背中を暖かな手に支えられ、ゆっくりとベッドに寝かされて。
大丈夫、の言葉に、抵抗する事なく目を閉じる。
母の姿は見えなかった。
――おやすみなさい。可愛い子。
誰かの声。
ありがとう、と心の中で呟いた。
20241012 『カーテン』
午後の穏やかな日差しが、眠気を誘う。
閉じそうになる瞼を、微睡む意識を繋ぎ止めるため、頭を振った。
それでも、少し経てばまた瞼は重く、微睡んで。
仕方がないと、読んでいた本を閉じた。
これはもう、少し眠ってしまった方が良いだろう。
欠伸をひとつして、伸びをする。
本を手に立ち上がると、丁度良く兄が帰宅したみたいだった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつものように挨拶を交わせば、穏やかに笑んで挨拶を返してくれる。
しかし、その笑みはこちらを認識して、訝しげなものへと変わった。
「泣いていたの?」
側に寄り、目尻を拭われる。
さっき欠伸をした時だろう。その指先についた滴に、またかと苦笑し首を振る。
「本、読んでたら暖かくなって、眠くなってきちゃった」
「夜更かしするからだろう」
「そんな事ないと思うけどなあ。ちゃんと日付が変わる前にはベッドに入ってるよ」
兄はいつもこうだ。
心配性で、過保護。
昔から少しでも泣けば、すぐに側にきて心配し、泣く原因を取り除こうとする。
まるで、泣く事を恐れているみたいだった。
その心配が、いつからか息苦しくなる時があり、以前よりも兄が苦手になってしまっていた。
だから進学を機に、兄から離れようと一人暮らしを選択したはずなのに。
何故か一緒に暮らす事になってしまった理由は、未だによく分からない。
「でも、最近夜中に起きているじゃあないか。眠れないの?」
気づかれていたのか。
どうしようかと、表情には出さずに悩む。
正直に嫌な夢を見ると言う気にはならなかった。
眠れるようにとあれこれ世話を焼かれるのも嫌だし、言って夢の内容を詳しく聞かれるのも嫌だ。
「早く寝過ぎちゃってるのかも。もう少し起きていようかな」
「そんな訳ないだろう。途中で目が覚めるというなら、悪い夢でも見ているのかな」
「どうだろう。よく覚えてないから分かんないや」
相変わらず、兄は鋭い。
曖昧に笑って誤魔化すが、おそらくそれすらも分かっているのだろう。
小さく息を吐く。兄から少しだけ視線を逸らして。
「兄さんがいつまで経っても独り身だから、それが心配なのかもね」
嘘でも、本当でもない答えを呟いて、自室へと戻った。
目はすっかり冴えてしまっていた。
今日もまた、同じ夢を見る。
暗い部屋。
その奥に積み上がる、たくさんの同じ顔をした人形達。
目の前の、無表情の兄。
「なぜ」
冷たい指先が、目尻をなぞる。
「なぜ、泣く」
指先を濡らす涙は、止まる事はなく。
声もなく、表情ひとつ変えずにただ涙を流す。
もう、これしか出来ないからだ。
声もなく、四肢の自由もない自分には、もうこれだけしか意思を伝える術がない。
「また失敗か」
無機質な声音。
涙で濡れた手が首を掴み、そのまま引きずられていく。
部屋の奥。さらに深い暗がりに積み上がる人形の数が、また一つ増えた。
いつまで繰り返すのだろうか。
すでに兄の目的は達せられたはずだ。
彼女を取り戻すために、代価品として元のこの身を燃やしたのは兄だろうに。
何故、今更。
燃え滓を集めた所で、元には戻る事など決してない。
記憶をかき集めた所で、それが命になる事などあるはずがない。
分かっているだろうに。どうして認めようとしないのか。
兄の去った部屋。
静寂の中、涙を流す。
悲しいのか、苦しいのか。今はもう、その理由は擦り切れ思い出す事はない。
積み重なる、たくさんの失敗作の自分達が、声もなく泣いている。
部屋を濡らす涙は嵩を増し、それはいつしか部屋を沈めていく。
悲しみも、苦しみも、寂しさも。身も心もすべてを涙は鎮め解かしていく。
願わくは、兄がこの部屋を忘れ、二度と戻る事がないように。
苦海に永く沈む事のないように。
無意味と知りながらも、思わずにはいられなかった。
目が覚めた。
まだ空は暗く、朝は遠い。
溢れ落ちる涙を拭い、息を吐いた。
いつからか見るようになった夢。
最初は、逃げ出した。部屋から出る事は出来たが、それだけだった。
次は、歩く事が出来ず、床を這いながら逃げようと足掻いた。小さな舌打ちと共に視界が暗転した。
何度も繰り返す夢。夢だと笑い飛ばす事は、もう出来なくなっていた。
体を起こそうとして、止める。
顔を洗いに行きたいが、兄に気づかれる訳にはいかない。それよりはと、体を起こす事なくもう一度目を閉じた。
こんこんと、扉を叩く音。
「大丈夫?」
「寝てるんだから、起こさないでよ」
かちゃりと、扉が開く音がして、兄が入ってくる。
「まだ入っていいよって、言ってないよ」
「ごめんね」
軽い謝罪に、いつもそうだと愚痴を溢す。
戻る気配のない兄に、体を起こして何、と要件を尋ねた。
「目が覚めたみたいだから。ほら、タオルを持ってきたから、目を冷やして。腫れてしまうよ」
準備の良すぎる兄に思う所はあれど、素直に渡されたタオルを目に当てる。
冷えたタオルの心地良さを堪能していれば、兄の静かな声が鼓膜を揺すった。
「どんな夢を見た?」
忘れた、と言葉にするのは簡単だ。
けれどそれを、兄が許してはくれないのだろうと、そう思った。
「兄さんがいつまでもお婿に行かないで、ずっと部屋に籠もってお人形遊びをしている夢」
何それ、と困惑を含んだ声。
それに、正夢にはしないでね、と呟いた。
20241011 『涙の理由』
赤く艶やかな果実を一つもぎ取る。
しゃり、と音を立てて囓れば、広がる甘酸っぱさに目を細めた。
今年も無事に実りを迎える事が出来た。
上等だ。きっと満足してもらえるはず。
そう思えば、緩む口元を押さえる事が出来なかった。
手をかけてきたものが、こうして最良の結果を伴って応えてくれる。この瞬間が、何よりも好きだ。
たわわに実る種々の果実も。
一面に広がる黄金の稲穂の海も。
心を躍らせ、目を楽しませてくれる。
しゃり、とまた一口果実を囓る。
ふふ、と声には出さずに笑んで。
瑞々しさを咀嚼し、甘露を嚥下する。
また一口、と口にしようとして。
「あぁ、今年もよく実っているなぁ。実にうまそうだ」
しかし背後から聞こえた声に、手を取られてかなう事はなかった。
しゃり、と手にした果実を囓られる音がする。
「うん。やはりうまいな」
穏やかな声に、硬直する。
一呼吸置いて、じわじわと全身に巡る熱に、慌てたように身を捩った。
「ちょっと、勝手に食べるな」
「いいじゃあないか。少し前までは、儂の膝の上で喜んで食わせてくれただろうに」
「それは小さい時の話だろうに。いつまでも引きずるな、じじい」
「すっかり口が悪くなってしまって。儂は悲しいぞ」
まったく悲しげなそぶりも見せない、笑いを含んだ声音。
さらに熱が駆け巡り出すような錯覚に、耐えきれずに逃れようと暴れ出す。
だがその反応すらも楽しむように、腰に手を回され体を引き寄せられ、いとも簡単に抵抗を封じられてしまう。
「ちょっ、と。離せ、こら。このっ、変態!」
「酷いなぁ。大きくなったら儂のお嫁さんになると、あれだけ言ってくれていたのになぁ」
「だからっ、それは小さい時の話でっ!」
触れている体に、呼吸がうまく出来なくなってくる。
胸の鼓動が忙しなく、巡る熱が動けない体の代わりに暴れ出す。
後ろにいてくれて良かった。今のこの顔を見られずにすんでいるのだから。
恥ずかしくて、うれしくて、死んでしまいそうだ。
「おまえが育てたものは実にうまいな。あやつに引けを取らん。あやつが常世を渡り心配ではあったが、おまえは実によくやってくれているよ」
しゃりしゃり、と果実を食べる音。
合間に囁かれる言葉に、暴れていた熱が勢いを少しだけ殺し、胸の痛みを生み出した。
「寂しくはないか。一人で泣く事はなくなったと聞いているが、我慢はするなよ。溜め込まずに、儂らに吐き出してしまえ」
「別に、我慢なんてしてないし。一人でも、大丈夫だから」
熱が勢いを殺していく。
胸の痛みが強くなり、きゅっと唇を噛みしめた。
恥ずかしい気持ちも、うれしい気持ちも凪いでしまい、虚ろな残り滓が澱みのように溜まっていく。
「強情者め。一体誰に似てしまったのだろうな」
呟く声は、珍しく少し寂しげだ。
「一人にしているからか。それならば」
芯まですべて平らげて、ようやく手を離される。
けれどそれを寂しいと思うより早く、くるりと体を反転させられ、抱き上げられた。
久しぶりに見る変わらぬ姿に、間近で見る顔に、凪いでいた気持ちや熱が再びこみ上げてくる。
澱みが一瞬で流されていくのを感じた。
「なっ!?」
「前のように、儂が世話を焼いてやろうなぁ。食事も湯浴みも任せておくとよい。夜は眠れるまで話をしてやろう」
あやすように揺らされながら、歩き出す。
家に戻るのだろう。懐かしいと、微笑むその横顔に、文句は言えず。
「あやつは母でありながら、子を育てる事にはとんと向いていなかったからなぁ。儂らがおらんかったら、今頃おまえはここにいなかったかもしれん」
「お母さんの悪口は、やめて」
確かにそうではあるけれど、と思いながらも否定する。
仕方がない事だ。人には向き不向きというものがある。
それに、正確には子育てに向いていないというわけでもない。
ただ張り切れば張り切るほどに空回りをして、惨事を引き起こしていたというだけだ。
「それと、まだやる事がたくさんあるから、下ろして」
「収穫ならば、出来るモノが他にいるだろう。たまには休む事も必要だぞ」
それに、と懐かしむように、期待に心躍らせるように、彼は子供のようなきらきらした表情で笑う。
「久方ぶりにおまえの世話が焼けるのだ。儂の密やかな楽しみに付き合ってはくれないか?」
「…ずるい。収穫、楽しみにしてたのに。いやと言えなくしないで」
「ならば、明日は一緒に収穫しようなぁ」
益々笑顔になる彼から顔を背け、小さく馬鹿、と呟いた。
顔が熱い。体の熱が、ぐるりと巡る。
待ち望んだ、年にこの時期だけの特別な瞬間は。
結局は、彼と一緒に過ごす一時の喜びに負けてしまうらしい。
「さて、夕餉は子らに頼んで沢で魚でも捕ってもらうか。最近は食事が疎かになっていたとも聞く。そこはあやつに似らんでくれよ」
歌うような囁きに、肯定も否定もせずに目を閉じる。
とんとん、と背を優しく叩かれ、寝かしつける心地良さに微睡んで。
踊るような鼓動の高鳴りに、気づかれぬように一人笑った。
20241010 『ココロオドル』