燃えるように赤い夕焼けに向かい、ひとり歩いて行く。
辺りには誰もいない。
これはきっと夢の中なのだろう。だから誰も居らず、この場所に見覚えもないのも納得が出来る。
どこから来て、どこへ行こうとしているのか分からないのも、きっと夢の中だからだ。
無理矢理納得して。足を止めずに歩き続ける。
随分長い間歩いている気もする。目の前の夕焼けも、少しずつ赤から紺へと色を染め変えている。
ふと後ろが気になった。
立ち止まり、振り返ろうかとも思ったが、思っただけだった。結局は立ち止まる事もなく、振り返る事さえなく歩いていく。
薄暗さはあるものの、まだ日の赤は鮮やかだ。
しかしそれは前方、見えている部分だけの事。
おそらく後方の、見えていない影の部分では、すでに夜に染められて形を失っているのかもしれない。
そんな想像に苦笑して。
早く目が覚めれば良いのに、と只々目覚めを待った。
歩く先。佇む誰かの影が見えた。
影は動かない。だが影に向かって歩いているために、その距離は段々と短くなっていく。
近づくにつれ、姿形がはっきりと見えてくる。体格からして女性。髪の長い、小柄な女の人。
それでもその影の顔は、近づいても一向に分からない。影が彼女の顔を隠してしまっている。
誰そ彼時。
昼と夜の混じり合う時間。
人と魔がまみえる、禍を呼び寄せる時間。
果たして彼女は人なのか、魔なのか。
少しだけ、歩みが遅くなる。
恐怖からではない。
これは夢だ。醒めれば消えてしまう、一時の幻だ。
ならば、彼女を恐れる理由はない。
彼女はきっと――
「誰ですか?」
彼女を前に、少しだけ距離を開けて立ち止まる。
この時間特有の言葉をかければ、彼女は小さく笑ったようだった。
「元気そうね。安心したわ」
柔らかな声音。
その声を、知っている。
「母さん」
「お父さんと仲良くやっていけてるかしら?お話するのも、いつもわたしを介しているのだもの。心配だわ」
くすくすと、笑う声。
記憶にある少女のような可憐な姿が、鮮やかに思い浮かぶ。
彼女は、母は、離れても変わらないようだ。
「心配ないよ。最近は何かと一緒にいる時間が増えたし。話す事も増えた」
「そうなの?良かった。ちゃんとお話できていて」
「母さんの方は?何かあった?」
こうして夢の中にまで出てくるくらいだ。何かあったのだろうか。
だが母はゆるゆると首を振り、否を示す。
「記憶の一部を飛ばしているだけよ。わたしはもう、眠っているもの」
「そうなの?」
「そうよ。少し心配だったから。あなたはわたしによく似てしまったもの」
眼の事だろうか。
父や他の人とは異なるものを視る眼は、確かに厄介な事はあるが、今はそれを気にする事などほとんどなくなっている。
だから、と心配させないように笑ってみせる。
「大丈夫。庭の子たちは優しいのが多いから。助けてもらう事もあるし。今はもう大丈夫だよ」
「そう。良かったわ。あの子たちと仲良くなれていたのなら、心配はなさそうね」
「そうだよ。だから安心して。父さんの事も任せてくれていいよ、母さん」
戯けてみせれば、ひとつ頷いてほぅ、と息を溢した。
安堵してくれたのだろう。ならばそろそろ行かなければ。
「じゃあ、もう行くね。いつまでも寝てたら、父さんが心配するから」
「元気でね。無理はしちゃ駄目よ」
「分かってるよ。母さんこそ、元気で…は、おかしいか。どっちかって言えば、よく寝てね、とか?」
上手な言い回しが出来ずにいれば、母は確かにね、と笑う。
それでいい。もうたくさん泣いたのだから。今は笑顔で別れるのが一番いいと、そう思う。
「振り返っては駄目よ。隠されてしまうわ。真っ直ぐ前だけを見ていてね」
「うん。それじゃあ、さよなら」
「さようなら」
母に別れを告げて、再び歩き出す。
振り返る事はしない。
追いかけたりはしない。
父が待っているのだから。
目が、醒めた。
ベッドから抜け出して、そのままリビングへと向かう。
「おはよう。父さん」
「あぁ、おはよう。珍しいね、寝坊するなんて」
「ちょっとね」
曖昧に笑う。
長い夢を見ていた。寝坊はきっと、そのせいだ。
目が覚めて、父に会いたくなったのも、きっと。
「おや?」
何か気になる事があるのか。
少し険しい顔をした父が、側に来て目尻をなぞる。
「泣いていたのか?」
「ん。少し、夢を見てたから」
涙を拭う手が、今度は優しく頭を撫でる。
嫌な夢か、と聞かれるが、よくは覚えていない。
夢なんて、そんなものだ。
「顔を洗っておいで。朝食にしよう」
穏やかな声に促され、頷いてリビングを出た。
顔を洗って、それから着替えてしまおうか。
ふと、窓から見える空の青が目にとまる。
雲ひとつない快晴だ。そこに赤や紺の色はどこにもない。
当たり前の事が、何故か今、寂しいと思ってしまった。
20241002 『たそがれ』
したん、したん、と尾が枝を打つ。
「おい」
「分かっている」
蜘蛛の言葉にただ一言返し、それでも猫は木の上から動こうとはしなかった。
「最初から分かってた事だろうが」
「分かっていると言っている。猫は全部分かっている」
分かっていると繰り返しながらも、猫の尾は益々激しく枝を打つ。
あからさまな機嫌の悪さに、蜘蛛は疲れたように息を吐いた。
「あいつは元々神の眷属になる事が決まってんだ。今更駄々をこねんな」
「駄々はこねていない。今日の銅藍《どうらん》は少し意地悪だな」
ふいと蜘蛛から視線を逸らす。
したん、と一際強く尾を揺らし、木の幹で爪を研ぎ始めた。
だがいくら爪を研いだ所で、猫の気分が晴れる事はない。
低くうなりを上げてめくれた樹皮を噛み千切り、下にいる蜘蛛へと吐き出して。嫌そうに頭を振る蜘蛛の顔面めがけて飛び降りた。
「っぶね。八つ当たりすんなよ、日向《ひなた》」
すんでで猫が顔面を足場にするのを躱した蜘蛛は、それでも猫が怪我をしないようにと抱き留める。
たしたし、と今度は蜘蛛の顔面を打ち始めた尾を避けながら、片割れがよくするように不器用ながらも猫の顎を擽り宥めた。
「何がそんなに嫌なんだよ。あいつを連れ帰れない事か?それとも眷属になる事が気に入らないのか?」
「壱《いち》の明日が、今日に続くものでないのが気に入らない!」
「何だ、それ?」
猫の言わんとする事が分からず、困惑に眉根を寄せる。
その横顔をしたん、と尾で打って、猫は不満げに鼻を鳴らした。
「壱の中身がきらきらしたもので満ちてきたのに。それをあの縄の奴が全部なくして、真っ白にされるのが嫌だ!気に入らない!きっと悪趣味な名をつけて、閉じて囲ってしまうに違いないぞ、あれは」
鼻息荒く、気に入らぬのだと力説する。
完全な偏見ではあるのだろうが、蜘蛛にはそれに対して否定とも肯定とも着かぬ、曖昧な反応しか返す事が出来なかった。
あの神ならばやりかねない。
猫と蜘蛛の神に対する印象は、概ね同じものである。
と。
不意にがさりと草木が揺れた。
「何してるの?」
別に行動していた蜘蛛の片割れが、二人のじゃれ合いに首を傾げながら近づく。
「問題なく終わったよ。全部予定通りだ」
「なんだ。あの人間達は壱を引き止めなかったのか。薄情め!」
最初から分かっていた結果に、気に入らぬと猫の尾が蜘蛛を打つ。
何事もなく無事に終わる事が出来たのだから、本来ならば喜ばしい事だ。しかし、やはり気に入らぬものは気に入らぬ。
先ほどまでのやりとりを知らぬ蜘蛛は、困惑した表情で片割れに視線送り説明を求めた。
「あいつがあの神に名付けられて、作り替えられる事が気に入らんらしい」
「だってそうだろう!苦しいも悲しいもあるが、それでも今日までのたくさんのきらきらを抱いた壱が、あれの悪趣味な名ひとつで全部ない事になるんだ。それで真っ白の壱を自分好みに育て上げていくんだぞ、きっと。悪趣味で気に入らん!」
疲れた顔で首を振り猫を手渡す片割れに、蜘蛛は納得したように頷いた。
手慣れた様子で猫を抱き、喉を擽る。
それだけで大分落ち着きを取り戻した猫に、蜘蛛は笑って確かにね、と猫の言葉を肯定した。
「悪趣味かどうかはともかく、自分のものだという主張は激しそうだよね、彼」
「そうだろう!壱が可哀想だ。あんなのにいいようにされる明日なんて、きらきらが何ひとつない暗闇だぞ」
ふんすふんすと猫は鼻を鳴らして抗議する。だが先ほどまで激しく揺れていた尾は、蜘蛛に撫でられている今はとても緩やかだ。
「そんなに嫌なら攫ってこようか?あの子、望まれたから応えただけみたいだし」
「そうなのか。だが」
優しく微笑む蜘蛛を見、疲れた顔をしながらも何も言わないもう一人の蜘蛛を見る。
蜘蛛は猫を否定しない。本気ではないだろう言葉であるが、きっとそれに是を返せば蜘蛛は動いてくれるのだろう。
だが、しかし。
考えて、猫は静かに首を振った。
「今の壱は否定しなかったのだろう?ならば連れてきても、壱は嫌がるだけだ」
猫の答えに、蜘蛛の笑みがさらに優しくなる。
気に入らないが、とまだ不満が残る猫を撫でて、たぶんだけれど、と囁いた。
「きっとね。あの子の今日は明日に続いていくよ。すべてがなくなるわけじゃない。あの子の本質は、どんなに名で縛っても否定しても、残り続けるだろうからね」
「そうだな。あいつはずっと餓鬼のままだ。見た目を成長させて大人を模倣した言動を身につけた所で、結局はあの死ぬはずだった七つのちっぽけな餓鬼でしかない」
「そうか。残るものはあるのか。なら、いい」
頷いて、蜘蛛の手に頭をすり寄せる。
昨日があり、今日を迎え。そして明日に続いていく。
誰にとっても当たり前を、短い間ではあったが猫の子となった娘も当たり前であり続ける。
娘の煌めく純粋さを思い、猫は安心したようにゆるりと尾を揺らし喉を鳴らした。
「悪いようにはならないよ。周りが彼を止められるだろうし、あの子には友達もいるようだしね」
「あの、煙たい奴を連れてきた人間か」
少し前、社に突然現れた緋色の妖を連れた人間を思い出す。
強い光を湛えた目をした勝ち気な人間は、短時間で娘を泣かせ笑わせ、そして約束を取り付けた強者だ。
確かにあの人間ならば、娘を閉じたりせずに外へと連れ出す事だろう。人間がいる限り、娘が一人になる事もない。
そこまで考えて、何だか眠くなってきてしまった。
猫は難しい事を考えるのが、苦手なのだ。
「眠いの?」
「普段は何も考えず行動するのに、無駄に考えるからだろ」
穏やかに、呆れながら、けれど猫を撫でる蜘蛛達の手はどちらもとても優しい。
益々強くなる眠気に欠伸をひとつもらしながら。
「壱が寂しくならないのなら、猫はもう文句はないぞ。帰ろうか、銅藍。瑪瑙《めのう》」
二人を促し、目を閉じた。
「そうだね。帰ろうか」
「ったく。しばらくはゆっくりさせてくれ」
歩き出す蜘蛛の腕の中。
ゆらゆらと揺れて、微睡んで、笑う。
きっと、明日は晴れる事だろう。
けれどきっと、明日も蜘蛛と猫は共に在る。
続いていく明日のその先も変わらない。
それはとても幸せな事だ。
猫の子だった娘もそうであれ、と。
猫はオヤとして、そう願っている。
20241001 『きっと明日も』
暗い部屋の中、坐禅を組む。
狭く何もないこの部屋は、耳が痛いほどにとても静かだ。
それも当然か。此処はそういう場所なのだから。
息を吸い、吐く。ただそれだけを繰り返す。
ひとつ、ふたつ、と頭の中で数を数え。幾度十を数えた事だろう。
それでもまだ心は落ち着かない。雑念ばかりが頭の中を巡り巡る。
寺社であるならば、警策を受ける事も出来るだろう。だが此処は寺社ではなく、地上でもない。
――ひとつ。ふたつ。
形だけでもと、崩れそうになる姿勢を正す。
――みっつ。よっつ。
外部の音は聞こえない。水が音を通す事はない。
――いつつ。むっつ。ななつ。やっつ。
姿勢を正しても、雑音に煩わされる事のない環境を整えても。
やはり心はざわついたままだ。凪ぐ事のない感情が雑念となって、思考を乱す。
――ここのつ。
息を吐く。感情の澱みを吐き出すように、長く。
――とお。
息を吸う。吐き出した分を取り戻す。
戻ってくる息と雑念に、結局は無駄な事だった、と半眼で見続けていた黒い仏に僅かに笑みを浮かべてみせた。
姿勢を崩し、緩く体を左右に揺らす。
正式な坐禅ではないのだから、合掌低頭する必要はないだろう。
息を吐く。小さな気泡がゆらゆらと上り、天井をすり抜け消えていく。
それを見送って、視線を戻し。変わらず佇む黒い仏にどうしよう、と声なく語りかけた。
答えはない。穏やかな、まるで眠っているようにも見える表情をして、黒い仏は黙したままだ。
帰りたくないな、と心の内で呟く。そろそろ帰らなければ、と非情な現実に泣きそうだった。
事の起こりは単純だ。
当主と比べられる事に疲れてしまった。ただそれだけの事。
特に当主の側仕えである男は、口癖のように当主との差異を指摘し、心安まる暇などありはしない。
そもそも人の脆い体を有している自身と比べる事が間違いなのだ。他の誰よりも短い年月で朽ちるはずのこの身を、道理をねじ曲げてまで留める事に意味はないだろうに。
後継など、他の兄弟だけで決めればいい。
思い出して、憂鬱な気分に肩を落とす。
側仕えの男から逃げ出して、男の辿り着けないこの場所まで来たが、ずっとこのままという訳にもいかないだろう。
静寂の支配するこの場所で、少しでも心を落ち着ける事が出来たならばと期待していたが、結局それも徒労に終わってしまった。
それならば今すぐにでも戻るべきである事が最善であるが、その先を思えば途端に体が重くなる。
本当にどうするべきか、と黒い仏に縋るように視線を向けるが、やはり何も答えはなかった。
不意に肩を引かれる。
振り返れば、長い髪を揺らした女の姿。困ったように眉根を寄せて、上を指さした。
どうやら迎えが来てしまったようだ。
一度頭を振り、のろのろと立ち上がる。
黒い仏に別れを声なく告げて、女に促されるままに部屋を出て上がり、水面に顔だけを出した。
浜辺を見る。
腕を組み仁王立ちしている側仕えの男を視界に入れて、嘆くように呻きを上げた。
「行きたくない。完全にお怒りだ、あれは」
「でも行って。そうじゃないと、私が怒られるもの」
「じゃあ、一緒に怒られて」
「嫌よ」
往生際が悪いとは思えど、遠くからでもはっきりと分かる不機嫌を露わにした男の元に戻る決心は中々に付かず。迎えに来た女に共に戻る事を頼むが、すげなく断られてしまう。
――と。
とぷん、と背後から何かが上がる音がした。
嫌な予感に、慌てて振り返る。
「な、んで着いてきちゃったかなぁ!?」
黒い仏がどこか申し訳なさげに、顔だけを出してこちらを見ていた。
「や、着いてきてもいいけどさ。何で何も言わないで来るかな!?ああぁ、ほら!水圧で目玉が飛び出してるっ!」
びろん、と飛び出した両目に、慌てて近寄り無造作に押し込む。少しばかり雑ではあるが、戻ったのだから問題はない。
元に戻った両目に、ふぅ、と安堵の息を漏らす。
ぽすぽす頭を撫でられて、手を引かれた。向かう先が男の元だと気づいて思わず顔を顰めるが、仕方がないとおとなしく手を引かれるままに陸地に向かう。
「頑張ってね。自業自得だろうけれど」
手を振り去って行く女を恨めしげに睨みつつ。
近づく男との距離に、出かかる溜息を無理矢理に呑み込んだ。
「一緒に来てくれるのは、ありがとうだけど。やな感じがしたら、すぐに逃げるぞ。あいつ、笑顔でときじくのかくの木の実を無理矢理口に押し込むようなやばいやつだから」
正確には木の実ではなく、肉片を喰わされたのだが。
男を見、振り返る黒い仏は小さく首を傾げ、ゆるゆると頭を振った。
まあ確かに。これから怒られにいくものの態度ではないな、と少しだけ顔を引き締める。
変わらず男の視線は鋭い。だというのに、その口元には笑みが浮かんでいるのだから、本当に恐ろしいものだ。
息を吸い。息を吐く。
頭の中でひとつ、と数を数え。
無駄と知ってはいるが、せめてもの心構えとして。
心を落ち着かせる。荒れる感情を鎮めていく。
海の終わりはもうすぐそこだ。
20240930 『静寂に包まれた部屋』
目が覚めた。
転がるような勢いでベッドを抜け出し、部屋を出る。
誰に会いに行けばいいのかなど、分かりはしない。けれど、どこへ行けば会えるのかは、なんとなく分かるような気がした。
縁側からサンダルを突っかけて、庭を抜け裏手へと向かう。
今は立ち入り禁止のその場所で、あの子が待っている。そんな根拠のない確信を持って、朝焼けの薄暗い道を走り抜けた。
その場所に、彼女はいた。
小さな池。皆が眠る場所。
名前も思い出せない彼女に、走る勢いのまま抱きつく。
「会いたかった」
「うん」
離れないようにしがみつき、会いたかった、と繰り返す。宥めるように背を撫でる、その手が只々懐かしくて涙が滲む。
「忘れていて、ごめん」
「うん」
「一人ぼっちにさせて、ごめん」
「うん」
「私を救ってくれて、ありがとう」
「うん」
ずっと一人にさせてしまっていた、泣き虫な優しい子。未だに思い出せない事が歯痒くて、さらにきつくしがみつく。
謝罪と感謝の言葉一つ一つに相づちを打つ彼女の優しさに、心のどこかで安堵する。
思い出せなくても、彼女との関係をまた始められる。新しく始める事を彼女はきっと許してくれるはず。
だから、と期待を込めて、願いを口にした。
「これからは一緒にいるよ。一緒に返ろう」
あの夕暮れ時のように。
一緒に手を繋いで。
――けれど。
彼女は何も言わない。
一向に答えが返らない事に不安を覚えて、しがみつく手を緩めて少しだけ距離を開ける。
怒っているのだろうか。自分勝手が過ぎると、機嫌を損ねてしまったのだろうか。
恐る恐る彼女の顔を見る。涙でぼやけて、はっきりとは見えない。
それでも、確かに。
涙に滲む先で、彼女は静かに微笑っていた。
「な、んで…?」
空いた隙間を広げるように、背を撫でていた手に体を押される。
離れたくないと伸ばした手は、彼女が後ろに下がった事で空を切り、届かない。
それは、明確な拒絶だった。
「あなたは、彩葉《あやは》として生きていける。もう大丈夫」
何が大丈夫なものか。こうしてここにいるのに、触れる事だって出来るのに何故一緒にいてはいけない理由が分からない。
何故、の疑問を口にしようとして、けれど溢れたのは言葉にならない嗚咽だった。
流れる涙が、彼女の輪郭を溶かしていく。このまま消えてしまうのではという恐怖に、もう一度腕を伸ばし。
「彩葉」
静かな声と共に肩を引かれ、手が彼女に届く事はなかった。
「法師、様?」
何故、止めるのだろう。
彼も彼女を覚えていないから、こうして止めるのだろうか。
ならば教えなければ、と口を開きかけ。しかし彼女を覚えていない事を思い出し、さらに涙が溢れてくる。
「狂骨の元に、彩《さい》の名を与え、彼女に見立てた化生を与えました。定着した瞬間に繋がりを断ち切ったので、彩葉が狂骨に引かれる事はないでしょう」
彼の視線が彼女を捉える。
息を呑む音。驚きからか、それとも別の何かがあるのか。
「これで、ようやく法師様の望みに応える事が出来ました」
「やはりそうか。儂の過ちを背負わせてしまい、すまなかった」
どういう事だろう。彼女がいなくなった理由が、法師様なのだろうか。
頭を下げる法師様に疑問が浮かぶが、しゃくり上げながら泣く事を止められない今、それを尋ねる事は出来ない。
「帰ってきてくれるか?お前に施した呪は、何としても解くと誓う。だから」
「ごめんなさい、法師様。でも、あの時間違った言葉は返せるから」
法師様の言葉に、彼女は首を振って謝る。
そして、とても綺麗な笑みを浮かべた、ように見えた。
「ただいま。お父さん」
あぁ、と吐息に似た、か細い声が聞こえた。
「そう、だな。そうだった。お前はあの時言ったのだったな。――行ってきます。お父さん、と」
思い出した、と告げる法師様の声は震えていて。
泣いているみたいだ。
「お帰り、儂の娘。これ以上零したくはない故に、名を呼べぬ事を許してくれ」
「いいよ。大丈夫。もう大丈夫だから」
彼女の声は酷く穏やかだ。
こんな彼女は、知らない。覚えていない記憶の中の彼女との差異が、何故か怖い。
「行かないで」
「ごめんね」
必死に言葉にした願いは、謝罪の言葉で否定される。
どうして、と腕を伸ばしても、やはり彼女には届かなかった。
「神様と約束したから。すべてを見届けてさよならを言えたら、神様の眷属になるって」
「っ、そ、んなの。やだ。なんで」
穏やかに、彼女は残酷な言葉を紡ぐ。
「理由は何にしたかな。手が暖かかったとか、眼が綺麗だったとか。そんな感じだったはずだけど」
「理由なく、神と契約を交わしたというのか」
法師様の言葉に、彼女はそうだね、と肯定する。
「神様がそれを望んだ。契約とか、対価じゃない。神様自身が共にいる事を望んだから。だから応えた。それだけだよ」
空っぽだったからね、と彼女が笑う。
その笑い方は、やっぱり知らない人のようだ。
「そろそろ、お別れをしないと。あまり待たせるのもいけないだろうし」
「やだ。ぃやだ。嫌だっ!」
首を振る。嫌だと、必死に否定して。
それでも駆け出そうとする体は法師様に引き止められて、どうしても彼女の元へと届かない。
「帰ろうよ?ねえ、お願いだから。一緒に帰ろう?」
「彩葉」
名前を呼ばれる。彼女か法師様か、分からない。
どちらでも構わなかった。
帰れないのなら。一緒でないのなら、それに意味はない。
「彩葉」
優しい声。
頬を暖かな手に包まれる。
幼い子供のように駄々をこねる私を慰めるその熱に、動く事が出来なくなる。
「大丈夫。一人じゃない。一緒にいてくれる親友がいるでしょう?だから、もう彩でいる必要はないんだよ」
彼女の言葉が、体の中に広がって。じわじわと染みこんで、怖さも何もなくなっていく。
彩葉、と名を呼ぶ声が、大切な親友のそれと重なって聞こえた。
「繋がりはもうないけど、しばらく残るものはあるみたいだ。ごめんね。ここまで来てもらって」
手が離れていく。
けれど、先ほどみたいにすがる気持ちは凪いでいて。ぼんやりと離れていく彼女を、ただ見つめていた。
「彼女をお願いします」
「そうだな。弔い続けよう。彩葉を切り離してくれたのだ。これから先は、過ちを犯した儂のやるべき事だ」
彼女が笑う。
お別れだ。きっともう二度と会う事もない。
そして、いつしか彼女がいた事すら忘れて、生きていくのだろう。
少し寂しい気がした。けれど、だからこそ生きなければいけないと強く思った。
それを何よりも彼女が望んでいるだろうから。
「彩葉。お父さん」
朝の光を纏う彼女は、とても綺麗だ。
「ありがとう。さようなら」
綺麗な彼女が、綺麗な声で別れを告げた。
強く風が吹いて、彼女を連れて行く。
舞う葉の合間から見えたのは、幾重にも縄の巻かれた強い腕。
太陽よりも強い光を湛えた、金の瞳。
さらに強くなる風に、思わず目を瞑る。
それは一瞬の事。
次に目を開けた時。そこに彼女の姿はない。
青の空を見上げ、さようなら、と呟いた。
20240929 『別れ際に』
外に出ると、雨が降っていた。
空を見上げれば、分厚い雲。先ほどまでのからりとした青空は、どこにも見えない。
さて、どうしようか。辺りを見回し、考える。
傘など持ってきてはいない。途中で傘を買うとしても、この雨の強さでは、店に着くまでにずぶ濡れになってしまうだろう。
仕方がない、と覚悟を決める。幸か不幸か、家までは歩いて帰れる距離だ。このまま走って帰るしかないだろう。
「ねえ」
小さな、けれどもこの雨の音にかき消されないほどはっきりとした声が聞こえた。
「ねえ」
気づけばすぐ側に、傘を被った子供の姿。手には傘を持ち、恥ずかしげにもじもじとしながらも、期待を込めた眼差しでこちらを見上げていた。
「お迎え、来たよ」
「あ、うん。ありがと」
傘を受け取りながら、さりげなく周囲を確認する。
雨に気を取られ気づけなかったが、辺りには人一人居らず。そういう事か、と納得し、傘を差す。
傘を持っていない方の手を子供に差し出すと、満面の笑みを浮かべてその手に小さな手を重ねた。
「お父さん、お家にいるの」
「父さんが?珍しいな。何かあったっけ」
「お休み。出かけようって」
雨が強くなる。視界が煙り、傘を打つ雨の音が大きくなる。
けれど雨の音に声がかき消される事はなく。どこからか取り出した子供の持つ提灯が、仄かに帰り道を照らして道に迷う事もない。
手を繋いで歩きながら、目を凝らす。
雨の向こう側。傘も差さず、普段と何一つ変わらずに急く人々の姿が霞み見えた。
振り返ればきっと、突然の雨に慌てふためく様子が見える事だろう。
そう思うと無性におかしくなって、思わず笑みが溢れた。
「?楽しいの?」
「ん。何かさ。通り雨も、たまにはいいなって」
「雨!また、お迎え。行くの!」
にぱっ、と笑みを浮かべ、手にした提灯を振る。
さらに強くなる雨に、これ以上はと思いながらも、機嫌良く振られる提灯と鼻歌に何も言えず。
まあいいか、と鼻歌に合わせて繋いだ手を、軽く振って歩いて行く。
通り雨に振られて濡れる街の人々にとっては災難だろうが、誰かと一緒の帰り道もたまには悪くない。
「あめあめ、ふれふれ」
とうとう歌まで歌い出した子供に、遠い昔の母との帰り道を思う。
今はもう届く事のない淡い思い出に、少しだけ鼻の奥がツンとした。
「次は、もっと、たくさんのお迎えね。皆と、一緒」
「雨なのに、皆で来たら、大変でね?」
「じゃあ、次は違う子が、一番前ね。そしたら、雨でないの」
「ま、いいけどさ。そうなったら、何か百鬼夜行みたいだな」
「悪い子、いないから、いいの」
まあ、確かに。
彼らがぞろぞろ歩いていたとして、誰かに見咎められるわけでもなし。見られたとして、昔話のように死んでしまう訳でもない。
そもそも、深夜ではなく真っ昼間だ。明るい場所での彼らの行進は、恐ろしさの欠片もありはしない。
明るい日差しの中。ぞろぞろ歩いて迎えに来るだろう彼らを想像して、その滑稽さに声を上げて笑う。
つられて笑う子供に、さらにおかしくなって。何だか楽しくなってきてしまった。
「悪くないな、それ。楽しそうだ」
「皆一緒なら、楽しいの。いっぱいいっぱい楽しいの!」
「楽しいな。寂しいなんて、思う暇もないくらい」
手を繋ぐ、雨の帰り道。
笑いながら歩いていく。家までもうすぐだ。
20240928 『通り雨』