暗い部屋の中、坐禅を組む。
狭く何もないこの部屋は、耳が痛いほどにとても静かだ。
それも当然か。此処はそういう場所なのだから。
息を吸い、吐く。ただそれだけを繰り返す。
ひとつ、ふたつ、と頭の中で数を数え。幾度十を数えた事だろう。
それでもまだ心は落ち着かない。雑念ばかりが頭の中を巡り巡る。
寺社であるならば、警策を受ける事も出来るだろう。だが此処は寺社ではなく、地上でもない。
――ひとつ。ふたつ。
形だけでもと、崩れそうになる姿勢を正す。
――みっつ。よっつ。
外部の音は聞こえない。水が音を通す事はない。
――いつつ。むっつ。ななつ。やっつ。
姿勢を正しても、雑音に煩わされる事のない環境を整えても。
やはり心はざわついたままだ。凪ぐ事のない感情が雑念となって、思考を乱す。
――ここのつ。
息を吐く。感情の澱みを吐き出すように、長く。
――とお。
息を吸う。吐き出した分を取り戻す。
戻ってくる息と雑念に、結局は無駄な事だった、と半眼で見続けていた黒い仏に僅かに笑みを浮かべてみせた。
姿勢を崩し、緩く体を左右に揺らす。
正式な坐禅ではないのだから、合掌低頭する必要はないだろう。
息を吐く。小さな気泡がゆらゆらと上り、天井をすり抜け消えていく。
それを見送って、視線を戻し。変わらず佇む黒い仏にどうしよう、と声なく語りかけた。
答えはない。穏やかな、まるで眠っているようにも見える表情をして、黒い仏は黙したままだ。
帰りたくないな、と心の内で呟く。そろそろ帰らなければ、と非情な現実に泣きそうだった。
事の起こりは単純だ。
当主と比べられる事に疲れてしまった。ただそれだけの事。
特に当主の側仕えである男は、口癖のように当主との差異を指摘し、心安まる暇などありはしない。
そもそも人の脆い体を有している自身と比べる事が間違いなのだ。他の誰よりも短い年月で朽ちるはずのこの身を、道理をねじ曲げてまで留める事に意味はないだろうに。
後継など、他の兄弟だけで決めればいい。
思い出して、憂鬱な気分に肩を落とす。
側仕えの男から逃げ出して、男の辿り着けないこの場所まで来たが、ずっとこのままという訳にもいかないだろう。
静寂の支配するこの場所で、少しでも心を落ち着ける事が出来たならばと期待していたが、結局それも徒労に終わってしまった。
それならば今すぐにでも戻るべきである事が最善であるが、その先を思えば途端に体が重くなる。
本当にどうするべきか、と黒い仏に縋るように視線を向けるが、やはり何も答えはなかった。
不意に肩を引かれる。
振り返れば、長い髪を揺らした女の姿。困ったように眉根を寄せて、上を指さした。
どうやら迎えが来てしまったようだ。
一度頭を振り、のろのろと立ち上がる。
黒い仏に別れを声なく告げて、女に促されるままに部屋を出て上がり、水面に顔だけを出した。
浜辺を見る。
腕を組み仁王立ちしている側仕えの男を視界に入れて、嘆くように呻きを上げた。
「行きたくない。完全にお怒りだ、あれは」
「でも行って。そうじゃないと、私が怒られるもの」
「じゃあ、一緒に怒られて」
「嫌よ」
往生際が悪いとは思えど、遠くからでもはっきりと分かる不機嫌を露わにした男の元に戻る決心は中々に付かず。迎えに来た女に共に戻る事を頼むが、すげなく断られてしまう。
――と。
とぷん、と背後から何かが上がる音がした。
嫌な予感に、慌てて振り返る。
「な、んで着いてきちゃったかなぁ!?」
黒い仏がどこか申し訳なさげに、顔だけを出してこちらを見ていた。
「や、着いてきてもいいけどさ。何で何も言わないで来るかな!?ああぁ、ほら!水圧で目玉が飛び出してるっ!」
びろん、と飛び出した両目に、慌てて近寄り無造作に押し込む。少しばかり雑ではあるが、戻ったのだから問題はない。
元に戻った両目に、ふぅ、と安堵の息を漏らす。
ぽすぽす頭を撫でられて、手を引かれた。向かう先が男の元だと気づいて思わず顔を顰めるが、仕方がないとおとなしく手を引かれるままに陸地に向かう。
「頑張ってね。自業自得だろうけれど」
手を振り去って行く女を恨めしげに睨みつつ。
近づく男との距離に、出かかる溜息を無理矢理に呑み込んだ。
「一緒に来てくれるのは、ありがとうだけど。やな感じがしたら、すぐに逃げるぞ。あいつ、笑顔でときじくのかくの木の実を無理矢理口に押し込むようなやばいやつだから」
正確には木の実ではなく、肉片を喰わされたのだが。
男を見、振り返る黒い仏は小さく首を傾げ、ゆるゆると頭を振った。
まあ確かに。これから怒られにいくものの態度ではないな、と少しだけ顔を引き締める。
変わらず男の視線は鋭い。だというのに、その口元には笑みが浮かんでいるのだから、本当に恐ろしいものだ。
息を吸い。息を吐く。
頭の中でひとつ、と数を数え。
無駄と知ってはいるが、せめてもの心構えとして。
心を落ち着かせる。荒れる感情を鎮めていく。
海の終わりはもうすぐそこだ。
20240930 『静寂に包まれた部屋』
9/30/2024, 8:59:00 PM