したん、したん、と尾が枝を打つ。
「おい」
「分かっている」
蜘蛛の言葉にただ一言返し、それでも猫は木の上から動こうとはしなかった。
「最初から分かってた事だろうが」
「分かっていると言っている。猫は全部分かっている」
分かっていると繰り返しながらも、猫の尾は益々激しく枝を打つ。
あからさまな機嫌の悪さに、蜘蛛は疲れたように息を吐いた。
「あいつは元々神の眷属になる事が決まってんだ。今更駄々をこねんな」
「駄々はこねていない。今日の銅藍《どうらん》は少し意地悪だな」
ふいと蜘蛛から視線を逸らす。
したん、と一際強く尾を揺らし、木の幹で爪を研ぎ始めた。
だがいくら爪を研いだ所で、猫の気分が晴れる事はない。
低くうなりを上げてめくれた樹皮を噛み千切り、下にいる蜘蛛へと吐き出して。嫌そうに頭を振る蜘蛛の顔面めがけて飛び降りた。
「っぶね。八つ当たりすんなよ、日向《ひなた》」
すんでで猫が顔面を足場にするのを躱した蜘蛛は、それでも猫が怪我をしないようにと抱き留める。
たしたし、と今度は蜘蛛の顔面を打ち始めた尾を避けながら、片割れがよくするように不器用ながらも猫の顎を擽り宥めた。
「何がそんなに嫌なんだよ。あいつを連れ帰れない事か?それとも眷属になる事が気に入らないのか?」
「壱《いち》の明日が、今日に続くものでないのが気に入らない!」
「何だ、それ?」
猫の言わんとする事が分からず、困惑に眉根を寄せる。
その横顔をしたん、と尾で打って、猫は不満げに鼻を鳴らした。
「壱の中身がきらきらしたもので満ちてきたのに。それをあの縄の奴が全部なくして、真っ白にされるのが嫌だ!気に入らない!きっと悪趣味な名をつけて、閉じて囲ってしまうに違いないぞ、あれは」
鼻息荒く、気に入らぬのだと力説する。
完全な偏見ではあるのだろうが、蜘蛛にはそれに対して否定とも肯定とも着かぬ、曖昧な反応しか返す事が出来なかった。
あの神ならばやりかねない。
猫と蜘蛛の神に対する印象は、概ね同じものである。
と。
不意にがさりと草木が揺れた。
「何してるの?」
別に行動していた蜘蛛の片割れが、二人のじゃれ合いに首を傾げながら近づく。
「問題なく終わったよ。全部予定通りだ」
「なんだ。あの人間達は壱を引き止めなかったのか。薄情め!」
最初から分かっていた結果に、気に入らぬと猫の尾が蜘蛛を打つ。
何事もなく無事に終わる事が出来たのだから、本来ならば喜ばしい事だ。しかし、やはり気に入らぬものは気に入らぬ。
先ほどまでのやりとりを知らぬ蜘蛛は、困惑した表情で片割れに視線送り説明を求めた。
「あいつがあの神に名付けられて、作り替えられる事が気に入らんらしい」
「だってそうだろう!苦しいも悲しいもあるが、それでも今日までのたくさんのきらきらを抱いた壱が、あれの悪趣味な名ひとつで全部ない事になるんだ。それで真っ白の壱を自分好みに育て上げていくんだぞ、きっと。悪趣味で気に入らん!」
疲れた顔で首を振り猫を手渡す片割れに、蜘蛛は納得したように頷いた。
手慣れた様子で猫を抱き、喉を擽る。
それだけで大分落ち着きを取り戻した猫に、蜘蛛は笑って確かにね、と猫の言葉を肯定した。
「悪趣味かどうかはともかく、自分のものだという主張は激しそうだよね、彼」
「そうだろう!壱が可哀想だ。あんなのにいいようにされる明日なんて、きらきらが何ひとつない暗闇だぞ」
ふんすふんすと猫は鼻を鳴らして抗議する。だが先ほどまで激しく揺れていた尾は、蜘蛛に撫でられている今はとても緩やかだ。
「そんなに嫌なら攫ってこようか?あの子、望まれたから応えただけみたいだし」
「そうなのか。だが」
優しく微笑む蜘蛛を見、疲れた顔をしながらも何も言わないもう一人の蜘蛛を見る。
蜘蛛は猫を否定しない。本気ではないだろう言葉であるが、きっとそれに是を返せば蜘蛛は動いてくれるのだろう。
だが、しかし。
考えて、猫は静かに首を振った。
「今の壱は否定しなかったのだろう?ならば連れてきても、壱は嫌がるだけだ」
猫の答えに、蜘蛛の笑みがさらに優しくなる。
気に入らないが、とまだ不満が残る猫を撫でて、たぶんだけれど、と囁いた。
「きっとね。あの子の今日は明日に続いていくよ。すべてがなくなるわけじゃない。あの子の本質は、どんなに名で縛っても否定しても、残り続けるだろうからね」
「そうだな。あいつはずっと餓鬼のままだ。見た目を成長させて大人を模倣した言動を身につけた所で、結局はあの死ぬはずだった七つのちっぽけな餓鬼でしかない」
「そうか。残るものはあるのか。なら、いい」
頷いて、蜘蛛の手に頭をすり寄せる。
昨日があり、今日を迎え。そして明日に続いていく。
誰にとっても当たり前を、短い間ではあったが猫の子となった娘も当たり前であり続ける。
娘の煌めく純粋さを思い、猫は安心したようにゆるりと尾を揺らし喉を鳴らした。
「悪いようにはならないよ。周りが彼を止められるだろうし、あの子には友達もいるようだしね」
「あの、煙たい奴を連れてきた人間か」
少し前、社に突然現れた緋色の妖を連れた人間を思い出す。
強い光を湛えた目をした勝ち気な人間は、短時間で娘を泣かせ笑わせ、そして約束を取り付けた強者だ。
確かにあの人間ならば、娘を閉じたりせずに外へと連れ出す事だろう。人間がいる限り、娘が一人になる事もない。
そこまで考えて、何だか眠くなってきてしまった。
猫は難しい事を考えるのが、苦手なのだ。
「眠いの?」
「普段は何も考えず行動するのに、無駄に考えるからだろ」
穏やかに、呆れながら、けれど猫を撫でる蜘蛛達の手はどちらもとても優しい。
益々強くなる眠気に欠伸をひとつもらしながら。
「壱が寂しくならないのなら、猫はもう文句はないぞ。帰ろうか、銅藍。瑪瑙《めのう》」
二人を促し、目を閉じた。
「そうだね。帰ろうか」
「ったく。しばらくはゆっくりさせてくれ」
歩き出す蜘蛛の腕の中。
ゆらゆらと揺れて、微睡んで、笑う。
きっと、明日は晴れる事だろう。
けれどきっと、明日も蜘蛛と猫は共に在る。
続いていく明日のその先も変わらない。
それはとても幸せな事だ。
猫の子だった娘もそうであれ、と。
猫はオヤとして、そう願っている。
20241001 『きっと明日も』
10/1/2024, 11:30:16 PM