暗い部屋の中、坐禅を組む。
狭く何もないこの部屋は、耳が痛いほどにとても静かだ。
それも当然か。此処はそういう場所なのだから。
息を吸い、吐く。ただそれだけを繰り返す。
ひとつ、ふたつ、と頭の中で数を数え。幾度十を数えた事だろう。
それでもまだ心は落ち着かない。雑念ばかりが頭の中を巡り巡る。
寺社であるならば、警策を受ける事も出来るだろう。だが此処は寺社ではなく、地上でもない。
――ひとつ。ふたつ。
形だけでもと、崩れそうになる姿勢を正す。
――みっつ。よっつ。
外部の音は聞こえない。水が音を通す事はない。
――いつつ。むっつ。ななつ。やっつ。
姿勢を正しても、雑音に煩わされる事のない環境を整えても。
やはり心はざわついたままだ。凪ぐ事のない感情が雑念となって、思考を乱す。
――ここのつ。
息を吐く。感情の澱みを吐き出すように、長く。
――とお。
息を吸う。吐き出した分を取り戻す。
戻ってくる息と雑念に、結局は無駄な事だった、と半眼で見続けていた黒い仏に僅かに笑みを浮かべてみせた。
姿勢を崩し、緩く体を左右に揺らす。
正式な坐禅ではないのだから、合掌低頭する必要はないだろう。
息を吐く。小さな気泡がゆらゆらと上り、天井をすり抜け消えていく。
それを見送って、視線を戻し。変わらず佇む黒い仏にどうしよう、と声なく語りかけた。
答えはない。穏やかな、まるで眠っているようにも見える表情をして、黒い仏は黙したままだ。
帰りたくないな、と心の内で呟く。そろそろ帰らなければ、と非情な現実に泣きそうだった。
事の起こりは単純だ。
当主と比べられる事に疲れてしまった。ただそれだけの事。
特に当主の側仕えである男は、口癖のように当主との差異を指摘し、心安まる暇などありはしない。
そもそも人の脆い体を有している自身と比べる事が間違いなのだ。他の誰よりも短い年月で朽ちるはずのこの身を、道理をねじ曲げてまで留める事に意味はないだろうに。
後継など、他の兄弟だけで決めればいい。
思い出して、憂鬱な気分に肩を落とす。
側仕えの男から逃げ出して、男の辿り着けないこの場所まで来たが、ずっとこのままという訳にもいかないだろう。
静寂の支配するこの場所で、少しでも心を落ち着ける事が出来たならばと期待していたが、結局それも徒労に終わってしまった。
それならば今すぐにでも戻るべきである事が最善であるが、その先を思えば途端に体が重くなる。
本当にどうするべきか、と黒い仏に縋るように視線を向けるが、やはり何も答えはなかった。
不意に肩を引かれる。
振り返れば、長い髪を揺らした女の姿。困ったように眉根を寄せて、上を指さした。
どうやら迎えが来てしまったようだ。
一度頭を振り、のろのろと立ち上がる。
黒い仏に別れを声なく告げて、女に促されるままに部屋を出て上がり、水面に顔だけを出した。
浜辺を見る。
腕を組み仁王立ちしている側仕えの男を視界に入れて、嘆くように呻きを上げた。
「行きたくない。完全にお怒りだ、あれは」
「でも行って。そうじゃないと、私が怒られるもの」
「じゃあ、一緒に怒られて」
「嫌よ」
往生際が悪いとは思えど、遠くからでもはっきりと分かる不機嫌を露わにした男の元に戻る決心は中々に付かず。迎えに来た女に共に戻る事を頼むが、すげなく断られてしまう。
――と。
とぷん、と背後から何かが上がる音がした。
嫌な予感に、慌てて振り返る。
「な、んで着いてきちゃったかなぁ!?」
黒い仏がどこか申し訳なさげに、顔だけを出してこちらを見ていた。
「や、着いてきてもいいけどさ。何で何も言わないで来るかな!?ああぁ、ほら!水圧で目玉が飛び出してるっ!」
びろん、と飛び出した両目に、慌てて近寄り無造作に押し込む。少しばかり雑ではあるが、戻ったのだから問題はない。
元に戻った両目に、ふぅ、と安堵の息を漏らす。
ぽすぽす頭を撫でられて、手を引かれた。向かう先が男の元だと気づいて思わず顔を顰めるが、仕方がないとおとなしく手を引かれるままに陸地に向かう。
「頑張ってね。自業自得だろうけれど」
手を振り去って行く女を恨めしげに睨みつつ。
近づく男との距離に、出かかる溜息を無理矢理に呑み込んだ。
「一緒に来てくれるのは、ありがとうだけど。やな感じがしたら、すぐに逃げるぞ。あいつ、笑顔でときじくのかくの木の実を無理矢理口に押し込むようなやばいやつだから」
正確には木の実ではなく、肉片を喰わされたのだが。
男を見、振り返る黒い仏は小さく首を傾げ、ゆるゆると頭を振った。
まあ確かに。これから怒られにいくものの態度ではないな、と少しだけ顔を引き締める。
変わらず男の視線は鋭い。だというのに、その口元には笑みが浮かんでいるのだから、本当に恐ろしいものだ。
息を吸い。息を吐く。
頭の中でひとつ、と数を数え。
無駄と知ってはいるが、せめてもの心構えとして。
心を落ち着かせる。荒れる感情を鎮めていく。
海の終わりはもうすぐそこだ。
20240930 『静寂に包まれた部屋』
目が覚めた。
転がるような勢いでベッドを抜け出し、部屋を出る。
誰に会いに行けばいいのかなど、分かりはしない。けれど、どこへ行けば会えるのかは、なんとなく分かるような気がした。
縁側からサンダルを突っかけて、庭を抜け裏手へと向かう。
今は立ち入り禁止のその場所で、あの子が待っている。そんな根拠のない確信を持って、朝焼けの薄暗い道を走り抜けた。
その場所に、彼女はいた。
小さな池。皆が眠る場所。
名前も思い出せない彼女に、走る勢いのまま抱きつく。
「会いたかった」
「うん」
離れないようにしがみつき、会いたかった、と繰り返す。宥めるように背を撫でる、その手が只々懐かしくて涙が滲む。
「忘れていて、ごめん」
「うん」
「一人ぼっちにさせて、ごめん」
「うん」
「私を救ってくれて、ありがとう」
「うん」
ずっと一人にさせてしまっていた、泣き虫な優しい子。未だに思い出せない事が歯痒くて、さらにきつくしがみつく。
謝罪と感謝の言葉一つ一つに相づちを打つ彼女の優しさに、心のどこかで安堵する。
思い出せなくても、彼女との関係をまた始められる。新しく始める事を彼女はきっと許してくれるはず。
だから、と期待を込めて、願いを口にした。
「これからは一緒にいるよ。一緒に返ろう」
あの夕暮れ時のように。
一緒に手を繋いで。
――けれど。
彼女は何も言わない。
一向に答えが返らない事に不安を覚えて、しがみつく手を緩めて少しだけ距離を開ける。
怒っているのだろうか。自分勝手が過ぎると、機嫌を損ねてしまったのだろうか。
恐る恐る彼女の顔を見る。涙でぼやけて、はっきりとは見えない。
それでも、確かに。
涙に滲む先で、彼女は静かに微笑っていた。
「な、んで…?」
空いた隙間を広げるように、背を撫でていた手に体を押される。
離れたくないと伸ばした手は、彼女が後ろに下がった事で空を切り、届かない。
それは、明確な拒絶だった。
「あなたは、彩葉《あやは》として生きていける。もう大丈夫」
何が大丈夫なものか。こうしてここにいるのに、触れる事だって出来るのに何故一緒にいてはいけない理由が分からない。
何故、の疑問を口にしようとして、けれど溢れたのは言葉にならない嗚咽だった。
流れる涙が、彼女の輪郭を溶かしていく。このまま消えてしまうのではという恐怖に、もう一度腕を伸ばし。
「彩葉」
静かな声と共に肩を引かれ、手が彼女に届く事はなかった。
「法師、様?」
何故、止めるのだろう。
彼も彼女を覚えていないから、こうして止めるのだろうか。
ならば教えなければ、と口を開きかけ。しかし彼女を覚えていない事を思い出し、さらに涙が溢れてくる。
「狂骨の元に、彩《さい》の名を与え、彼女に見立てた化生を与えました。定着した瞬間に繋がりを断ち切ったので、彩葉が狂骨に引かれる事はないでしょう」
彼の視線が彼女を捉える。
息を呑む音。驚きからか、それとも別の何かがあるのか。
「これで、ようやく法師様の望みに応える事が出来ました」
「やはりそうか。儂の過ちを背負わせてしまい、すまなかった」
どういう事だろう。彼女がいなくなった理由が、法師様なのだろうか。
頭を下げる法師様に疑問が浮かぶが、しゃくり上げながら泣く事を止められない今、それを尋ねる事は出来ない。
「帰ってきてくれるか?お前に施した呪は、何としても解くと誓う。だから」
「ごめんなさい、法師様。でも、あの時間違った言葉は返せるから」
法師様の言葉に、彼女は首を振って謝る。
そして、とても綺麗な笑みを浮かべた、ように見えた。
「ただいま。お父さん」
あぁ、と吐息に似た、か細い声が聞こえた。
「そう、だな。そうだった。お前はあの時言ったのだったな。――行ってきます。お父さん、と」
思い出した、と告げる法師様の声は震えていて。
泣いているみたいだ。
「お帰り、儂の娘。これ以上零したくはない故に、名を呼べぬ事を許してくれ」
「いいよ。大丈夫。もう大丈夫だから」
彼女の声は酷く穏やかだ。
こんな彼女は、知らない。覚えていない記憶の中の彼女との差異が、何故か怖い。
「行かないで」
「ごめんね」
必死に言葉にした願いは、謝罪の言葉で否定される。
どうして、と腕を伸ばしても、やはり彼女には届かなかった。
「神様と約束したから。すべてを見届けてさよならを言えたら、神様の眷属になるって」
「っ、そ、んなの。やだ。なんで」
穏やかに、彼女は残酷な言葉を紡ぐ。
「理由は何にしたかな。手が暖かかったとか、眼が綺麗だったとか。そんな感じだったはずだけど」
「理由なく、神と契約を交わしたというのか」
法師様の言葉に、彼女はそうだね、と肯定する。
「神様がそれを望んだ。契約とか、対価じゃない。神様自身が共にいる事を望んだから。だから応えた。それだけだよ」
空っぽだったからね、と彼女が笑う。
その笑い方は、やっぱり知らない人のようだ。
「そろそろ、お別れをしないと。あまり待たせるのもいけないだろうし」
「やだ。ぃやだ。嫌だっ!」
首を振る。嫌だと、必死に否定して。
それでも駆け出そうとする体は法師様に引き止められて、どうしても彼女の元へと届かない。
「帰ろうよ?ねえ、お願いだから。一緒に帰ろう?」
「彩葉」
名前を呼ばれる。彼女か法師様か、分からない。
どちらでも構わなかった。
帰れないのなら。一緒でないのなら、それに意味はない。
「彩葉」
優しい声。
頬を暖かな手に包まれる。
幼い子供のように駄々をこねる私を慰めるその熱に、動く事が出来なくなる。
「大丈夫。一人じゃない。一緒にいてくれる親友がいるでしょう?だから、もう彩でいる必要はないんだよ」
彼女の言葉が、体の中に広がって。じわじわと染みこんで、怖さも何もなくなっていく。
彩葉、と名を呼ぶ声が、大切な親友のそれと重なって聞こえた。
「繋がりはもうないけど、しばらく残るものはあるみたいだ。ごめんね。ここまで来てもらって」
手が離れていく。
けれど、先ほどみたいにすがる気持ちは凪いでいて。ぼんやりと離れていく彼女を、ただ見つめていた。
「彼女をお願いします」
「そうだな。弔い続けよう。彩葉を切り離してくれたのだ。これから先は、過ちを犯した儂のやるべき事だ」
彼女が笑う。
お別れだ。きっともう二度と会う事もない。
そして、いつしか彼女がいた事すら忘れて、生きていくのだろう。
少し寂しい気がした。けれど、だからこそ生きなければいけないと強く思った。
それを何よりも彼女が望んでいるだろうから。
「彩葉。お父さん」
朝の光を纏う彼女は、とても綺麗だ。
「ありがとう。さようなら」
綺麗な彼女が、綺麗な声で別れを告げた。
強く風が吹いて、彼女を連れて行く。
舞う葉の合間から見えたのは、幾重にも縄の巻かれた強い腕。
太陽よりも強い光を湛えた、金の瞳。
さらに強くなる風に、思わず目を瞑る。
それは一瞬の事。
次に目を開けた時。そこに彼女の姿はない。
青の空を見上げ、さようなら、と呟いた。
20240929 『別れ際に』
外に出ると、雨が降っていた。
空を見上げれば、分厚い雲。先ほどまでのからりとした青空は、どこにも見えない。
さて、どうしようか。辺りを見回し、考える。
傘など持ってきてはいない。途中で傘を買うとしても、この雨の強さでは、店に着くまでにずぶ濡れになってしまうだろう。
仕方がない、と覚悟を決める。幸か不幸か、家までは歩いて帰れる距離だ。このまま走って帰るしかないだろう。
「ねえ」
小さな、けれどもこの雨の音にかき消されないほどはっきりとした声が聞こえた。
「ねえ」
気づけばすぐ側に、傘を被った子供の姿。手には傘を持ち、恥ずかしげにもじもじとしながらも、期待を込めた眼差しでこちらを見上げていた。
「お迎え、来たよ」
「あ、うん。ありがと」
傘を受け取りながら、さりげなく周囲を確認する。
雨に気を取られ気づけなかったが、辺りには人一人居らず。そういう事か、と納得し、傘を差す。
傘を持っていない方の手を子供に差し出すと、満面の笑みを浮かべてその手に小さな手を重ねた。
「お父さん、お家にいるの」
「父さんが?珍しいな。何かあったっけ」
「お休み。出かけようって」
雨が強くなる。視界が煙り、傘を打つ雨の音が大きくなる。
けれど雨の音に声がかき消される事はなく。どこからか取り出した子供の持つ提灯が、仄かに帰り道を照らして道に迷う事もない。
手を繋いで歩きながら、目を凝らす。
雨の向こう側。傘も差さず、普段と何一つ変わらずに急く人々の姿が霞み見えた。
振り返ればきっと、突然の雨に慌てふためく様子が見える事だろう。
そう思うと無性におかしくなって、思わず笑みが溢れた。
「?楽しいの?」
「ん。何かさ。通り雨も、たまにはいいなって」
「雨!また、お迎え。行くの!」
にぱっ、と笑みを浮かべ、手にした提灯を振る。
さらに強くなる雨に、これ以上はと思いながらも、機嫌良く振られる提灯と鼻歌に何も言えず。
まあいいか、と鼻歌に合わせて繋いだ手を、軽く振って歩いて行く。
通り雨に振られて濡れる街の人々にとっては災難だろうが、誰かと一緒の帰り道もたまには悪くない。
「あめあめ、ふれふれ」
とうとう歌まで歌い出した子供に、遠い昔の母との帰り道を思う。
今はもう届く事のない淡い思い出に、少しだけ鼻の奥がツンとした。
「次は、もっと、たくさんのお迎えね。皆と、一緒」
「雨なのに、皆で来たら、大変でね?」
「じゃあ、次は違う子が、一番前ね。そしたら、雨でないの」
「ま、いいけどさ。そうなったら、何か百鬼夜行みたいだな」
「悪い子、いないから、いいの」
まあ、確かに。
彼らがぞろぞろ歩いていたとして、誰かに見咎められるわけでもなし。見られたとして、昔話のように死んでしまう訳でもない。
そもそも、深夜ではなく真っ昼間だ。明るい場所での彼らの行進は、恐ろしさの欠片もありはしない。
明るい日差しの中。ぞろぞろ歩いて迎えに来るだろう彼らを想像して、その滑稽さに声を上げて笑う。
つられて笑う子供に、さらにおかしくなって。何だか楽しくなってきてしまった。
「悪くないな、それ。楽しそうだ」
「皆一緒なら、楽しいの。いっぱいいっぱい楽しいの!」
「楽しいな。寂しいなんて、思う暇もないくらい」
手を繋ぐ、雨の帰り道。
笑いながら歩いていく。家までもうすぐだ。
20240928 『通り雨』
夕日よりも赤く、太陽よりも黄色い葉が視界を埋め尽くす。
歩く度にさくさく音を立てる、極彩色の落ち葉の絨毯を踏み締めて少し先を行く彼の足取りはとても軽い。
とても上機嫌だ。
約束だと、断る事を決して許さず私を連れ出した彼は、数日前の不機嫌さが嘘のよう。
「何か描かないの?」
振り返り問う彼は、辺りの紅葉よりも目に鮮やかに映り込み、思わず下を向く。
じわじわと顔が熱を持つのが分かる。俯き動けなくなる私を見て、彼は小さく笑ったようだった。
さくり、さくり。
ゆっくりと近づく、彼の足音。視界の隅に彼の靴が見えて。
「っ!?」
彼の手が。
少し冷えた指先が、前髪を擽り耳輪を掠めて、髪に触れた。
「紅葉。付いてたよ」
はっとして顔を上げる。
差し出されたのは、紅色に染まった葉。
彼の楽しげな笑顔に、速くなる鼓動が痛いくらいだ。うまく呼吸が出来なくて、目眩がする。
「そういうの、やめて」
本当にこれ以上は勘弁してほしい。
一緒にいるだけで、もう精一杯だというのに。今すぐに逃げ出したくなる足を引き止めているだけで、余裕なんかひとつもないというのに。
どうしようもなくて、泣きたいくらいなのに。気づいていて、どうしてこんな酷い事が出来るのだろう。
必死に溢す否定の願いは、笑えるほどに掠れ、震えて。
けれどそんな私に、彼は一切の容赦をしてはくれなかった。
「ほら」
わざとらしく小首を傾げ、手首を掴まれる。
開いた手のひらの上に乗せられたのは、彼が手にしていた紅葉。
「顔、真っ赤。可愛い」
「っやだ。やめてってば」
掴まれた手首が熱い。
指先は少し冷えていたように思ったけれど、今は手首から伝わる熱で火傷してしまいそうだ。
「なんで、こんなっ。いじわる」
「ごめん。でも、なんかうれしくて」
ごめん、と口では謝るのに、一向に手は離れない。
けれど本当にうれしそうに、彼が微笑むから。
素直になれない文句の言葉は、形を持たずに吹く風に乗ってどこかへ去って行ってしまった。
「やっと、俺を見てくれた」
微笑む彼の姿が滲む。
勘違いをしたままの彼に、違うのだと大声で否定してしまいたかった。
ずっと昔から見てきたのに。
桜の木の下でうたた寝をしている時の寝顔も。砂浜で子供みたいにはしゃいでいた時の笑顔も。竹刀を持った時の凜々しい横顔も。姉といる時の穏やかな表情も。
全部見てきたのに。ずっと想ってきたのに。
どうして何一つ気づかずに、そんな残酷な事を言うのだろう。
きゅっと、唇を噛みしめる。
今更言うつもりはない。気づかないなら、そのままでいい。
この今にも溢れそうな好きのひとかけらだって、春までは差し出してやるものか。
「バカだな。まだ勘違いしてんだ?」
必死で泣くのを堪える私の目尻を優しくなぞり、輪郭を取り戻した彼が言う。
勘違いの心当たりはない。むしろ勘違いをしているのは、彼の方だというのに。
意味が分からない、と否定するために開いた唇は、けれど彼の人差し指で遮られた。
「秋緋《あきひ》が見てたのは、俺と夏樹《なつき》だろ?俺は、ずっと俺だけを見てほしかったのに」
え、と間の抜けた言葉が溢れ落ちる。
夏樹。お姉ちゃん。
優しくて、頼りになって。誰よりも大好きな、私の憧れ。
ずっと見ていた。追いかけていた。
最初は姉だけだったのに、いつの間にか隣に彼がいて。彼は姉の事が好きなはずで。
だから。それで。
――それで?
「気づいた?俺はずっと夏樹のおまけ、だったよ」
混乱してぐるぐる回る思考の中。彼はさらに続ける。
おまけなんて、考えた事はなかった。なかったはずだ。
でも今は、少しだけ自信がない。
「し、らない。そんなの。違う」
首を振って、否定する。
彼と離れて落ち着きたいのに、掴まれた手首がそれを許してはくれない。
「そう?まあいいや。それよりさ、俺を描いてよ」
約束、と彼は笑う。
「なんで」
「描いている間は、俺を見てくれるだろ?その間だけは俺だけを考えて、俺だけを見てくれる」
だから描いて、と手を離される。
糸が切れたように座り込む私から視線だけは離さずに、数歩下がって促される。
バックの中の白いスケッチブックが、かたり、と音を立てて存在を主張した気がした。
スケッチブックを取り出して、表紙をめくる。
鉛筆を持つ手が震える。鼓動が速くて、息がうまく出来ない。
赤と黄色が鮮やかな紅葉と、それよりも鮮やかで綺麗な彼。
描くのが怖い。きっといつものようには、描けない。
描いてしまえば、好きが溢れてしまいそうだ。
20240927 『秋』
この窓から見える景色が、彼女のお気に入りだった。
窓枠に手をつき、外を見る。
外は生憎の雨。重苦しい曇天が、音を立てて振る雨が視界を狭め、憂鬱な気分を連れてくるようだ。
ゆるりと頭を軽く振って、窓から離れる。彼女ではない自分には、この景色のどこに惹かれたのかは分からない。
――この窓を通して見る世界はね。淡い色彩を纏っているのよ。
くすくすと笑いながら、あの日彼女は窓を見た。つられて見た窓から見える景色は、やはり外に出て見る景色と何の変わりもないように見えていた。
――晴れの日にはね、風が楡のまわりで楽しそうに踊っているの。曇りの日には、雲が歌を歌っていてね。そして雨の日には、雨の絵の具が世界の色を少しだけ濃くしていくのよ。素敵でしょう?
どんなに時が流れようと、年月が彼女を大人にしようと、彼女の少女のような純粋さは変わらないままだった。頬を染めて楽しそうに、幸せそうに微笑む彼女の姿が瞼の裏に灼き付いて、今でも鮮やかに浮かび上がる。
けれどこうして同じように窓の外を見ても、彼女と同じものは一度も見えはしなかった。楡も、風の姿も、雲の声も、雨の色も。自分には何一つ見える事がない。
彼女の眼が特別なのか。この窓が特別なのか。あるいは両方か。
特別な彼女と、特別な窓。二つが重なり合う事で、その特別が見える形になったのか。
だから特別では無い自分は、彼女と同じものが見えないのだろうか。
窓の側に置かれたテーブルの縁をなぞり、椅子に座る。彼女が好んで過ごした場所に、同じように腰掛ける。
窓の外を見る。やはり雨に濡れてくすんだ景色が見えるだけだった。
「父さん」
いつの間にか、部屋の入り口に立っていた息子に呼ばれ、振り返る。時間になっても戻らぬ自分を呼びに来たのだろう。
時計を見れば、この部屋に訪れてからすでに三十分以上も時間が経っていた。
「すまない。もうこんな時間か」
「気にしないでいいさ。父さんこそ大丈夫か。なんせ、急な事だったし」
言葉を濁し曖昧に笑う息子になんと言葉を返したらいいか思いつかず、ただ首を振る。立ち上がり息子の側に寄れば、彼女によく似た琥珀色の瞳が僅かに赤く腫れているのが見て取れた。
人知れず泣いていたのだろう。目尻に残る滴を拭えば驚いたように目を瞬いて、恥ずかしげに目を細める息子の頭を軽く撫で引き寄せると、暫くして声を殺して泣き始めた。
こんな時でさえ自分に気を遣う息子に、申し訳ないと思う。まだ親の庇護が必要な子だというのに、頼りにするべき親がこんなでは素直に泣く事も出来ない。
頭を撫で背をさする。不器用なそれが少しでも慰めになれば良いと思いながら、彼女ならばこんな時にどうしたかを考える自分の弱さを嫌悪した。
「大、丈夫だって。お、れは大丈夫、だから」
腕を伸ばし無理矢理離れ、息子は涙の残る目で笑みを形作ってみせる。先ほどよりも赤みが増した目が痛々しい。
「無理はするな」
「だって、母さん。ほんと、に、寝てる、みたい、だった、から」
大丈夫だと。苦しんだわけではないのだろうからと、息子は笑う。
彼女の最期を目にして、それでも自分のために笑おうとする息子が只管に苦しかった。
息子から目を逸らして振り返る。窓の外を見、テーブルと椅子を見た。
そこで彼女は亡くなった。
眠っているようだったと息子は言う。午後の日差しに微睡んで、そのまま眠るように逝ったのだろうと、医者は言った。
そうか、と納得し。残ったのは虚ろな心と寂しさだった。
穏やかに時を止めた彼女。夢見る少女のような可憐な彼女は、もうどこにもいない。
「ごめっ、ちょっと、出てくる。父さん、は、まだ、ここに、いて」
気を遣い、出て行こうとする息子の手を取り引き止める。
「一緒に行こう。話がしたい」
驚く息子に、できる限り優しく笑ってみせる。
滅多に表情を変える事のない自分の笑みは相当可笑しなもののようだった。呆けたように口を開けて自分を見つめる息子にいたたまれなくなり、掴んだままの手を軽く引く。はっとしたように口を閉じ、気まずげに目を逸らした息子に、知らず笑みが深くなる。
「話、って。なに?」
「何でも良い。友達の事とか、学校の事とか。趣味でも何でもいいから、話をしよう」
「父さんは?何、話して、くれるの」
息子の問いに、考える。自分が話せるものなどあっただろうか。
思えば息子と二人きりで話す事など、数えるくらいしかない。普段は彼女が間に入り、自分は常に聞き役に回っていた。
考えて、部屋を見回す。この部屋で思い出せるのは彼女の事ばかりだ。
「昔の母さんの話、とか。後は、そうだな」
つまり惚気か、と呆れ笑う息子から視線を逸らすように窓を見る。
どこにでもある、窓。変わらない、外の景色。
彼女によく似た息子には、どんな風に映っているのだろうか。
「この窓の外の景色が、母さんには特別に見えて、俺には普通に見えるくらいだな」
「景色?」
つられて息子も窓の外を見る。
その横顔には、彼女と違い笑みはなく。凪いだ琥珀が、揺らいでいた。
「俺にも、普通の庭、に見える。大きな、楡の木のある。ただの、庭」
「…そうか」
呟いて、息子を促し部屋を出る。
閉まる扉の向こう側。あの窓の外で、彼女が微笑っている気がした。
20240926 『窓から見える景色』