零れ落ちた椿の花を拾い集め。愛しむように優しい夜の歌を口遊む。
「意外だな」
ぽつりと溢れた微かな呟きに、歌声が止む。
「呪い、厄、穢れ…見境なく取り込んでおるのかと思っていたが」
「何を言っているんだ。流石にこれは取り込んではいけないだろう?」
ほら、と差し出されたのは、純白の花。小さな魂を内包した椿の花。
僅かに眉根を寄せた声の主に、歌声の少女は小さく笑って花弁に唇を寄せた。刹那花は光へと変わり、夜の空を漂い消えていく。
「本来ならば人知れずに咲き零れて還れるのだろうけれど。今回は椿が荒れて、その拍子に厄と共に零れて還れないみたいだからね」
「これは椿が喰らった魂なのか?」
「まさか。椿が人を喰らう事などありえない」
白の椿の花すべてを光に変えて、少女はゆるりと首を振る。優しく、そして悲しい目をして光の消えた空を見上げ、昔話をしようか、と囁いた。
「昔、大きな争いに人々が巻き込まれた時の事。炎から逃れてここへ辿り着いた人達がいた。辺りは燃えて灰になり、残ったのは小さな学び舎と小さな椿の木が一本のみ」
歌うような囁きは夜に溶け、風の代わりに椿の葉を騒めかせる。
「ある少女がいた。母とはぐれ、幼い弟の手を引いてここまで逃れてきた。その少女はただ一本残った椿を見て、持っていた飲み水を椿に与えてただ願った。助けてほしい、守ってほしい…そして安らかに眠らせてほしい、と」
騒めく椿の根元に、気づけば小さな少女の姿が一つ。目を閉じ手を合わせて、必死に何かを願っていた。
「少女の母親の故郷には、村を守る藤があるのだと言っていた。その藤の物語を聞いて育ったあの子は、椿をその藤に見立てたんだ。毎日水を与え、願う。純粋な願いは祈りとなり、ただの椿に意味を持たせた。椿は迫る炎から学び舎に籠る人々を守り、生き残った人々は椿を守るモノだと認識し、こうして今も椿はこの場所を守っている」
毎日与えられる水を対価として。その意味を忘れた子らを厄や穢れから守り、傷つき迷った魂を内に取り込み眠らせている。
願う小さな少女の幻が、ゆらりと揺れて霞消えていく。それを見届けて、少女は振り返り笑みを浮かべた。
「まぁ、ただの昔話さ。本当かどうかはもう分かりはしない。祈る誰かはいなかったかもしれないし、椿も最初からそういうモノだったのかもしれない。あるいは椿のある場所が校舎の丑寅に位置していたために、猿が辻になったからなのかもしれない…どれが理由だとしても、この椿は人を守るモノで人を喰らうモノではないよ」
「娘」
何、と笑みを浮かべたまま少女は首を傾げる。どこまでも素直ではない少女に、声の主は呆れたように一つ息を吐いた。
「見届けたのか?その祈る者の生を」
静かなその言葉に、少女の笑みが消える。真っ直ぐに声の主を見つめ、頷いた。
「見届けたよ。少女が女性になり、妻になり、母になって。最期の夜を共に過ごして、狭間まで供をした…それがあの子の願いだったから」
「まるで妖のような生き方をするものだな」
「そう?妖を知らないから、実感はないな」
穏やかに微笑んで。
新たに零れ落ちた椿の花を拾い集め、再び歌を口遊む。静かで優しい、夜の子守唄。
歌を口遊み、合間に椿の花に唇を触れ。空に淡い光が舞う。
不意に、学校の鐘の音が鳴り響く。
「神様?」
困惑する少女に何も告げず。視線は空を漂う光に向けられ。
響く鐘の音が次第に歪み。それはいつしか荘厳な梵鐘の音に変わる。
「…懐かしいな」
最後の花を変え、空を漂う光を見届けて。
響く鐘の音に静かに目を閉じる。
鐘の音の向こう。懐かしい笑い声を聞いた気がした。
「正直、視るだけの神様かと思ってた」
「我を何だと思うているのか…まあ良い。娘、暫し休め」
休息は皆等しく必要だ、と声の主は笑う。
「この体はもう、眠りは必要ないのだけど」
「文句を言うな。そこの鎮まった椿も在るのだから、眠る事は出来るであろう?」
確かに、と理解はするも納得は出来ず。渋る様子に有無を言わさず、声の主は半ば引きずりながら少女を椿の隣、いつの間にか用意されていた絹敷物に座らせた。
「我は暫し戻る。それまで大人しくしているといい」
「っ、横暴」
「本当に口の減らぬ娘よな」
呆れたように呟いて、声の主の姿が掻き消える。
一人残された少女は盛大に溜息を吐き、仕方なしに横になった。
「何なんだ、あの神は」
愚痴を溢す少女の側に、ぽとり、と椿の花が落ちる。
視線を向けると、赤い花。椿が控えめに騒めいた。
「あぁ、うん。大丈夫だよ。何とかやっていくさ…皆のためにも」
小さく笑い、花を喰む。還れるようにと鎮魂を唄ったために消費した身に、椿が溜め込んだ厄が染み渡る。少しだけ胎が満たされ、ほぅ、と吐息が溢れた。
鐘の音はまだ止まない。閉じたこの空間は、少女には開く事が出来ない。
ならば言われるがままに、少しだけ眠ってしまおうかと目を閉じる。
おやすみなさい。
誰かの優しい声が、鐘の音に乗って聞こえた。
20240806 『鐘の音』
緑化委員には、必ずやらなければならない活動がある。
夕方四時、校舎の隅に植えてある椿に銀の如雨露で水をやる事。曜日は関係なく、天気も関係なく。休みの日も、雨の日も、雪の日だろうと毎日、必ず。
逆を言えば緑化委員は、この椿の水やりが唯一の活動であった。
「めんどくせー」
愚痴をこぼしつつ、如雨露に水を入れる。
空を見上げれば、曇天。予報では夜には一雨来るという。
意味がないと思いながらも、手は止めず。これが委員会の活動だと理解して入ったのだから、文句も言えず。
溜息を吐き水を止めると、如雨露を持って歩き出した。
校舎の裏。敷地の隅に、その椿はある。
花の咲かない椿。先輩や先生の誰もが、咲いたところを見た事がないという。咲いてはいけないと、咲けば良くない事が起きるのだという噂すらあるほどだ。
その椿の根元に水を撒く。これで委員会の活動は終わりだ。
時間の無駄だなと内心で愚痴を溢し、如雨露を片付けに踵を返す。次は二週間後だ。
楽ではあるが面白みのかけらもない委員会に、入った事を少しだけ後悔した。
今日は朝から騒がしい。生徒だけでなく、先生方も落ち着かない様子で動き回る様子に、何かあったのかとつられて落ち着かなくなりながらも教室に入る。
「はよ。何かあったのか?」
「知らねえの?椿が咲いたんだとよ!」
「水やりサボった奴が、行方不明なんだと!」
水やり。昨日の担当は確か、隣のクラスの奴だったと思いながらもクラスメイト達の話の続きを聞く。
「最近、何かやべー事続くよな。この前は二年のクラスでも色々あったじゃねーか。まだ目が覚めないんだろ?」
「ころも様、だっけ?ほんと女子ってそーゆーの好きだよな」
「その前にもあったよな。何かの呪いだか、儀式だかをやって狂った女子」
「もう呪われてんじゃね?この学校」
怖いと言いながらも笑って会話を続けるクラスメイト達に、無言で教室の扉を指差す。そのタイミングで険しい顔をした先生が教室に入り、慌てて席に着く彼らを見ながらも、ふと椿の水やりは儀式に似ているなと、そんな事を思った。
放課後。今朝の椿の件があり、校舎内には誰もおらず。
けれども水やりの活動は変わらず。よりにもよって、今日の担当である事に自分の運の無さを嘆いた。
如雨露に水を入れ、椿の元へと向かう。
校舎にも校庭にも誰一人いない。静まり返った学校はまるで違う場所のようで。帰りたいと、足を速めた。
「……ぁ」
目の前の光景に、足が止まる。
咲くはずのない椿。その花が。
赤く、紅く。瑞々しく、艶やかに咲き誇り。
その側で椿を見上げる、一人の女生徒。
こちらに気づき、笑みを浮かべた。
「今日の担当か。ご苦労な事だね」
「誰…?」
問いには答えず。ただ笑みを浮かべたまま、手にしていた如雨露を指差す。
「つまらない事、退屈な事だからといって疎かにすると、足元を掬われる事もあるから気をつけて」
その言葉に何故か水やりをサボり、行方不明になった委員の顔が浮かんだ。
「水やりをしないと、椿に殺される…」
「確かな理由がなければ。そしてそれが続けばそうなるね…あれは一度も来なかったみたいだから。他にも何人かいるらしいけど、今回のこれでどうなるやら」
呆れたように肩を竦めて椿を見上げる。その視線は優しく、どこか憐れんでいるように見えた。
「昔の誰かが、ただの椿に意味を持たせたんだ。祈りを込めて、毎日椿に水を与えた。その人が死ぬまで欠かす事なく、死んだ後も他の誰かがそれを引き継いでここまできた。長い時間の中で意味は忘れられ、形だけが残った…ここまで大きいと、もうどうにも出来ないね」
「……その、意味って。祈りっていうのは」
「さてね。どうだったかな」
忘れてしまったよ、と素知らぬ顔をしながら、彼女は立ち竦む自分の横を通り過ぎ、去っていく。
「それよりも覚悟をしておいたら?しばらくは椿の専属になるだろうから」
「えっ?」
「だって怖くて近づけないだろう?特に今日は誰も来れないと思っていたよ」
唐突にかけられた言葉に慌てて振り返ると、足は止めずに後ろ手で手を振られた。その意味を理解して、思わず肩を落とし溜息を吐く。
振り返り椿を見る。
一瞬だけ、焼けた町を背後に黒く煤けた幼い少女が、椿の根元に手にした水を撒き必死で祈る幻を垣間見た。そんな気がした。
20240805 『つまらないことでも』
「やあ。久しぶり」
気がつくと、懐かしい社の前。
最初の自分を模した姿をした少女が、変わらずにこにこと笑いながら手を振っている。
「随分とダイタンだったね」
その言葉に今までを思い出し。
耐えきれずに膝をつき、顔を覆って声にならない叫びを上げた。
「やってしまった。何で、どうして、っ!」
「ジョシコウセイ?って、何だかとってもスゴイね。驚いたよ」
「それ以上っ、言わないで、下さい!」
今更ながらに羞恥心が込み上げ、赤面する。
何がしたかったのか、今となっては分からない。自分の気持ちに気づいての行動にしては、明らかにやり過ぎである。あんなに狼狽た狐の姿を見たのは初めてで、哀れみすら感じさせた。
まあ、結局今更な事ではあるのだが。
「一応聞くけど、もらっておく?」
「…もう手遅れですので、遠慮します」
狐に対してだけではない。学校でも酷かった。
旦那が出来たなどと吹聴し、事あるごとに狐の話題を出し。
話に付き合わされた親友には、本当に迷惑をかけてしまった。
「でも狐の記憶を抜く事は…その、一部だけでも」
「断られたよ。恥ずかしかったし驚いたけど、それでも嬉しかったみたい」
せめて狐の記憶がなければまだ救いはあるのかもしれないと思ったが、現実は非常である。
知らない方が良かった事実も知ってしまい、後戻りの出来ない状況にあの日の行動を心底悔やんだ。
「分かっています。分かっていましたとも!後戻りなど出来はしない事は、十分過ぎるほどにっ!」
繰り返す生の中で、選択を誤った事など何度もある。そのすべてでやり直しは出来なかったのだから、やはり今更だ。
深く息を吐き、立ち上がる。真っ直ぐに少女と視線を交わせば、満足したように頷いて手を差し出された。
「それじゃあ、サヨナラかな?楽しかったよ」
「はい。さようなら、です」
差し出された手に、同じように手を伸ばし。これで最後になると、微笑んで。
けれど、ふと親友の姿が思い浮かび。
その手を重ねる寸前、思い止まり手を下ろした。
「どうしたの?」
首を傾げる少女に、僅かに言い淀む。
一度目を閉じ、頭を振る。目を開け、祈るような気持ちで口を開いた。
「私の親友の夢の中に入る事は可能でしょうか?」
「ん?まあ、縁があるなら出来なくもないよ」
だけど、と少女は続けて忠告する。
「その理由如何によっては、否、と答えるね。対価が必要になってしまうもの」
さて、どうする?と、何処か冷たい目をして笑い尋ねられる。
初めて見る少女の表情に思わず視線を逸らしかける。怖い、と逃げ出したくなる感情を、手を強く握る事で抑え込み。少女から視線を逸らす事なく、その理由を口にする。
「よく原因不明の発作が起きるんです。そのせいか最近は学校でもよく寝てて。一週間以上学校にも来なくなって。発作が起きて、意識が戻らないって……親友、なんだ。大事な。大切な。一番の親友」
狐に怯え、それでも狐を探して挙動不審になる自分に、気にせず話しかけて来た彼女を今も覚えている。色々な場所に連れ出され、たくさんの思い出をくれた彼女がいないのは耐えられない。
「溺れている感じに近いって。水がないのに溺れるなんて、そんなの…っ!だから夢の中なら分かるかもって…」
「そうだね。呪いか、化生か、はたまた妖か…いずれにしても、それが理由ならば答えは是、だよ。夢に入る事は難しいけれど、見せてあげるくらいなら出来る」
先程とは異なる優しい笑みを浮かべ、少女は社の扉を開けた。
薄暗く狭い室内の奥。一つだけ置かれた丸い鏡の元へ行くとこちらに振り返り、おいで、と手招かれる。
「この鏡に触れて、その子の事を考えて。そうしたら見えてくるよ」
手招かれるまま、促されるままに、社に入り鏡に触れた。
ゆらりと鏡面が揺れて、暗い何処かを映し出す。
「水の、底?」
「井戸…違うな。見立てているだけで、これは池か」
揺蕩う底で、髑髏が首のない骸骨に向けて語りかける。声は聞こえない。
骸骨の手が髑髏へと伸びて。
何故かそれは、それだけは駄目だと思った。
「駄目!行かないで」
思った瞬間には、叫んでいた。理由は分からず、届かないと知りながらも必死で鏡の向こう側へと手を伸ばす。
「行かないでよ。お願いだからっ!」
叫んで、泣いて、手を伸ばして。
声が聞こえたのか、それとも偶然か。
骸骨が手を下ろし。黒いいくつかの影が、骸骨を抱き竦めるかのように覆い、髑髏の目と口を覆う。
そうしてまたゆらりと鏡面が揺れ、視界が黒く染まる。
気づけば、背後から少女に抱き竦められ、手で視界を覆われていた。
「…もう大丈夫かな」
「ありがとう…ごめんなさい」
力が抜ける。それを確認して、視界を覆う手が外されそのまま優しく頭を撫でられた。
「親友。意識が戻ったみたいだね。会えるかは分からないけど、行ってみるといいよ」
「でも……うん。分かった」
言いかけて、何も言えず。大人しく目を閉じる。
薄れていく意識の中、何かを抜き取られる感覚がした。
「思ったより深刻だな」
手にした彼女の記憶を片手に、少女は小さく息を吐く。
原因不明だと彼女は言ってはいたが、先程の光景を見る限りその原因は明らかだ。
「狂骨。しかも意図的に作られたとか…業が深いねえ」
井戸に見立てられた池の底に沈む数多の骨。その妖の核になるはずの魂が、何故か人間として生きている。
偶然か。必然か。どちらにしても妖としてすでに成ってしまっているモノが、人間として生きられるわけがない。水の底から還ってくるようにと引かれ続けているせいで、何度も倒れるのだろう。
最後に見た影が鎖となって縛り付けているのだろうけれど、それも時間の問題だ。あれはもう、どうにもならない。
「一応、長様に話しておかないと、かな」
手にした彼女の記憶を、彼女の親友の夢の記憶を飲み込んで手を振るう。
辺りの光景がどろりと溶けて、暗闇だけが続く空間へと変わり。
常世へと繋げた道に、迷いなく足を進めた。
20240804 『目が覚めるまでに』
水底を漂う夢を見る。
髑髏《しゃれこうべ》が嗤う。
歌いましょう、踊りましょう、と手招いて。
憎みましょう、呪いましょう、と囁いて。
水面は遥か遠く、戻る事は出来ないだろう。
嗤う髑髏に手を伸ばす。
永く沈んでいるせいか肉も皮も水に溶け、指先から白に染まっていく。そうして余分なものが剥がれ落ち、白だけが残った体で。
白い骨の指先で。髑髏に。
「駄目!行かないで」
焦る声。大事な、大切な、人の。
ここでは聞こえるはずのない声に、思わず手を下ろし。
視界を塞がれる。何かに抱き竦められて身動きが取れない。
見えず。動けず。聞こえたはずの声すら今はなく。
沈んでいた意識が浮上する。
目が覚めた。
白い天井。白のカーテン。寝ているベッドさえ白く。
いつもの病室の光景に、またかと密かに嘆息する。
こうして倒れるのは何度目か。倒れて、それでも戻って来てしまう事を、あと何度繰り返すのだろうか。
どれだけ調べても原因は何一つ分からず。いつ何をきっかけとして起こるのかすらも分からない発作。唯一はっきりしているのは、症状が溺れている時のそれに似ているという事だけ。
困惑する医師や看護師と、悲しむ両親の顔を思い出し、少しだけ憂鬱になりながら手元のナースコールをいつものように押した。
心電図モニター。サチュレーションモニター。酸素マスク。点滴。
慌ただしい看護師と険しい顔の医師。
いつもとは違う重々しい様子に、内心で首を傾げる。されるがままに検査を受け、言われるがままに質問に答えて。
医師の話ではどうやら十日も意識が戻らず、一時は危なかったらしい。
通りで、と納得しながらも、終わらない検査に閉口した。
ようやく解放されて、一息つく。
おそらく両親にも連絡しているのだろうから、もうすぐしたら今度は二人を宥めなければならない。今の間に少しでも休もうと、目を閉じた。
そういえば、今回はどこで倒れたのかと記憶を手繰り。目が覚めてから一度も声が聞こえない事に、ふと気がつく。
嫌な予感が、した。
「彩葉《あやは》」
聞こえた声に、ぎくりとする。
酷く凪いだ、それでいて優しさや悲しさを含んだ声音。意識を失う前に聞こえた声と重なって、意味もなく泣きたくなった。
「ご両親に連絡致しました。意識が戻られた事に、たいそうお喜びになられていましたよ。もうすぐ来られますからね」
「住職様」
目を開けて、椅子に座る住職に視線を向ける。
泣きそうだなと、何故か思った。昔も今も、そんな表情は見た事ないはずなのに。
心配をかけてしまった。迷惑になってしまった。その事実に胸が苦しくなる。
「彩葉。決して過去に手を伸ばしてはいけません。貴女は今、ここで生きているのですから」
あぁ、知っていたのか。
それとも背後にいる二人の影が告げたのか。
影は何も言わない。私の中に残る影も、ずっと黙ったままだ。
住職は、法師様は、どこまで覚えているのだろう。影となった彼女達を、どこまで正しく認識しているのだろう。
覚えているならば、認識しているならば。私のこの歪を理解しているはずだ。それなのに何故、留めようとしているのだろうか。
「彩葉」
「駄目だよ、法師様。いけない事、正しくない事だよ」
視線を逸らし、目を閉じる。胸が痛い。息が苦しくなる。
まるで溺れているみたいだ。
「私はもう『成って』しまったのだから」
影が騒めく。
悲しむ声。悲嘆する声。誰かに手を掴まれ、引き留められて。
お願い法師様、と影が願う。
「今更だ、彩《さい》。正しくない事など承知の事。だが、それでも儂は」
法師様の声。影の声。
混ざり合って、留めるための鎖になる。
繋がれた誰かの手を握り返しながらも。
還れない事を哀しいと、そう思った。
20240803 『病室』
長く続いた雨も終わり、久方ぶりに見る青い空に目を細める。
恵みの雨とはいうものの、雨空が続けばやはり晴れの空が恋しくなるのだろう。贅沢なものだと苦笑して、去っていく黒い龍を見送った。
「雨は過ぎたのか」
「おや、珍しい」
常世の彼の訪れに、何かあったかと首を傾げる。相変わらず眉間の皺が濃いが不機嫌さはなく、どこか困惑したその表情は滅多に見た事がない。
「明日の朝。晴れたのならば、生まれた子に言祝いでやれ」
「何だそれは?そんなの、宮司がやる事だろう」
「先日流れて来た者らがいるだろう?そこの子だ……おそらくは双子となる」
意味が分からない。双子を忌むものとする慣習がある事は知っているが、この村にはないはずだ。外から流れて来た者だという事を踏まえてもだ。
変わらず彼は眉間に皺を寄せたまま。村へと視線を向け、静かに息を吐いた。
「妖が人間として生まれる事は可能だと思うか?」
何を言っているのか。それは常世に在る彼が誰よりも知っているだろうに。
「人間が妖に成る事はあるだろう。鬼、蜘蛛…全ては人間の強い情が転じて成ったものだ……ならば妖が人間として生まれるには、その為に何を転じるというのか」
「そうだね。自らの存在を変えてしまう程の情を妖は持てないから、そんな事はありえないよ」
そういう事か。
彼が現世に来た意味。生まれる子に「おそらく」と言った意味。生まれる子らに言祝げと言った意味。
人間。妖。生きる者。在るモノ。姿は似せれど、決して同一にはならないもの。
明日生まれてくるのは、人と妖だったもの、か。
ならばそれを可能とするのはやはり。
「けれど人が強く望んだとしたら。願い、祈ったとしたら、それはあり得ない事ではないのかもしれないね。妖とは人の望みに応え、在るモノなのだから」
「そうか……本当に恐ろしいな、人間は」
眉間の皺が濃くして納得したように頷くその姿に、思わず笑みが溢れる。気づかれぬようさり気なく視線を逸らし、そのまま何気なしに空を見上げた。
快晴。明日はきっと朝から晴れてくれるだろう。
「初めての事だ。どうなるか分からん。生きるか、死ぬか…人の形を取れるかも怪しい」
「大丈夫さ。明日は晴れの日だからね。しっかりと言祝いであげよう」
「そうだな。頼む…守ってやってくれ。此度の生は、愚かな龍に煩わされる事のないように」
そうか。還ってきたのか。
あの男ならばやりかねない、と耐えきれずに声を上げて笑う。最期の時まで妖を想い、在り続ける事を望んでいたのだから。
「頼まれた。あの二人の為だ。励むとしようかな」
面倒事ではあるが、仕方がない。
強く頷いて、彼らのこれからを祝福した。
20240802 『明日、もし晴れたら』