空を飛びたいと願っていた。
行きたい場所に自由に行ける、そんな翼が欲しかった。
風に流されるまま、あてもなく彷徨うのでも構わない。
暗い色しか知らないあの空の、別の色を知りたかった。
遠い昔、母の先祖に妖がいたらしい。
妖と人から生まれた子の多くは、太陽の光に耐えきれず生まれてすぐに死んでしまったという。
今では妖の血の影響はほとんど弱まっているが、ごく稀にその血を濃く受け継いだ『先祖帰り』の子供が生まれてしまうのだと。
青空の下へ出る事が出来ずに泣く幼い私に、祖母はどこか悲しい瞳をして話してくれた。
空を飛びたいと思っていた。
風に乗ってどこまでも高く飛び、憧れた青空に解けてしまいたいと、そう思っていた。
思っていたはずだった。
「また変な事考えてる」
「考えてない」
「嘘つき」
隣に座る彼が、困ったように笑う気配がする。
それにあえて気付かないふりをして、流れる星々の輝きを声もなく見つめていた。
彼は知らない。
画面越しでしか知らない空の青に、ずっと焦がれている事を。
取り残される独りの時間に、静寂に怯えて、終わりを願っていた事を。
あの日。あの祭りの夜に、
『花火が見たいのか?なら、こっち』
そう言って躊躇いもなく彼が差し出したその手に、泣くのを必死で耐えていた事を。
きっと何一つ彼は知らない。
それでも彼は、ずっと欲しくてたまらなかった言葉や温もりを与えてくれるのだろう。
「ありがとう」
「気に入った?なら、また連れてくる」
「…約束?」
「ん、約束」
繋いだままの手で、器用に小指を絡めて約束する。
何気のない約束にすら、泣きたいくらいに幸せを感じでいる事を、彼はいつか知るのだろうか。
ずっと、空を飛びたかった。
けれど、
この繋いだ手がいつか離れるその時までは、地に足をつけたまま、彼のそばでその温もりを噛みしめていたかった。
20240430 『風に乗って』
その幼子が迷い込んできたのは、桜舞う穏やかな日の事。
「ここどこ?」
幼子としては珍しく泣き喚きもせずにいる様子に興味をひいた。
「ここは『狭間』。現世と常世を繋ぐ場所。私の塒でもあるな」
「はざま…?だあれ?」
「誰でもないモノ。強いて言うなれば『鬼』といったところか」
どこか朧げな、金に煌めく瞳がこちらを認識するも、その表情に変化はない。
感情の起伏がみられないその様は、幼子にはどうにも不釣合いだ。
だが、下手に怯えられ対話が出来ぬよりは良いかと納得し、幼子の目線を合わせるように膝をついた。
「童、何故ここにいる?」
「しらないの。にいとかくれんぼしてたの」
「そうか。なれば帰り道も分からぬな」
分かっていた事ではあるがと、視線を外し息を吐く。
さて、どうしたものか。
このまま見て見ぬふりをして、幼子がこの地を彷徨う事になっては寝覚めが悪い。
久方ぶりに塒を出て人里へ降りるのも悪くはないか。
そう、誰にでもなく言い訳しつつ幼子を見やると、痛い程強い視線とぶつかった。
否、正確には己の額から生える2本の角に視線が注がれていた。
「…なんだ?」
「ねえ、おにさま。おにさまのつの、さわっていい?」
「……好きにするといい」
一応許可を求めてはいるがその実、その手はすでに角へと伸びている。
感情の起伏がないからなのか、それとも元々の性格が故か。
どうにも肝が座り過ぎているその様子に、半ば諦め混じりに頭を差し出した。
「楽しいか?」
「たのしい。きれい、ひんやりできれい」
初めは遠慮がちに撫でていた手は、今や角だけでは飽き足らず、髪や顔を自由気ままに撫で回している。
表情こそ変化はないが、その様子はどこか楽し気にすら見え、幾度目かの溜息を胸中で吐いた。
結局、あれから一向に幼子の手が離れる事はなく。
仕方なしに幼子を抱え、現世へ続く鳥居まで送る事とした。
しかし、
「着いたぞ。早う帰るといい」
「ん、もうすこしだけ」
「…もう、終いだ」
鳥居に着けど、中々に離れる事を拒む幼子に、胸中で溜め置けなかった溜息が一つ。
やや強引に引き剥がし地に降ろすと、名残惜しげな手が袖を引いた。
「おにさま、またあえる?」
「さてな。人とは刹那に生きる故、永く在る妖と出会うは稀であろうよ」
「またあいたい」
「…童が長く生きれば。いずれは、な」
再会を願う幼子に、明確に応える事はなく。
「この鳥居は現世に続く。その先からはひとりで帰れるだろう」
鳥居へ向けて軽く背を押せば、幼子はゆっくりとした足取りで歩を進めていく。
「またね、おにさま」
鳥居を潜る瞬間、振り返り手を振る幼子は微かに笑みを浮かべ。
現世の先へと、霞消えていった。
「…またね、か」
塒に戻る道中。
先程までの幼子とのやり取りを思い、無意識に己の角を撫でる。
突然に現れた、綺羅星のような幼子。
再会を切望してはいたが、それもすぐに幼子は忘れ去るのかもしれない。
言葉に応えなければ、縁は生まれず。
縁がなければ、再び巡り会うなど至極困難な事。
妖としては綺羅星の煌めきのような刹那的な。
しかし、人としては長きに渡る生の中で、今日の事をどれだけ覚えていられるのだろうか。
最期の刻まで覚えているのか。
それとも、次の朝日が昇る頃には忘れてしまっているのか。
どちらにしても、これ以上幼子と関わる事はないのだろうと。
どこかで惜しむ気持ちから目を逸らし、夜の帳が下りる前にと、塒に向かう足を速めた。
20240429 『刹那』
彼女の腹部に耳を寄せる。
まだ、何の鼓動〈おと〉も聞こえないが、その存在に知らず頬が緩んだ。
「まだ早いよ」
「ん、でもほら。だって」
楽し気にくすくす笑う彼女に、言い訳にもならないうわ言が漏れる。
それでも、触れた場所から伝わる確かな温もりを離すつもりはなくて。
それを知ってか、彼女の笑う声が優しさを増し、幼子にするかのように優しく頭を撫でられた。
「今からこんなんじゃ、この先どうなるんだろうね」
「どうもならない。外ではちゃんとしてる」
「そうだね。『優しくて完璧な旦那さん』だもんね」
優しく撫でていたはずの片手はいつのまにか両手になり、髪をかき混ぜる動きに変わっていく。
「お家では、こんな甘えたのひっつき虫さんなのにねー。少しは離れてもいいと思うんだけどなー」
「離れたら、俺たぶん死ぬけど、それでもいい?」
「またそんな事言う」
呆れたようなため息がひとつ。
けれど、仕方がないのだと胸中で独りごちた。
未来〈あした〉の事など分かりはしない。自分にとって、現在〈いま〉のこの温もりが奇跡のようなものなのだから。
一度、手放して失ってしまったはずの陽だまり。
くだらない自尊心や嫉妬で、酷い言葉を投げつけたくさん傷つけて突き放した。
それなのに、失った事に気付けば喪失感に耐えきれずに、逆に執着して。
だから、
『お願い、殺して』
泣いて縋ったあの夜。
息も出来ない程の絶望から、この夢のような幸せの日々が続いている事に、まだ信じられないでいる。
「俺、こんなで、全然成長できてなくて、ごめん」
「成長はしてるよ。ちゃんと知ってる。何年一緒にいると思ってるの」
ぺちり、と軽く頭を叩かれて思わず見上げると、そこには不敵に笑う彼女の姿。
「あなたの努力を私はちゃんと見ているよ。でもね、ひっつき虫は卒業しないと。理由は分かるでしょ?」
優しく微笑い差し出されるその手に導かれ、先程まで耳を寄せていたその温もりに手を当てる。
それだけで、意味もなく泣いてしまいたくなった。
誤魔化すように立ち上がると、華奢な身体を抱き寄せる。
「もう離さないで。ちゃんと私たちを守ってね?パパ」
「絶対に離さないし、何があっても守るから。ずっと側にいて、ママ」
互いに額を寄せて囁いた言葉はどこか。
白の教会で皆に見守られながら行った。
あの日の誓いの言葉にも似ている気がした。
20240428 『生きる意味』
これは、きっと悪い事だ。
深夜。あと少しで今日という日が昨日に変わる、境目の時間。
人工的な明かりがほとんど消えた暗い道を、神社の境内に向かって歩いて行く。
右手から感じる小さな温もり。逸れないようにと繋いだ少女の左手。
悪い事だ。
夜に外を出歩く事も、傍らの少女とこうして一緒にいる事も。
大人達の言いつけをこうして破るのは、とても悪い事だ。
『村外れの館に住む白い娘に関わってはいけない』
何度も大人達に言われた言葉。けれども、一度だってその理由を語りはしなかった。
白い娘。その身は病的なまでに白く、夜の光の下でしか生きられないという。
見た目の白さ以外、自分と何ら変わりのない好奇心旺盛な少女は、いつの間にか気の置けない親しい友人の一人になっていた。
だからーーー
ふと、微かに上がる息を隣から感じて、立ち止まる。
「大丈夫?疲れたら言って、おぶっから」
目線を合わせてそう囁けば、小さくかぶりを振って否の意思を示された。
次いで、繋いだままの手を軽く揺すられる。
「早く、行こ?流星群、見たい」
楽しみを抑えきれない声音で、歌うように少女は囁く。
合わせていた目線は、とうに神社の方へ向いていた。
「分かった。でも、無理だけはしないでな」
小さく息を吐いて念を押せば、返事の代わりに先程よりも強く繋いだ手を揺らされる。
今にも手を振り解いて駆け出してしまいそうなその様子に、先程と違う苦々しさを含んだ息が漏れた。
もうこれは、何を言っても聞かないだろう。
ならばこちらも実力行使に出るまでと、揺らされる手を強めに引いて、倒れ込んだその華奢な身体を抱き上げた。
「っ、歩ける!まだ、歩けるってば!」
「こっちの方が、早い」
「重いからっ」
「羽根みたいに軽いから問題ない。むしろ、太れ」
「っっっ!!」
驚く少女の抵抗を意に介さず、2人で歩いていた時よりも速いペースで歩き出す。
その振動に反射的にしがみつく少女は、もう何も言えないのか肩口に額を擦り付け意味を成さない呻き声を上げ始めた。
「バカ、変態、バカ、悪い子、バカ」
「悪い子で結構。あと、バカ多い」
「っ。バーーーカっ」
朝が来れば、大人達に叱られるのだろう。
言いつけも守れない、悪い子供だと。
何度言っても聞かない、どうしようもない子供だと。
それでも、この幼子のような少女〈とも〉との関係を止めるつもりはなかった。
元より、理由のない言いつけに納得はしていなかったのだ。
もう、自分は言われた事を守るだけの純粋な子供ではいられない。
けれども、納得出来ないものを無理やり納得できるような大人にも成りきれない。
だから、今だけは。
今は、自分の意思で、感情で。
少女と手を繋いでいたかった。
20240427 『善悪』