まだほの温かい身体。でも心臓は動かない。嫌だと戻ってきてと泣き叫ぶしかできなかった。この地の神の怒りを買ったんだとあとで思うしかない。
そのまま私はグライトに閉じ込められ、過去の自分を見ていた。自分はひたすら波のような軍勢をのけるので精一杯。まともな装備も兵糧もなく長年の逃亡の末、落ちていく私兵達。最後の砦のゴーレムと竜騎兵が死んだ瞬間。我らの悪の王子は槍玉に挙げられ、抜け殻のまま勇者にその胸を貫かれたのだ。愛していたこの大地に首をさらされたのだ。故郷に帰りたかった。ただそれだけだったのに。
風が強い地域だった。
魔法の行火は温かく、火を焚くことができない深夜に重宝している。
乾いた大地を攫うように吹き付ける強風は轟々と耳に届く。霜は降り井戸の水は凍り空は曇天。まるでこの旅の筋書きのようだと不思議な因果も感じる。
光のあるところは闇もあると昔から言われるか。強ければ強いほどその対比は濃くなる。我々はいわば闇なのか。
手元に呼んだ光でテント内がほんのり明るくなり揺れた。
「影よ」
呼応があった。
周囲に警戒をさせるために、そっと魔力を地面に注いだ。
隣の主は眠っているようだ。規則正しい寝息が聞こえる。
そっと肩まで毛布を上げて、少し間が合った。
「…何か居たか」
低くかすれた声がやっと出る。まだ少年の変声期に入ってすぐの青い声だ。
もう誤魔化しは効かない。
「今向かわせています」
「俺が行く」
身に着けた武具が擦れる音がする。動いた瞬間だった。肩口に矢がテントを貫いてトンと貫いてきた。細くも速度の出る薄い羽根。あとで見ればシダーの高級品だと分かる。2人は一気に腰を下ろしテントを飛び出した。
「落とせ生かすな」
「はい」
相手は2人。もしくはそれ以上。この言葉だけで伝わり、岩場のくぼみに設置したテントから飛び出した。設置場所を凝ったためか狙撃者はすぐに特定した。岩を抜け小さな茂みに襲いかかる。
「…っっ!!」
男か女か、暗闇の中判断できないが有無を言わさず首を叩き切る。続いて後ろの人間も血を吹き崩れ落ちた時だった。月明かりは薄い。草が揺れた。
影の伝により人数も把握した。
「斥候も2人」
「やれ」
主の声に従い娘は手元で印を結び影に命令をした。
娘は今しがた殺したばかりの人物の衣服を引き上げる。首がゆらりとついてくる。
所属は分からないが軽装。もう1人は胸元の裏に刻印がしてあった。騎士か。
「動く」
「今ですか」
夜目の効かぬものもいるのに。
「2度言わせるのか」
「いえ」
娘は従う。膝をつき、続けた。
「全員に移動の念を送りました。行きましょう」
冷たい風が一陣舞い、夜闇の中にさらなる黒い影が二人を音もなく覆った。
多くの人々は扱いづらい娘だと思うだろう。だが目の前で物理的な圧力をかければすぐに懐く。懐くように見せて機会を伺っているのだとしても…それでも愚かで健気で扱いやすい。
小さな顎を掴んで一口アルコールを飲ませる。慣れたのか咽ることなく嚥下していく。
「うまいか」
一気に色白な肌が上気した。まだ17かそこら。
「おいしくはない」
鼻に掛かる声。こちらの鼻息で前髪が躍る。面白いか面白くないか決めるのは自分だ。年寄りたちの戦略はもう古い。この娘を使おう。
どこかで鳥の鳴き声がした。
娘は反射的に上半身を起こし、身体のあちこちが痛んだ。部屋は温かく、サイドテーブルには飲みかけの飲料が置いてあった。
嫌な夢を見た。
手が震え、握り込むことで抑える。
こんなときでも空腹を感じた。
乱れ落ちている衣服を拾い、着られるか確かめながら身につける。
自分だけが彼女の力を知っていることは、優越に浸れた。
惨たらしく殺された家族の身代わりをさせたのは事実だ。
数年前…と言っても昨日のことのように思われるが、諸国で起こり始めた反乱の火種が、何も関係のない自分の村さえも、交通の要所であるというだけで焼き打ちにされた。
外見でそしりをうけた自分たちは、彼女…スズカは妹であると身代わりを引き受ける。
皮肉なものだ。自分が仲間や家族を殺したようなもの。
本当の妹が亡くなったのは言っていない。ただ命が天に消える時だけは安らかで、それだけが救いだった。
「…ここ」
掠れた声がした。もう陽は高い。
「スズカ」
取り乱すかと思ったのだが、彼女は腫れ上がったまぶたのままあちこちを見回して、状況を悟ったらしい。
「ジョル…」
とまで呟いて、兄さん。と繋いだ。
柔らかい温かな手を取り、もう大丈夫だと。自分の声も掠れていた。彼女の受けた屈辱と痛みを思うと声が出ない。
色素の薄い髪が動く。
「ごめん、兄さん」
「いいや」
何を謝っているのか分からずに。ああ、進行が遅れたからか。
「前線は。増援は…出発しましたか」
「ああ。俺たちは午後に出る」
本来なら兄妹で抱擁を交わすところだろう。他の人の目もある。唇がゆがんで、身じろいだ瞬間、自分は包帯だらけの彼女の上半身をそっと寄せた。
ひどく臭いがして、怪我をもう少し治したら真っ先に風呂に入れてやりたい。