#94 あなたとわたし
築年数はそれなりだけど、デザインが色褪せないマンション。ここには様々なジャンルの芸術家が集まっている。
「今回は何?」
その中のひとつ、231号室には。
「ん、イカロスの翼」
絵描きさんが住んでいる。
「おお、ギリシャ神話。有名どころだね」
「太陽か海か、入れて欲しそうだったけど、結局テーマ以外は指定されなかったな」
彼が向かう机の上には、とりあえず、という感じで下絵用の紙が置かれている。まだ白いまま。
「イメージを固めたくなかった?かな?」
「だろうね」
ペンも持たずに腕組みして、これは長そう。
これは依頼者の思惑通り、なのかなぁ。
「見て回っていい?」
「いいよ」
「だって好きだもん」
「何も言ってないよ?ありがとう」
彼の手によって描かれた絵たちは、出会った頃は結構乱雑に置かれていた。
でもアトリエに入り浸るようになったら、少しずつ壁に掛け始めてくれて。
私が見やすいようにかな?だったら嬉しい。
私はまだ高校生で収入がないから、彼の絵は買えない。
だから彼もお客扱いはしない。でも見に来るのを許してくれる。優しい。嬉しい。
ひとつひとつ、じっくり見て回る。
彼の絵は、なんというか迷宮のようだ。
緻密で、繊細で。
迷い込んだ私は、ただ明け渡した心を揺さぶられるがままだ。
これが、あなたの心の世界なの?
それなら、わたしは?
どんなだろう。
描いて欲しい。
あの目で、ぜんぶ見透かして、
あなたの手で私に焼きつけて…心の奥まで…
なんてね。
そんなの言えないよ。
本気で好きって言ってるようなものだし。
ちらりと彼の様子を伺うと同じ姿勢のままだった。
同じ空間に居るけど、きっとすごく遠い。
気持ちも、関係も。
だけど絵を見ている間だけは、触れ合える気がする。実際は独りよがりの妄想だけどさ。
私は視線を絵に戻して、その奔流に身を任せた。
すでに完成して変わらないはずの色彩が、
オーロラのように印象を変えてくる。
…好き。どうしたって、すごく好き。
溢れる気持ちと涙を、そっと払って絵から離れた。
「先生、ありがとう。お掃除するね、お金ないから!」
「知ってる。学業を疎かにしない程度におさめてくれよ。あと、先生はよしてくれ」
「わかりました、先生!」
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人と人が向き合うって、
難しいことだなと思います。
この「わたし」も、気持ちの半分も言えず、絵を見ることにのめり込むことで解消しています。
それがいいことなのかどうか悩みつつも受け入れてくれる優しさに甘えています。
どこまでいっても「あなた」と「わたし」が別の人間であることは変わりありません。どれだけ客観的に見ようとも、相手の心情を汲もうとも、どうしたって主観が混じります。そのことが私にとって救いでもあり絶望でもあり。
#93 柔らかい雨 / どこまでも続く青い空(10/23)
雨…雨は、やっぱり好きになれない。
傘をさしていても、
荷物が濡れないように気を抜けないし、
あと僕はメガネを掛けているから、
濡れても見えないし、下手したら曇るし…
ぶちぶちと内心文句を言いながら、僕は家路を急いでいた。
強く降る雨の前に、折りたたみ傘は無力だ。
それでも視界と荷物を守るため、滑る持ち手を握りしめていた。
悪路でも無事に帰宅し、荷物も少し湿ったくらいで済んだ。
だけど、容赦なく雨に叩かれた僕の体は-
-雨の音がする。
熱に倒れた僕は、スイッチの壊れた目覚まし時計のように絶え間なく続く雨音に目を覚ました。
雨は好きになれない。
なにより逃げ場のない感じが嫌だ。
外にいても、家の中にいても、
雨は窮屈さを連れてくる。
「おにいちゃ、おきた?」
寝起きと熱でぼんやりとしていた僕は、
声をかけられてやっと、ベッド横で座る小さな妹の存在に気づいた。
「…マリー」
妹は身を乗り出し、額に手を当てる。幼子特有の、小さくすべすべした手は気持ちがいい。
さらに体を寄せて僕の顔を覗きんできた妹の、
普段なら、どこまでも続く青い空のように澄んでいる瞳は、心配の色に曇っていた。
「おねつ、つらいね、ごめんなさい、マリーが…マリーのせいで…」
確かに、外に出たのはマリーのちょっとしたわがままを叶えるためだったが。
でも、そうすると決めたのは僕だったし、
何より、風邪を引くほど強く雨が降るなんて、誰も予想してなかった。
妹の瞳から、ぽたぽた涙が落ちてくる。
至近距離から降る温い雨を頬で受け止めると、とても柔らかく感じた。
ああ、こんな雨なら好きだけれど。
だからって妹を泣かせておくのは本意ではない。
「いいんだよ、マリーは何も悪くないんだ。泣くのはおよし。せっかくの晴れ空が曇ってしまう」
いつもなら、この言葉で泣き止むが。
「でも、でも…」
「気にしてくれるんだね、ありがとう。それなら、母さんの所に行くんだ。そうして僕の看病のお手伝いをしてくれるかい?」
皮膚を擦らぬよう、そっと涙を拭い、頭を撫でて。
「…うんっ、わかった。おにいちゃ、まっててね」
僕の配慮も知らずゴシゴシ目を擦り、使命感に燃えた妹は、部屋を出ていった。母なら、僕の風邪がうつらないように、かつ妹が満足できるように、うまくやってくれるだろう。
部屋が静かになって、雨の音がより聞こえるようになった。だけど、思っていたより柔らかく聞こえる気がした。
まるで、優しく包み込むような。
#92 一筋の光
暗闇を切り裂く、一筋の光。
僕はクローゼットの中で膝を抱えながら、
息を潜めて扉の隙間から差し込む光をじっと見ていた。
心を占めるのは、
緊張と僅かな不安、それから期待。
聞こえるのは、消しきれない呼吸音と鼓動。
それから、少女特有の高い声。まだ遠い。
僕を探している。
見つかったら終わり。
見つけてもらえないと終わらない。
階段を上がる音。
もっと、もっと探して。
君がいなきゃ、満足に呼吸もできないんだ。
とうとう、この部屋の扉が開けられた。
早く、早く。
でないと僕の心臓が飛び出しそうだよ。
胸を押さえるように、
ぎゅっと腕に力を入れて、その時を待つ。
ざあ、という音と共に光が一気に入り込んできた。
目が慣れなくて、よく見えない。
「みーつけた!」
その弾んだ声から、君が笑っているのが分かった。
君に求めてもらえる喜びが、
僕の心に一筋の光となって差し込む。
「つぎは、-----ね!」
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ただの隠れんぼを希望される方は、
「私が隠れる番」と入れましょう。
ダークな隠れんぼをご希望の場合は、
どうぞ、好きな部位を、彼女に。
#91 哀愁をそそる
「哀愁」を「そそる」?
なんともな組み合わせに首を捻った。
そそる、ってこう…
グワッとくるイメージがあるんだが。
ほら、食欲をそそる、とか。
哀愁って、そんなにハッキリとした言葉だっけ。
私は探究心をそそられ、まだ見ぬ言葉を求めてネットの海に漕ぎ出した。
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そそる:ある感情や行動を起こすように誘う。
(例)うなぎ屋の前を通ると、蒲焼きのタレの匂いが漂ってきて、私の食欲をそそる。
そそられる:意識や欲求が駆り立てられるさま。
(例)私は匂いに食欲をそそられたが、今月の小遣いが残り少ないのを思い出し、なんでもないフリをして立ち去った。
哀愁:寂しくもの悲しい気持ち。
もの悲しい→なんとなく悲しい、うら悲しい。
うら悲しい→なんとなく悲しい。
(例)知らないおばさんが飴をくれた。腹を宥めるようにさする姿に哀愁を誘われたんだとか。表情は取り繕っていたが、手は無意識だった。この話を妻にしたら、哀愁をそそられて小遣いを増やしてくれやしないだろうか。ミルク味の飴を口の中で転がしながら、ないな、と即座に否定した。
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哀愁を感じても、なんとなく感じただけだから関わりにいかない気はするんですけどね。飴ちゃんパワーということで。
#90 鏡の中の自分
鏡の前に立ち、右手を上げる。
すると、鏡の中の自分も手を上げる。
対面で握手をする為に右手を差し出す。
相手も右手を伸ばし、
両者の右手は斜めに繋がれた。
目の前の自分に手を伸ばす。
腕は交差せず、手が触れ合った。
硬く冷たい鏡越し。
果たして鏡の中で上げられた手は、
右手なのか、左手なのか。