#89 懐かしく思うこと
ぐちゃぐちゃとした思考回路で生きていた、あの頃。
幸せでもあり苦しみでもあった強烈な感情は、いつの間にか。
ぼんやりとしか思い出せなくなっていて。
もう手を伸ばしても届かないと知った。
ただ、置いてきた過去から繋がる細い細い糸を、
自分でも気づかないくらい長く長く引きずって。
それが、ごくたまに心に触れて、
懐かしいような、そんな気持ちにさせるんだ。
#88 高く高く
「インフルエンザですねえ、ほら陽性が出てます。見えますか?」
気力と体力を振り絞って受診したクリニック。
少し前から子供がかかって看病していたし、覚えのある痛みに、「これはうつされたな」と思ったが。
どうもコロナ禍真っ最中のような、みなし陽性とはならないらしい。
検査結果待ちの中、時間を見計らって飲んできた熱冷ましも効果が薄れ、寒気と眠気でどうしようもなくなってきた頃、
医者から冒頭の結果を頂いた。
熱は、高く高く。
#87 形の無いもの
本当に形の無いもの、なんてあるのかな?
思考や感情は、脳内でホルモンやら電気信号やらがわちゃわちゃしてる。
風は、空気があっちからこっちへ流れているせい。
目で捉え難いだけで、物理的な作用があるという意味では形が無いわけではない…解釈次第ではあるけれど。
炎はどうだ?目には見えるけど触れない。
熱と光のエネルギー。
考えてみるとエネルギーは不思議だ。
何をするにも、ちゃっかり存在している。
温度の上昇や電球の点灯、高い所から物を落とす…
菓子パンの栄養表示にあるカロリーに慄いたり。
拳を握るとき、脳から発信された命令が手の神経まで伝わり、筋肉が収縮して…というようなことが起こっている。
どのくらいの力がかかっているかは、握力計で計測できるし、熱くなった腕を触って感じることもできる。
でもエネルギーそのものではない。
私達はいつも、エネルギーが起こした結果だけを見ているのだ。
グーグル日本語辞書より
エネルギー:
1.精力。元気。
2.物理学的な仕事に換算しうる量の総称。
位置・運動・熱・光・電磁気など。
「―保存の法則」
3.動力資源。
「省―」
#86 ジャングルジム
鳥かごに入ったら、こんな気分かな。
ジャングルジムの中ほどに留まって、空を見上げる。
四角に区切られた狭い空は、
飛んだら気持ち良さそうな青、ではなく。
今にも雨が降り出しそうな灰色。
周りで遊んでいた子たちは、とっくに雨を避けて去っていて、公園を独り占めだ。
私は、雨が降るときを待っていた。
そこに。
じゃり、じゃりっ
砂利を踏む音がだんだん近づいてきた。
誰が来たかなんて、顔を見なくても分かる。
「雨、降るよ」
「知ってる、待ってるんだもん」
「だから帰らないんでしょ、知ってる」
「よく分かってるね」
「だって好きだから。一緒に待ってていい?」
「私も好き。中に入る?」
「てっぺんに窓を付けてもいいのなら」
「お願いしていい?」
「わかった」
彼女は傘を持ったまま、するすると中に入ってきた。
一応危険防止のため、上に登る前に一旦傘を受け取る。そして最後のワンタッチだけで開く状態にして差し出す。
無言で行われるやり取り。
先の会話だって、
双子の私達にとっては一種の様式美だ。
分かりきっている答えだって、
口に出すのが必要な時もある。
透明なビニール傘をジャングルジムのてっぺん、
私達の真上に被せて、窓にする。
一連の作業を終えた彼女はいつも通り、私と向かい合わせに座った。
じっと二人で見上げる空。
四角の枠を更に8本の骨で区切られた空は、より鳥かごらしくなった。
なかなか、悪くない。
#85 声が聞こえる
奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の
声きく時ぞ 秋は悲しき
「…ぃ…おい、起きろ。紅」
ん、なに…バンビの声だ。
せっかく気持ちよく寝てるのに。
「ったく、ノーテンキな寝顔やめろ。いい加減起きろって。電車なくなるだろ」
あ、悪口。いけないんだーうふふ。
許さないもん…ね…
「…やめた。こいつは朝まで起きない。知ってた」
あと少しで浮上できた意識は沈んでいった。
「…あれ、あさ?」
目が覚めた。目線だけ動かして時計を見ると針は午前3時を指している。
「…あさじゃない…」
テーブルに突っ伏して寝ていたせいで痛む体をギギギと起こすと、反対側でバンビが寝ていた。
腕を組んで座ったまま。
「おお…」
座布団だから落ちる心配はないけど…。
俯いている顔をそっと覗き込むと…うん寝てる。
体も壁に寄りかかってるけど、まるで起きてるみたいに見える。
飲み散らかして食べ散らかしていたはずのテーブルは片付けられていて、バンビの前に缶ビールが一本あるだけ。ん?なんで一本?まあいいや。
そっと立ち、台所で水を飲む。
今年もまたすっかりバンビの世話になったようだ。
「なんでだろうなぁ」
秋だなぁ、と思うと。
バンビの「まったくコイツは」って呆れてる声が聞こえる気がする。
なんだか呼ばれてるような。
そうするともう彼氏といるのがつまんなくなって、
我慢できずに別れてしまう。
フリーになるとバンビと会いたくなって家にお酒持って突撃。そんなのを繰り返して、もう何年だろう。
「ねえ、バンビ。なんでだろうね?」
1回会って飲めば、いつも満足だけど。
もう少し一緒に居てみたら何か分かるかな。
とりあえずバンビの布団で寝直してから考えよう。
「座って寝てるくらいだし、いいよね」
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前話「秋恋」の彼女視点から。
人里離れた奥山。積もった紅葉の上を歩きながら、鹿が鳴くのを聞くと、感情的になっちゃう。それが秋だよねぇ。
大まか、そんな感じです。
大人なのになぁとは思いましたがバンビ限定ということで。
竜田姫と鹿のお話でした。