イルミネーションは綺麗だと思うけれども、
本物の木に巻きつけて毎晩のように明るく照らしてる有様には、どうしても木の立場から慮って心配になってしまうようになった。
熱くはない?我慢してるのかもしれない。
それとも人間達に見てくれてることが良かったりするのかな。
木は木のありままの姿が美しいと私はそう思う。
四季の空気に揉まれながら、それでも木は自然に任せて身を委ねている。
それがどうだろう?人間達によって、冬の間はイルミネーションの一部とされてしまっている。
それどころか、年々それは増やしていって、もっともっと見栄え良く…とひどくなってはいないか?
本来クリスマスで飾されるであろうモミの木でもない、ただ道路のそばで植えられただけの木に。
もう一度、立ち止まって考えてみて欲しい。
愛を注いで、目の前の子の器が愛情でいっぱい溢れる子どもであって欲しいと願う
できれば家族も、友人も、仲間も、恩師からも、そして私のような他人にも。
そこには自分への見返りは要らない
自分を満たすためだけのものでもない
ただ、目の前の子が元気でいて、たくさん笑っていて、泣いて、怒って、子が感情をありのままに出せて、楽しく過ごして、自分が自分らしくいられるように。
慈しみの愛を、あなたに注ぐよ
あなたは愛を受け取って、自分をさらに輝けるように
そして大人になったら、今度は未来の子どもへ
そうやって、愛のバトンを受け継がれていくのだ。
何でもないフリは結果として良い事はない。
その場限りでは解決したように思われるかもしれない。しかし、何でもないフリしてしまったら、それは自分をもだましだまし、向き合うべき問題を解決するのを先延ばしただけ。
大きな問題点だと気付いたなら、すぐにでも周りに相談した方が良い。
ただ頭では分かっていても、うだうだうだと何でもないフリをしてしまう性なのではあるが、頑張って治そうとしている。
過去の自分と比べてみると、多少は変わったと思う。
周りを頼ろう、SNSであっても愚痴ろう、とにかく自分には溜め込まないというように。
何でもないフリは、自分の本当の率直な気持ちを蓋してしまうようなものだ。
仲間とは、友達とは基準が違う。
それぞれの想いが違っても、目的や目標あるいは手段が同じだったり、またはその場所にたまたま集まって縁が繋がって定期的にやり取りする人達が「仲間」。
時には協力し合いながら、共に課題に挑戦する事もあるだろう。
それは友達よりも絆が深くなることもある。
けれど、いつかは仲間達は散っていく。その場限りとは言わないまでも、私達は友達ではなく お互いのプライベートに深く関わることはないのだから。
それでも、その時期に結束が固く結ばれたことは忘れないだろう。それも、私の一生のうちの大事な人達。
ありがとう、ごめんね。
それは人と関わり合う上で、とても必要なワードだと思う。
ありがとう、と感謝の気持ちを伝え、ごめんね、と反省の意を込めて謝ることができたら、相手との距離ももっとグッと近くなる。
子どもが家から社会へ関わるとき、お友だちと些細なことでケンカしてしまったり、あるいはささやかな気遣いに気付くことができたなら、きっと大丈夫。
気持ちを込めて、素直に伝えることが重要である。