命が燃え尽きるまで、
私は見届けようと思う
それが残された人の務めでもあると思う
どんな死を迎えるのかが大事なのではない
どのような人生を生きてきたのかを見つめることじゃないかなと思う。
最期まで、私はあなたと一緒にいる時間を作りたい
ささいなことでも、ただ挨拶を交わすだけでも
あなたの笑顔が見られるなら、周りを喜ばせる
みんながみんな、あなたのことを可愛がってる
天寿を全うするまで、あなたの優しい顔を見せて。
喪失感。
それはまさしく、ある日突然、生家を失った出来事ほど喪失感はもう二度とないだろう。
それでも日常はめまぐるしく続くし、ようやく落ち着いて自分の感情と向き合う時間ができた時は
とんでもなくジェットコースターのように落ち込み、悲しみと虚しさと後悔、懐かしみ、過去の思い出とそしてあの家で続くはずだった未来はもう掴めない。
姉の結婚式で、あの家の和室で綺麗な着物を身に纏い、家の前でたくさん写真を撮った。
子どもの頃は、近所の子ども達と一緒に家の前で遊んだことも、写真に残っている。
「家」というのは、誰もが生きる上での人生の土台だと思う。
みんなも、自分では当たり前の事すぎて思い入れも普段はそうは思わないだけで、実はしっかりと人生に組み込まれている。
失ってから初めて解ることもある。
だから家は大切なもの。家も、人が住んで初めてその意味を持つし、誇りを持つだろう。
今まで数十年間、私達を守ってくれてありがとう。
時々、夢に見ることもあるくらい、更地になってしまった今もずっとずっと大切な家。
世界に一つだけ
それは何だろうか
人間も動物も、個体差は数知れずあると思うけれど
世界に一つだけというのは、誰も見つからないかもしれない
世紀初の「何か」が発見されるかな
けれど、私が思う、世界に一つだけというよりは
それは地球という、宇宙の中の惑星。
地球こそが、私達の生きる世界に一つだけではないだろうか。
わたしは生まれた時から、胸の鼓動が“普通”の人とは違うらしい
先天性心疾患。
いつも心臓図を図るときも、聴診器で当てられる時間も、他の人よりもとても長い。
なぜかというと、平常時でも心臓から常に雑音が混じっているからである。
だから気付かなかった。不整脈と、動悸の違いにも
動悸が長く続いても、生まれつきのものだからと
ずっと放置し続けてきた
本当はそこに病気がずっと隠れていたのに。
…と、まぁなってしまったものには文句を言っても仕方ない。
そういうわけで、体調の悪い時は胸の鼓動によって違うこともあるし、そういう点では分かりやすい。
子どもの頃は、マラソンが大嫌いだった。
走ると胸が痛くて、苦しくて、とても走れそうにないのに、他の子達はとびっきり速く楽しそうに走っているのが不思議でならなかった。
走り終えた後も息苦しさが続いて、心臓が大きく動いて痛くて落ち着かなかったし、泣きたくもないのに痛くて泣いてしまうほどだった。
どうして自分だけ?
後になってから、自分は赤ん坊の頃に心臓に穴が空いていた。それは自然と塞がっているのだが、今も雑音が混じってる-と親から教えられた。
だからか、と納得はできたけれど、それでも人より心臓はあまり強くないから-やっぱり運動は苦手なままだ。
心臓の強い人が羨ましいと思ったこともあるけれど、もう走りたいとは思わない。
学生の頃はコンプレックスでもあったが、今は比べられることももう無い。
ただ、一度だけでいいから、誰かの身体と入れ替わってみたい。
“普通”の人の胸の鼓動は、一体どのように響いているのか。
時を告げる瞬間。
夕方の放送で音楽が鳴ったら、もう夕方か〜と分かる。
近所の子ども達も、まだ遊んでる途中であっても
きっと放送が鳴ったら
「まっすぐ帰ってくるんやで!」
と口酸っぱく言われてるかもしれない。
時計を持たない子ども達にとっても、分かりやすくていい。
定番の曲は「夕焼け小焼け」だと思うが、町によっては違う音楽もあったりするのだろう。
テレビで、地方ロケで流れた音楽はなんとX JAPANのYOSHIKIさんが作曲された「Forever Love」。
さすがは出身地もなかなかイケてるではないか…。