『友達』
中学からの同級生の彼に家族が増え、巣立ちを迎え、伴侶に先立たれても僕と彼とは友達のままでいる。
「お前は俺にいつ告白とかしてくれるわけ」
空いたグラスに瓶ビールが注がれる。昔はジョッキを何杯でも空けていたふたりはいまや大瓶一本で満足できるようになってしまった。居酒屋の隅に置いてあるテレビは野球中継を映していて、食い入るように見る人、気にせずそれぞれの酒を飲む人とさまざまだった。雑に注がれたビールの泡がすぐさま消えて炭酸が抜け出ていく。
「しないよ。友達のままでいたいから」
手酌で彼のグラスにビールが注がれて、それで大瓶は空になった。
「友達じゃなくなったらこうして瓶ビールとか枝豆とかシェアしてくれる人がいなくなっちゃうでしょ。僕らの年でそういうことしてくれる人は貴重だよ」
「確かに」
納得したようにグラスを空にしたふたりだったけれど、揃って店をあとにする間際に彼が言った。
「同居人ならビールも枝豆もシェアできるんじゃね」
「えっ」
「次また飲みに行くときまでに考えといてくれ。部屋は掃除しておくから」
この年で友達をやめてそして同居人になるという選択肢が出てくるとは思いもよらなかった僕はそれじゃと手を振る彼に手も振れず、今も言葉が出てこない。次第に胸の隅から中学生の頃から積み重ねてきた想いが大声で主張を始め、まだ遠くへは行っていない彼の行方を追おうと脚を動かし始めた。
『行かないで』
帰ってきたら伝えたいことがある。そう言って戦争へ向った人は世界が平和になっても帰ってきていない。同じ時期に徴兵された人は怪我を負ったり棺に入るなりして帰ってきているのに、どうしてあの人だけが帰って来ないのだろう。
戦争に向かう前、待っていると伝えたのがいけなかったのだろうか。心に思っていたことを口にして泣いて縋って引き止めていたらよかったのだろうか。こんなに寂しくて泣いているのに、日に日に食欲も無くなって弱っていっているのに、いつまでも私を放ったらかしてどういうつもりなのだろう。
戦争に向かう彼を見送る夢を幾度となく繰り返して見ている。戦争に行ったはずの彼が見知らぬ人と仲睦まじく暮らす夢。戦争に行った彼が命を落とし、誰にも見つからずに朽ちていく夢。戦争に行った彼が敵に捕まり惨たらしく死んでいく夢。
「行かないで!ここにいて!」
戦争に向かう彼を私はいつも止められない。
「帰ってきたら伝えたいことがある」
何度聞いたかわからない言葉だけを残して彼はまた戦争に向かう。
「どうして」
もう見たくないと思うのに意識がまた遠のいていく。どうしてあの人は帰ってこないのだろう。私の命の火が尽きようとしているのに。
『どこまでも続く青い空』
農場から帰ってくると愛犬がなにやら咥えている。
「ただいま。今日は何を見つけてきたのかな?」
普段はただの愛らしい犬は山に入るととてもよく働く猟犬だ。なので拾ったものはとりあえずこちらに見せてくれるし、あげるよと言えばおもちゃにしたり食糧にしたりする。咥えた口からぽとりと落とされたそれはどうやら弱った生き物のようだった。
「……あー、これはこれは」
拾い上げて検分するとくちばしがあって羽もある。そしてまだ暖かみがある。
「ごめんね、これは僕がもらうよ」
利口な愛犬は少しだけ惜しそうな顔をするとその場にうずくまり拗ねてしまった。
弱ったひよこを箱に入れ、湯たんぽに布を巻いたものの傍に置いてやると少し元気を取り戻してピィピィと囀りだした。飼料用の穀物を問題なく平らげたひよこは甲斐甲斐しく世話を受けるうちにぐんぐんと成長し、今では愛犬と変わらぬ大きさにまでなっている。
「君はなんていう鳥なんだろうね……?」
俊敏に動く犬と鳥はお互いいい遊び相手になっており、空中を縦横無尽に舞う鳥を犬は身体をバネのように躍動させて今日も飽きることなく追いかけている。種族の違う友人同士が遊び回るのをずっと見ていたい気持ちはあるけれど、野生のものはいずれは野生に返さないといけない。
よく晴れた日に空を見上げる。あれからもう少し大きくなった鳥も同じように空を見つめていて、これから自分がどこへ行くべきなのかをわかっているようだった。
「さぁ、お別れの時間だよ。友達に言っておきたいことはあるかな?」
心なしか涙ぐんでいるように見える愛犬は鼻を鳴らして鳥にひとしきりじゃれついた後、僕の足元から離れなくなった。
そよそよと風が吹いてきたのを見計らっていたかのように大きな鳥が翼を広げ数回羽ばたかせて空へと舞った。頭上を何度か旋回した鳥は友人の吠える声に耳をそばだてていたが、やがて空の彼方へ向かってまっすぐに羽ばたいていった。どこまでも続く青い空にその姿が見えなくなるまで愛犬はじっと大空を見つめていた。
『衣替え』
家内が亡くなって初めての冬。肌寒くなってきたので厚手の上着の発掘に乗り出すものの、普段の生活はもちろん衣替えも自分ではしたことのない私にはどこを探せばいいのか検討がつかない。総当たりの構えでようやく見つけ出した手編みのカーディガンを羽織ってみると身に覚えのある暖かみが体を包んだ。私の知る家内の趣味のひとつが編み物で、冬に身に纏うもののほとんどは彼女のお手製だった。
いるものもいらないものも入り混じる押し入れには手つかずの毛糸が至る所に見えていたが、そのひとつがころりと転がって頭に当たる。手に取った毛糸を戻そうとした私はふと思いついてそれをやめ、インターネットで編み物の始め方を検索した。家内がよく使っていた道具箱を漁ってかぎ針を見つけ、動画を見ては編み、間違いに気づいて解きを繰り返す。毛糸が毛糸のまま時間が過ぎたことも多々あったが、積み重ねは知識となり技術となり、覚束なかった手元はそれなり様になっていった。
そうして出来上がったのは簡単な編み方でもできる不格好なマフラー。家事をこなしつつもひと冬に私や孫たちになにかしらの服や小物を作っていた家内は自分のことは後回しにしていたなとふと気づいてから思ったよりも時間がかかってしまった。
「編物って大変なんだな」
仏壇にマフラーを供え遺影を見つめる。
「でも人のために作るのは楽しいでしょう?」
家内がそう尋ねてきた気がする。
「うん。まあ、そうだな」
そうして私に新たな趣味ができ、今は技術の研鑽に邁進している。
『声が枯れるまで』
人々を魅了してきた歌姫は為政者の寵愛を受けてただひとりのために歌うことを選んだ。貧しかった歌姫の家族を安定して養うための選択であったが、歌姫を想うものは数多く、自分たちから彼女を奪ったと逆恨みの感情を持つものもまた数多く存在した。屋敷に暴徒と化した人々が押し寄せたのは間もないこと。彼らは歌姫に要求を突きつける。
「家族の命が惜しければ、私たちのために歌い続けろ」
歌姫はみなの前に立って恐怖に慄きながら震える声で歌い始めた。しかしその時には歌姫を囲っていた為政者も彼女の家族たちもすでに亡きものにされている。なにも知らされぬ彼女は声が枯れ果てるまで歌い続けたが、かつて人々を魅了した歌声とは程遠いものを聴くこととなった暴徒たちは彼女に失望し、屋敷に火を放つという蛮行に及んだ。
「おまえにはもう価値がない。家族ともどもあの世へ行くがよい」
真実を知った彼女は声の出ぬ喉を押さえ、血の涙を流し、すべてを奪った人々を呪った。
それからしばらくの間、街には幻聴に悩まされる者が頻出し、そのうちの幾人かはそれが歌声だったと主張した。耳に直接吹き込まれているかのようにいつなんどきも聞こえる歌声にある人は怒り、ある人は怯え、やがてはまともではなくなって命を落としていった。焼け落ちた屋敷跡から数人分の骨が拾い上げられ、丁重に葬られるまでそれは続いたという。