『たそがれ』
夕方のサイレンが街に鳴り響く中を自転車に乗って家路を急ぐ。ジョギングやウォーキングそして犬の散歩をする人たちとすれ違いながら近所の公園を通りがかるとこどもたちはまだ駆け回って遊んでいた。早く帰らないと人さらいが来るよ、と小さな頃は脅されていたな、となにげなく思い出していると夕焼け色の光を浴びて男女が抱擁を交わしているのを視界に捉えてしまった。人の逢瀬をじろじろ見てはいけないと思いながらも目が離せなかったのは絵画のように美しい光景だったから。
昼と夜との境目に男と女はしばしの間言葉も交わさずただ抱擁していたが、男がまどろみに呑まれて瞳を閉じるとその体は正体を失くして光の粒となり、それもやがては徐々に光を失って消えていく。残る女は寂しげに笑みをこぼしたあとに顔をあげ、そうして自転車に乗った自分と目が合った。
この世のものではない人だ、と直感的に思った。慌てて道を変えて自転車を急いで走らせるけれど、人と一向にすれ違わない。公園が近くにあるはずなのにこどもたちの声が聞こえてこない。家に帰り着いてもいい距離のはずが延々と見覚えのある道を走らされ続けているようだった。
それがふと収まったのは視界の端に映り続けていた夕焼けがついに光を失ったとき。自転車に跨ったまま立ち尽くしているとワン、と犬の吠える声がした。振り向いた先には光る首輪を身に着けた柴犬がおり、リードを引いた人がすみません、と謝りながら街灯が照らす見慣れた道の先に消えていった。
『きっと明日も』
本屋でたまたま目にしたおまじないの本に妙に惹かれてしまい、母にねだって買ってもらったのはずいぶんと昔の話。おまじないだけでなく魔法使いのなり方までもが書かれていたその本に衝撃を受けた私はその日から今日に至るまで毎朝魔法の練習を続けている。けれど成果はいまだに目に見えてはこない。
集中しているさなかにひそひそと聞こえてきたのはいつの頃からか聞こえるようになった家庭菜園に植わっている野菜たちのボヤキ。やれ水が足りないだの葉っぱの密度が高すぎるだのの文句を解決していくと、次第に声も聞こえなくなっていった。
気を取り直して深呼吸の後に手をバッと前に出す。
「出でよ炎!」
手のひらからは何も出ない。カッコいい攻撃魔法をバシッと決めてみせるという夢は昨日に引き続き叶わなかった。
「もうちょっとな気がするんだけどな……」
「それ10年前も言ってたね」
朝日差す庭先にて首を傾げる横で母は洗濯物を干し終え、家に戻っていった。
『静寂に包まれた部屋』
昨晩泊まりに来た友人が帰ってしまうと、先ほどまでの騒がしさが懐かしくなるほどに静かになった。トーストを乗せていた皿とカフェオレを入れていたマグカップを流し場に持っていくと食器がカタカタと鳴る。スポンジで洗剤を泡立てる音や流し場に水が流れていく音、そして蛇口から水滴の一粒が落ちる音まで聞こえてしまう。
テーブルに置いていたスマートフォンに手を伸ばすと友人から世話になったとメッセージが入っていた。昨晩交わした酒のことや料理のこと、思い出せなかった昔話を今思い出したことなど、楽しい時間の反芻がそこにはあった。静かな部屋に思い出し笑いが漏れ出でる。ダイニングの椅子をギシリと鳴らして、返信を打つことにした。
『別れ際に』
魔王を倒すために組まれたパーティは宿願を果たして魔王を討ち取り、世界を蝕んでいた瘴気は跡形も無く消え去って真の平和が訪れた。仲間たちの心は晴れやかなものであったけれど、魔王を討てと命じた王のおわす城への足取りはみな僅かに重かったように思う。城にたどり着けば長かった旅は終わり、それぞれの生活ヘ帰ることになるからだ。だから転移魔法をわざわざ一つ前の村に設定し、ほんの少しの時間稼ぎのために徒歩で城へと向かっている。
強くなるために日々魔物たちを打ち倒したことや、武器防具を揃えるための金策に走ったこと、新たに覚えた魔法を実戦で使えるようになって大喜びしたことなどの些細な昔話に花が咲いていたが、景色の中に城門が見えてきたときにふとみんな静かになった。
「もう一回最初から冒険したいぐらいだな」
ぽろりとこぼした言葉には各々真反対の意見が返ってきた。
「いや、今回は大冒険過ぎた」
「二度とごめんだわ」
「何回死にかけたと思ってるんですか……!」
人並み外れた勇者はやっぱりちょっとズレてるな、と他3人はわだかまってこちらを見てはひそひそと話し始めた。自分のことは至って普通だと思っているのだけれど、そんなにだろうか。仲間はずれにしょんぼりしていると、3人の忍び笑いが聞こえてから肩に重みがかかった。
「冒険はしばらくこりごりだが、酒と飯ならいつでも付き合うぜ」
「じゃあ私はショッピング。あなた荷物持ちね」
「わ、私は、あなたとならなんでも……!」
城門手前で立ち止まっていた魔王討伐パーティはやがてゆっくりと解散に向けて歩き出す。胸に一抹残る寂しさは寂しさのままに、これから先のことを想えるという輝かしさにそのときようやく気がついた。
『通り雨』
幼なじみと共に電車を降りて駅から出ると夕暮れの迫る地元の街には雨がしとしとと降っていた。
「傘、持ってる?」
「持ってない。持ってる?」
「持ってないから聞いたんだよ」
雨か〜と見たままを口に出して雨雲の広がる空を眺める男子二人。構内のコンビニで傘を買う人たちを見た幼なじみは俺らも買う?と尋ねてきた。
「えー、相合傘になるじゃん」
「シェアする前提で言ってくるじゃん?」
言われてみて2本買う頭が抜けていたことにはたと気づいた。幼なじみはなぜか頷いてコンビニへと向かうと傘を1本だけ買って店を出てきた。
「リクエストにお応えしてあげよう」
相合傘がしたかったわけではなかったはずなのにあれよあれよと雨の中を男子二人の相合傘で歩みだすこととなった。
「ごらん、雨がふたりを祝福しているよ」
「きもちわるっ」
自分よりも背の高い幼なじみが傘を手に笑う。ふと今の自分の立ち位置にいずれは彼の恋人が並んで立つ日が来るのかもしれない、と想像をして複雑な気持ちになった。
「じゃ、また来週」
「うん。傘ありがと」
「相合傘またやろうね」
「いや、いいし!」
それぞれの家の方向へ別れる頃には雨は上がっていた。ひとりになって家路を歩む間になぜ複雑な気持ちになったのだろうとあれこれ考えてみたけれど、確たる答えは出ないまま家にたどり着いてしまった。