わをん

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9/15/2024, 7:19:57 AM

『命が燃え尽きるまで』

先ほどまで元気いっぱいにカサカサ走り回っていた触覚の長い黒光りした虫は、最近CMでも放送されているスプレーのワンプッシュであからさまに不自然な動きを見せ始めた。ひと昔前の記憶にある殺虫スプレーとあまりに違う薬剤の効きように企業の絶え間ない努力の成果を感じずにはいられない。
ただ、効果の程はあっても静かに穏やかに動かずに天に召されるという現象を引き起こすことはできないらしい。黒光りした虫はやがて苦しみにのたうち回るかのように縦横無尽に部屋を走り始めたので、私は全身の肌を粟立てさせながらあわてて部屋のドアというドアを閉めた。こうなってしまってはあの虫の命が燃え尽きるまで部屋には入れない。というか入りたくない。
しばらく時間を潰すしかないか、とスマートフォンに手を伸ばそうとしたところ、手元にもポケットにもその手触りがない。思い当たるのは締め切った部屋のテーブルの上。虫の命が尽きるのを待つか、犠牲を払って部屋に突入するか。私の心の天秤は振れに振れてまったく定まろうとはしてくれなかった。

9/14/2024, 3:41:08 AM

『夜明け前』

大型バスに乗って舗装されている所まで行き、そこから山の頂上を徒歩で目指すルートに降り立つと、あたりはまだ闇の中。人の人との話し声と石と土の道を歩く音を聞いているときに思ったことは、眠れずにスマートフォンを見るでもなく見ていた時間のこと。
目は動画や画像を追っているのに何も頭に入ってこない。眠気が来るのを待っているのに眠たくなるどころか目が冴えてくる。いつから眠るのが下手くそになってしまったのかと記憶を遡っても何が原因かわからない。このままでは死んでしまうのではと思い始めたときに無理矢理にでも思考を変えたくていつかやりたいと思っていたことを考えたときに最初に出てきたのがご来光のことだった。
時計を見てみるとスマートフォンを眠れずに眺めていたときと同じ時刻がバックライトに映し出された。時間の過ごし方のあまりの違いに今、山頂近くから東の方角を見つめている状況が夢なのかもと思えてくる。
もうすぐ音もなく光が差し込んでくる。その光を見たときに、私の中の何かは変わってくれるだろうか。眠れずにスマートフォンを見ていた時間をもう繰り返さずに済むだろうか。膨らみ過ぎた期待を抱えながら、昇る光をいまかいまかと待ちわびていた。

9/13/2024, 4:06:56 AM

『本気の恋』

デートの待ち合わせをすっぽかされ、もう帰ってしまおうかと思っていたところに現れた彼は他の女とデートをしていた。
「でもほんとは今日、彼女さんとデートだったんでしょ?」
「あぁ、あれは遊びの彼女。本命はおまえだよ」
タイミングよく、あるいは悪く私のことを話題に出してくれたので私は自分の置かれた立ち位置を知るとともに、私と約束していたデートの場所にのこのこと現れた彼の浅はかな言動に大いに幻滅した。恋はいつでも本気で立ち向かうものだと思っていたから、なおのことだった。
「ねぇ、」
本気で立ち向かっていた私は彼の前にわざわざ現れた。薄笑いを浮かべた彼は私と付き合っている間に私がどういう女なのかをどこまで知っていただろうか。
「あれ、まだいたんだ。ごめん今日でわかれて、」
彼の頬を鷲掴み、それ以上の言葉を遮る。彼の前ではかよわい女を演じ通していたから、まさか片手で吊り上げられるとは思ってもいなかっただろう。恐怖に引き攣り、助けて、と言いたげな顔を見ているうちに、私も彼もお互い本当のことを知ってはいなかったのだとはたと気づいて虚しくなった。力が抜けたことで地面に崩れ落ちた元彼氏に駆け寄るような女はいなかった。
「本気の恋って難しいな……」
ひとつの恋が破れて、情けなさとも悲しさとも判別のつかない涙が一筋だけ流れた。

9/12/2024, 3:49:51 AM

『カレンダー』

壁掛けのカレンダーを1枚そっと捲ってみたところ、10月の文字と目が合った。6月には1年が半分終わっていたというのに、9月も半ばを過ぎかけている今になって今年が終わってしまうという危機感が突然芽生えた。
今年の初めに決めた抱負や目標は何だったか思い出そうとするけれど、9ヶ月前の記憶ほど不確かなものはない。1月から今日までの間に何か成し遂げたことはあっただろうかと探ろうとしても同じこと。
「今年何も、してない……?」
一度そう思い始めると手元にも記憶にも何も無いような気がして恐ろしくなってきたものの、思考が行ったり来たりする逡巡を経て、突然落ち着いた。
「……でも一日一日がんばってきたよな」
自分を甘やかす魔法の言葉でたやすく自分を許してしまった私は、冷蔵庫のプリンの存在を突然思い出してキッチンの引き出しからいそいそとスプーンを取り出した。
脳の端のほうで今年の抱負が“体重5キロ減らす”だったと囁いているけれど聞こえないふりをした。壁掛けのカレンダーが残り4枚しかないことも見えないことにした。

9/11/2024, 3:46:31 AM

『喪失感』

闘病の末に姉は亡くなり、私は通夜と葬式の忙しさに紛れていた喪失感をまざまざと感じていた。姉ががんを告白した時から思うようになったことがある。いなくなればいいのに、と思っていたことが回り回っていたのなら、姉をこんな目に遭わせてしまったのは私のせいかもしれない、と。そして、いずれは私もがんになるに違いない、と。
喪服を脱いだ日の夜に、いつもお茶会をする店で先に来ていた姉が手を振っていた。
「やっぱここのケーキと紅茶最高だよね。久しぶりに食べるとおいしさ倍増するわ」
もりもりとケーキを平らげていく姉の前で私はまたしてもフォークが進まない。目の前のケーキがまた掠められていくけれど俯いたままでいた。するとぺし、と後頭部を軽くはたかれる。
「あんたは大丈夫よ」
「そんなの、わかんないじゃん」
「今わたしがそう言ったからそうなるの。だからさっさと行きなさい」
人にフォークを向けて説教する姉の姿が霧が晴れるように薄らいでいく。
「ケーキ、食べそびれた……」
目覚めた布団の中で今までずっと抱えてきた不安が少しもないことに驚き、姉の言葉と、はたかれた後頭部の感触を思い出す。そして、もう姉がいないという事実にまた気付いて少しだけ涙した。

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