『天国と地獄』
メダルの1枚がコロコロと転がってバニーガールの足元へと辿り着く。バニーは拾うことをせず黒服に目配せをするとカジノの客たちに愛想を振りまきながら歩いていった。黒服に耳打ちされて転がったメダルを拾いにいった新人のボーイが顔を上げたとき、上品な笑いと時折起こる歓声や拍手、そして、
「くそ!どうなってんだこの台はよぉ!」
場にそぐわない罵声を耳にした。眉をひそめ口元を隠す人たちの視線などまるで察していないその客はスロットの台をしきりに叩いていたが、見る間に屈強な黒服たちに取り囲まれた。酒の飲み方も服の着こなし方もこなれていない客は客とは見做されない。速やかに排除を終えた黒服たちが謝罪の一礼を済ませると辺りはまた元の雰囲気に戻っていく。
「怖いな……」
1枚のメダルを手の中に収めたボーイは誰にも聞こえないようにそっと呟いた。
『月に願いを』
新月から満月にかけては育まれていくような願いが叶いやすくなり、満月から新月にかけては衰えていくような願いが叶いやすくなる。
空に掛かる月をみるといつかの満月の頃に月明かりとともに現れた人を思いだす。夜を共にして歌を贈り合い、また来てくれる日を夜毎に待ち望んでいた。けれど風の噂にその人は別の屋敷へと足繁く通っていると知ってしまった。手元に残る愛の歌はすべてまやかしと相成った。
空に掛かる月は満月。宮中に流行るまじないをふと思い出す。何を衰えさせたいのかと自問したときに出てきた相手はかつてここに通っていたあの人と、今やその人の想い人であろう何処かの姫。
歌の書かれたふみを焚き上げて月に向かって想いを託す。同じように空を見上げる女たちの無念や昏い願いはあちらこちらから上がる煙に見て取れるようだった。
『降り止まない雨』
なんでも揃う街から車で1時間ほどのなんにもない村。あるのは山と畑だけ。そこに住んでいる田舎臭い俺は古臭い考えの親とケンカして家出を決行した。辺りは夜。夜通し歩けばいつかは街へたどり着けるだろう、とあらゆるものを詰めた通学カバンの重さを感じながら懐中電灯片手に歩き始めたものの、そこにぽつぽつと降り始めた雨。カバンの中に雨具の用意は無く、早く止んでくれと願いながら歩くも想いは天に届かない。いつも利用するバス停の軒下まで走ってたどり着く頃には土砂降りになっていた。
「お前はどうせこの村から出られないよ」
ケンカの最中に言われた言葉がふと脳裏に過ぎる。無謀な考えばかりの俺が今置かれている状況の的を得すぎている、と苛立ち半分、自嘲半分に思う。街へと行こうとしていた気力は一向に止まない雨に削がれて、けれどどの面を下げて家に帰ればいいのかと思い悩んだ。こんな真夜中に路線バスはもう来ない。親はきっと俺が出ていったことなど知らずに眠りについているだろう。バス停のベンチに座ったまま、どこにも行けなくなってしまった。
降り止まない雨を見ながら、濡れた衣服が体温を奪っていくのを感じながら、なにかきっかけがあればいいのにと漠然と思う。雨が止みさえすれば俺はきっとここから立ち上がれるのに。なぜか恨みめいたものを雨に抱いてじっとりと目の前を見つめていた。想いを知ってか知らずか、雨はますますと勢いを強めていった。
『あの頃の私へ』
拝啓、若かりし私へ。
ちゃんと自炊してますか。お化粧落として歯みがきしてから寝てますか。水分ちゃんと摂ってますか。ジムに入会してウェアも一式揃えたのに一度も行かずに退会したりしてませんか。チートデイを毎日やってませんか。あなたのやってきたどれもこれもは十年後に一気にしわ寄せが来ます。頼むからちゃんとやってください。私より。
それはそれとして、今好きな人がいるでしょう。もし違ったら読み飛ばしてもいいですが、そうだったら今すぐ想いを伝えてください。想いを伝えなかった私はもう想いを伝えられなくなってしまい、とてもとても後悔しました。どんな結果になるかはわかりませんが、伝えなければ想っていないのと同じなのです。しわ寄せのことよりも、ちゃんとしてほしいことです。どうかなにとぞ、よろしく頼みます。私より。
『逃れられない』
自分の命を粗末にした罰をずっと受け続けている。この世はつらく世知辛い。私を悩ませるすべてを捨て去って来世へ旅立とうと吊り下げた縄に首を掛けた。運が良ければ気を失ってそのまま御陀仏。悪ければ窒息の苦しみと首への痛みが長く続く。私は後者のほうだった。垂れ流し、掻き毟り、のたうちながらなんとか死ねたのも束の間、気がつけばまた縄を首に掛けるところから始まっている。一人で死んだがために誰にも見つけてもらえなかった体はすでに朽ち果てているというのに死の先には来世も安寧も無く、ただ繰り返されるばかり。どうしたら、どうすれば。悔恨を降り積もらせながらまた縄を手繰らされ首を掛けさせられている。