『子供のままで』
「姉ちゃん、一緒に食べよ」
春の陽気を通り越して夏かと思うぐらいに暑い日。おつかいから帰ってきた弟がエコバッグからアイスを取り出して笑みを浮かべる。年の離れた弟はおつかいのごほうびを2つに割って食べられるアイスにしたらしく、その半分を私にくれるのだという。
「ありがと。じゃあお礼に先っちょあげる」
「いいの!?やったぁ!」
2つに割ったアイスの取っ手がついたシール部分、すなわち先っちょに詰まったアイスはなんだかおいしい気がするという感覚は今も昔も同じものなのだなともらった分をすすり上げ、もう一つの先っちょに手を付けた弟を微笑ましく思いながら見つめる。
同級生の男子たちは声変わりが始まったり、男子だけでつるんだりと少しずつ変わってきている。弟もいつかはそうなってしまうのだろうか。
手元のアイスを揉みながら尋ねる。
「アイス食べたら姉ちゃんと何して遊ぶ?」
「スマブラ!」
「スマブラでいいの?姉ちゃんまた勝っちゃうよ?」
「今日は勝つもん!」
アイスの冷たさを握り変えつつ吸い上げ、元気いっぱいに声を上げる弟はかわいい。いつかは変わってしまうなら、子供のままの今のうちにこのかわいさを堪能しておかないとという気持ちになる。半分のアイスを平らげた弟はいそいそとゲーム機の準備を始めた。
『愛を叫ぶ。』
日常生活で叫ぶなんてほぼないことだけど、コンサート会場となれば話は別だ。特設ステージでライトを浴びる男性アイドルたちが花道へと歩みを進めると黄色い声援は鳴り止まなくなる。大型モニター越しに眩しい笑顔が映れば歓声が上がる。おまけにウインクなんてされたらハートを射抜かれる音まで聞こえてきそうだ。
みんなアイドルの方を見ているからこちらがどういう素性かをあまり気にしていないのはほんとうにありがたい。冴えない中年で同性が好きで、けれどカミングアウトは親にもしたことがない。テレビに映る有名人のように強くはなれそうにないし、リアルの出会いに憧れはあるけれど貶められるのも傷つくのも怖かった。胸を張って生きることはとても勇気がいる。
ステージに存在する推しは一分の隙もなくかわいくてかっこいい。老若男女関係なくそう思う人たちがそれぞれ思い思いに声を出し、名前を呼んでいる空間がとても好きだった。自分もその声に連ねるために心からの愛を精一杯に叫ぶ。観客席に揃って揺れるペンライトの光を見ていると少し涙が出てきた。
『モンシロチョウ』
庭先のキャベツ畑に小さな白い蝶が舞っている。まだ小さなキャベツの傍にしゃがみこんで葉の裏を覗くと卵から出てきたばかりの小さな青虫がいたるところに這って柔らかな葉に穴を空け始めていた。
「わしと出会ったのが運の尽きよ」
家庭菜園の主になって一年も経つと悪役のセリフも言えてしまうものだ。一匹また一匹と捕まえて最終的には畑の土になってもらう。
「悪く思わないでね」
固まった腰を伸ばしながら親であろう蝶たちを眺めてそんなセリフをひとつ。いつかそのうちモンシロチョウたちに命を狙われる日が来るのかもしれないけれど、こちらとしてはかわいいキャベツが手を出されているのだ。許すまじモンシロチョウ。母と母の闘いに終わりはなく、かくも厳しいものなのだ。
『忘れられない、いつまでも。』
舗装もされていない道を送迎車にゆられること小一時間。人里離れた山奥に趣のある旅館がぽつりと建っており、玄関で女将と数人の仲居たちから揃って出迎えられた。
“あなたの思い出の人にもう一度出会える宿”
ある日にインターネットでこんな謳い文句を見かけた。よく調べもせずに宿泊予約を入れてしまったのは、ずっと前に亡くした人のことを今も引きずっている自覚があったから。周りにはどういった宿かをあまり知らせず、そろそろ旅行にでも行こうと思うと話すと、少しは前向きになったのだなと安心されてしまった。
自分以外に宿泊客がいないのかと思うほどには静かな個室に運ばれてくる料理は旬の山菜や川魚など素朴ながらも手の込んだものばかりで、この宿の立地や冷静になってからあの謳い文句を怪しんでいた自分を恥じるほどだった。おまけに温泉まであり、動機はともかく来て正解だったと思いながら布団の中でうつらうつらとまどろんでいった。
「今日は楽しかった?」
宿の個室に現れたのはずっと前に亡くした人。
「……ああ。久しぶりに旅行らしい旅行をして、少しは養生できた気がする」
生きている頃と同じ声、同じ姿をして、微笑みかけてくれる。
「明日はどうするの?」
「明日には帰らないといけない。帰らないと、心配されてしまうから」
「ずっとこっちにいてもいいんだよ」
誘い文句は魅力的なものだったが、あの人ならそんなことは言わないと解っていた。
「いいや、帰るよ」
するとその人は最後に悲しそうな顔をして言った。
「私のことは忘れてしまうんだね」
目が覚めると宿の個室には朝が訪れており、あの人の影も形もなくなっていた。
「……いつまでも忘れられないから、こんな所に来てしまったんだよ」
夢の残滓に浸っていたかったが、ふすまがするすると開いて仲居が朝食を運び込んできた。何か知っているのかそれともたまたまなのか、仲居は去り際にこんなことを聞いてきた。
「良い夢は見られましたか?」
「ああ、はい。おかげさまで、いろいろと吹っ切れそうな気がしてきました」
人里離れた山奥からまた元の日常へ帰りつき、それから何ヶ月かが経ってからふとあの宿のこと思い出す。不思議な宿と不思議な夜のことを懐かしんで調べてみたが、どうしてだかもう二度と見つけ出すことができなかった。
『一年後』
「僕が無事に帰ってきたら、一緒になってくれないか」
半年前に戦役へと旅立った彼との約束は不定期に届く手紙や葉書で今も守られていると感じていた。何度も取りだしては読み返した葉書は四隅の角を少しずつ丸くさせていく。
けれど、遠い島国で自国軍が勝利したという報せを新聞で見てからパタリと連絡が途絶えた。空から降伏勧告の紙が舞うのを見て、新聞に書いてあることが本当なのか、敵国の報せが本当なのかわからなくなった。何度も取りだしては読み返した葉書の文字は幾度も触れていたためか少しずつ薄れてしまっていたから、覚えてしまった内容を胸に唱えては彼の無事を願っていた。
約束をした日からやがて一年が経つ頃。文字に表せばたったの一行。月に替えれば12ヶ月、日にして365日。彼の一生は紙切れ一枚となって知らされた。
「お父さんは、本当はいつごろ亡くなってしまったのかしらね」
何も知らずに腕の中で眠る我が子に涙がひとつふたつと落ちてしまう。悲しいけれど、悲しんでいる暇はなかった。