『何気ないふり』
人で賑わうイベント会場。その一角のスペースを目指して私は歩いている。ネット上で神と崇める絵師さんのオフラインイベント参加のお知らせが投稿されたその日に夜行バスを手配し、来たるべき日に備えて服屋を巡り、差し入れのお菓子を吟味した。寝不足気味の早朝からイベント開場待ちの列にも並んで携帯食を齧りつつSNSで絵師さんの行動を逐一チェック。イイネを飛ばしつつ士気を高めていった。
そして開場後の今。カタログを手にそのスペースを目指して歩き、けれどまっすぐに向かう勇気がなぜか持てない。胸の中に沸き立つ思いはめちゃくちゃにあるのに何気ないふりで一度素通りしてしまった。カバンの中の差し入れを思うと手に汗が浮かぶ。端まで来てしまったのでもう一度戻るために隣の列の端から端まで歩き、辿り着いた二度目の景色に緊張が隠せない。このまま帰ってしまおうかと一瞬思うが、本末転倒さに心の中で首を振る。視界には絵師さんがすでに入っている。勇気を出して行くしかない。今日はそのために来たのだから。
『ハッピーエンド』
良い人生だったなぁと大きく息をついて眠りに落ちるとそれまで感じていた体の重さやだるさがどこかへ行ってしまった。暗いトンネルにいるかのような闇の中、向こうの方に明るい光が見えている。杖が無くてはろくに歩けないほど節々が痛かったのにそれもなく、足取り軽く歩いていける。もしかしたらと思って杖を放り出し足を出し腕を振ると走ることすら苦にならなかった。明るい光の中には先立った妻が若々しい姿で微笑んでいる。
「やぁ、久しぶりだね」
「ほんとうに」
おつかれさまでしたと労われると遺してきたひとやものを恋しく思う気持ちが胸に湧いたが、もう戻ることはできないのだと誰に教えられるでもなくわかっていた。
手に手を引かれて歩き出す。進む先に不安はなかった。
『見つめられると』
視線には力がある。見る側は見ているものに影響され、見られる側は視線から力を得て強大になっていく。
よく行くショッピングモールの一角にアジア雑貨のポップアップストアができていた。紋様の刻まれた銀細工にビーズのアクセサリーや手の込んだ民芸品、独特な染め物の服なんかも並んでいて、そこそこ人だかりができている。そんな中に異彩を放っていたのは大きな仮面やキモかわいい人形たち。吸い寄せられるように近づくと目の部分が空洞になった仮面と目が合った。獣毛て飾られた装飾や木彫りの細工、仮面に施されたペイントをしげしげと見ているといつまでも見ていられるような気持ちになってくる。
「オキャクサン」
パン、と目の前で手を叩かれて我に帰ると店主と思しき外国人が立っていた。
「けっこうな時間見てたけど、あんまり見すぎないほうがイイヨ」
どういうことかとスマートフォンで時刻を見ると半時間ほどが経っていた。その間の記憶が一切ないことに気付いて背筋が冷える。
「この仮面、なんで置いてるんですか」
「一応売れてほしいから値札付けてるんだけど、誰も買わないんだよネ」
店主さんは複雑な表情でため息をつく。
「もしかしたら、いろんなとこから視線を集めるために僕に付いてきてるのかもしれないネ」
背筋がさらに冷えた気がして何も買わないまま急いでその場を去った。振り返らずに歩く途中に一点を見つめる人を何人か見かけた。その人たちは一様にあの店の方向を見つめていた。
『My Heart』
人が記憶する場所の大部分は脳らしいが、心臓にもその領域があるそうだ。私の心臓は幼い頃に移植されたものなので、その一説をこの身を以て実感している。
幼い頃に亡くなった元の心臓の持ち主は入院していた頃に好きな子がいたらしい。恋い焦がれるこの感情は私のものではないけれど、生かされている身なので叶えられるものは叶えてあげたい。
病院で見聞きしたことを頼りにたどり着いたのはとある地域の墓地だった。買ってきた花を手向けて手を合わせると、知らず涙がこぼれてくる。どこからかありがとうと空耳が聞こえてきて、以来ほのかな感情が表に出ることはなくなった。
私の心臓は今日も鼓動を打っている。
『ないものねだり』
「花粉のない世界に生まれたかった」
早朝の玄関先。マスクの下でひっそりと鼻水を垂らしながら思っていたことが口に出た。山沿いに暮らしているので花粉の出どころである針葉樹は目と鼻の先にそれこそ山ほどあり、今は涙と鼻水が止め処無く出てくる季節の真っ只中だ。どうしてスギやヒノキはあるのだろう。どうして今日も外へ出かけないといけないのだろう。
生まれる前から山に植わっているスギやヒノキに罪はないし、勤めている会社は在宅勤務に対応していないのでこちらが出向かないといけないのは重々わかっているのだが、毎年一言一句同じことを思っている。