わをん

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3/28/2024, 8:59:23 AM

『My Heart』

人が記憶する場所の大部分は脳らしいが、心臓にもその領域があるそうだ。私の心臓は幼い頃に移植されたものなので、その一説をこの身を以て実感している。
幼い頃に亡くなった元の心臓の持ち主は入院していた頃に好きな子がいたらしい。恋い焦がれるこの感情は私のものではないけれど、生かされている身なので叶えられるものは叶えてあげたい。
病院で見聞きしたことを頼りにたどり着いたのはとある地域の墓地だった。買ってきた花を手向けて手を合わせると、知らず涙がこぼれてくる。どこからかありがとうと空耳が聞こえてきて、以来ほのかな感情が表に出ることはなくなった。
私の心臓は今日も鼓動を打っている。

3/27/2024, 4:31:48 AM

『ないものねだり』

「花粉のない世界に生まれたかった」
早朝の玄関先。マスクの下でひっそりと鼻水を垂らしながら思っていたことが口に出た。山沿いに暮らしているので花粉の出どころである針葉樹は目と鼻の先にそれこそ山ほどあり、今は涙と鼻水が止め処無く出てくる季節の真っ只中だ。どうしてスギやヒノキはあるのだろう。どうして今日も外へ出かけないといけないのだろう。
生まれる前から山に植わっているスギやヒノキに罪はないし、勤めている会社は在宅勤務に対応していないのでこちらが出向かないといけないのは重々わかっているのだが、毎年一言一句同じことを思っている。

3/26/2024, 4:23:31 AM

『好きじゃないのに』

バレンタインデーに余ったチョコをいつもいつもちょっかい出してくる男子に渡した。
「これあげるから、ウザいことしてくるのやめてよね」
相手の反応を特に気にせずそのまま帰り、次の日には他の子の恋バナで盛り上がったのでいつものちょっかいが無くなっていたことにも気づかなかった。
そしてホワイトデーの朝。友チョコ入りの紙袋を手に下げて学校へと向かう途中にいつもちょっかいを出していた男子が立っているのに気付いた。
「おはよう。早いね」
住んでる地域はこの辺じゃなかったはずだけどな、と思っているとずい、と薄いブルーの紙袋を突き出される。
「これ、お返し」
受け取ると彼は何も言わずに学校の方向へと猛然と走り出していった。道の向こうに後ろ姿が見えなくなってから、家族以外から初めてお返しというものをもらったことに気がつく。
「しかも手作り……?」
かわいい紙袋から覗いているのはどうやら市販のものではない。今までなんとも思っていなかった彼のことが急に気になり始めた。

3/25/2024, 4:23:21 AM

『ところにより雨』

「雨を降らせる魔法を習ってきた」
「まじで」
本日は晴天なり。しばらく春らしい陽気が続くでしょうという天気予報の通り、洗濯物がよく乾く日が続いていた。最近の魔法教室ではいろんなことを教えてくれるんだね、などとだべりながら、住宅街だと迷惑がかかりそうなので河川敷へと自転車で向かう。菜の花の黄色が揺れる川沿いには春休みに入ったこどもたち何人かが思い思いに遊んでいた。
「それでは張り切ってどうぞ」
「しゃっす」
雨とひとくちに言ってもいろんなものがある。にわか雨に土砂降りもあれば霧雨もゲリラ豪雨もある。どんな雨が降るのだろうと思いながら草地に佇んで習いたての魔法が発動する様子を眺めていると、ぽつり、またぽつりと顔にしずくが落ちてきた。その間およそ2秒ほど。
「あっした!」
「えっ、終わり?」
空はよく晴れたまま。けれど半径1メートルほどの範囲にはじょうろで水を垂らした程度に地面が湿っていたのだった。
「これ以上やると命が危ういから」
「おなかが減る程度でしょ」
けれどいいものを見させていただいた。名も知らぬ草花たちも心なしか喜んでいたように思う。

3/24/2024, 1:05:02 AM

『特別な存在』

ステージの上で歌と踊りで疲労もものすごいはずなのにそれを一ミリも感じさせずに観客に手を振り、笑顔まで見せてくれるアイドルたち。その一員のひとりは私にとって特別な存在だ。がんばってと応援する気持ち、どうしてそこまで一生懸命なのかと感動する気持ち、そんな姿を見せてくれて感謝しかないという気持ちをペンライトに込めて両腕を振りに振り、気づけばステージを去っていく彼を号泣しながら見ていた。
週刊誌に私服姿の彼が写っていた。傍らには私服姿の女性アイドルがいて、熱愛という見出しが踊っている。アイドルの裏側なんか見たくないという気持ちと彼のことをもっと知りたいという気持ちをせめぎ合わせながらコンビニの雑誌コーナーでしばし立ち尽くしたあと、カップコーヒーだけを手に店を出る。指先はじんわりと温かいけれど心のどこかがひんやりとしていた。彼はいつかは誰かとお付き合いをするだろうしいつかは誰かと結婚もするのだろう。ぼんやりとわかっていたことだけれど、いざ目の当たりにすると予想していたよりも自分の足元がぐらついた。
それでも足が現場に向かってしまう。以前よりも顔見知りのファンが数を減らしていても、いつものようにステージは始まる。これまでと同じ気持ちで彼を見られないかもしれないと思っていたけれど、杞憂だった。彼は変わらず全力で歌って踊り、観客の声援に全身で応えていて、それを見る私は応援し、感動し、感謝を返した。号泣のさなかに思う。私ができることは応援と感動と感謝、そのぐらい。けれど彼にとっての特別な存在にはそれ以上のことができるのだろう。彼女の存在が彼のプラスになるのなら応援してあげたい。足元のぐらつきは収まり、冷えていた心も気にならなくなっていた。

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