「ねぇ。今日夜散歩行かない?」
仕事終わりに携帯を開くと、愛佳からメッセージが届いていた。
社会人になってからすっかり運動不足になった私と愛佳は自分達の怠惰な生活を猛省し、時間が合う時は一緒に散歩に行くようになった。
私は簡単に承諾のメッセージをおくり、家路を急ぐ。家に着くと夕飯用に予約炊きした炊飯器を横目に、仕事用のスーツを脱いで動きやすいジャージを着る。スマホと家の鍵と私たちを繋ぐイヤホンを握りしめ玄関を飛び出た。
愛佳に連絡するとすぐに着信が鳴った。
東京と大阪という離れた地に暮らす私たちにとって、「一緒」とは電話をしながらという意味に等しい。
「仕事おつかれ。今日はどれくらい歩こうか。」
愛佳と話しながらの散歩はあっという間に時間が過ぎる。終わりの時間を決めても気づけば真夜中近くまで歩いていることもしばしばあった。側からみれば独り言を言いながら歩いているように感じられるかもしれない。そんなことを考えながら私は家の周りの夜道を何周も何周も歩く。
話すことは様々で、仕事や恋愛の話もあれば人生について、生き方についてそれはそれは壮大な話もする。なにせ話が尽きないものだから、いつしかスマホの電池がなくなるか、電波が悪くて声が聞こえなくなるか、それが終わりの合図のようになっていた。
「実はねいま新しく読んでいる本があって、それがまた面白行くて。今日はその話がしたかったの。」
どうやら愛佳には愛読している本があるようだ。愛佳は本から得た知識を楽しそうに教えてくれる。私は電話ごしに相槌を入れながら、たまに空を見上げて歩く。
空には眩く輝く星と大阪のどこかで同じように歩き回っているであろう愛佳の顔が浮かぶ。
今日も私たちの声が夜空を駆ける
私には
家族がいて
友達がいて
仕事があって
帰る家があって
健康な体があって
笑って泣ける心がある
平凡で、穏やかで
これが幸せと言うべきなのだろう
大切にするべき日々なのだろう
でも私のどこかにひっそりと
"有名になりたい"
"私にしかできない何かを成し遂げたい"
"お金持ちになりたい"
"どこか見知らぬ地に飛び出したい"
"わたしはこんなもんじゃない"
そんな野望を持ったもう一人の"わたし"がいる
でも"わたし"の願いを叶えるには
あまりにも力不足で臆病でめんどくさがりで
私は"わたし"を見て見ぬふりをし続けている
最初から決まっていた。
そう自分に言い聞かせることで私の心の傷は少しだけ和らぐような心地がした。
私の手には今年の初めに買った占い本。
そしてピコンピコンと通知がやまない携帯には心配と励ましと、時々彼への批判が混じったメッセージ。
4年付き合った、私が愛を注ぎ込んだ彼との別れは
想像もしていなかったほど一瞬のことだった。
1ヶ月前から違和感はあった。
毎週のように行われる会社の飲み会。
当たり前に日が変わってから帰宅する彼。
休日が合わない私達が唯一会える平日の夜も、彼は職場の人とPCゲームの予定を入れていたっけ。
今日も仕事おそいの?ご飯一緒に食べようか。
最後にそう言ってくれたのはいつのことだったっけ。
私だって気づきたくなかった。
彼の心が他の女性に揺れていることを。
知りたくなかった。
私に嘘をついて、女性に会いに行っていたことも。
その手で他の女性に触れていたことも。
彼と女性のメールのやり取りを見つけた時、
初めて血の気が引く感覚を味わった。
見たくないはずなのに、自分でも恐ろしくなるほど冷静に食い入るようにメールを読んだ。
"裏切られた"
もうその一言だけが頭の中を駆け巡る
裏切りを問い詰めた時の彼の表情は
別れた今でも頭の中にこびりついて消えない。
ごめん。本当にごめん。
俺もこうなるなんて思ってなかったんだ。
裏切ってることも分かってた。
でもどうすればいいか分からなくて…
俯きながら辛そうな表情を浮かべてゆっくりと話す彼を
私はどんな表情で見つめていたのだろう。
私が淡々と話す姿を見て彼は何を感じていたのだろう。
別れた今となっては彼の本当の気持ちなんて分からないし、わかる必要もない。
今でも彼のことを愛おしいと感じる自分がいる。
彼のことを幸せにしたい。幸せになって欲しいと思う自分がいることを痛いほど感じている。
しかし、好きな気持ちだけではどうすることもできない事もある。
彼が自分の意思で嘘を選び、選択の繰り返しのなかで過ちを犯したのは紛れもない事実で、
それを許すと言う選択肢は今の私にはなかった。
ただそれだけだ。
私は今日も空っぽの心を抱えて生きている。
私の瞳に映る全てのものに彼との思い出という亡霊が付きまとう。
いつまでこの悲しみと絶望と喪失と…
怒りと憎しみと、嫉妬と…
新品の鳥かごの中には
猫の人形の真似をした猫が入っていた
一瞬どういうことか理解に苦しんだが
ああ。何か事情があって時間を稼いでいるのだと理解した。
私の主人はというと、そんなことには気づかず猫を鳥かごから掴み出し放り投げたかと思えば
自分が飼っているカナリアを新品の鳥かごに移した。
私は床に倒れている猫にそっと近づき
寄り添うようにして横に座った
猫は緊張しているのか人形のふりをしながら小さく震えている
私がこの猫を守らなければ。私は思った。
それからというもの一生懸命に人形のふりをする猫をくわえて連れまわし、私の無邪気な主人に気づかれないように遠ざけた。主人は私がすっかり猫の人形を気に入って離さないと呆れたように家族に話している。
夕飯の時間になると、家の外に人の気配を感じた。
猫の主人が連れ戻しに来たのだなと瞬時に察した。
私はそばに置いていた猫を再度優しくくわえて主人に外に出してもらえるように頼んだ。
主人は渋々扉を開けて、帰りは自分で閉めるんだよとその場を去っていく。
玄関を出るとそこには黒い服を着た少女が待っていた。
私が口にくわえた猫を離すと、猫は素早く少女の元に駆け寄っていく。
猫との再会を喜んだ少女は私にお礼を言いながら、代わりにこれを主人に渡して欲しいと猫の人形を渡してきた。
私は渡された人形をくわて静かに家に戻った。
猫との別れに少し寂しさを感じつつも、新たに渡された人形は確かに鳥かごの中の猫にそっくりだった。
私はその日から猫の人形を肌身離さずくわえ歩いている。
会場にいる参列者の視線の先には
様々なフルーツがあしらわれた3段のウェディングケーキがそびえている。
本日晴れの日を迎えた新郎新婦がまさにファーストバイトを行うところであった。
純白のドレスを身に纏った美紗は自分の腕くらいある大きいスプーンでケーキを掬い上げ、これからの一生を共にするであろう新郎の貴史の口に運ぶ。
貴史は少し恥ずかしそうにしながら大きな口を開けて美紗の愛情を受け取った。口の周りはクリームだらけで、それを見て美紗が幸せそうにくすくすと笑う。
会場の至る所からカメラのシャッター音と、
2人を祝福する声や拍手が聞こえる。
僕も周りに合わせて激励の拍手を送った。
しかし、心の奥底では思ってしまったのだ。
「「ああ。僕はどこで選択を間違えたんだろう。」」
人生は選択の連続だと言う。
果たしてあの時僕が選ばなかった言葉の先に、
僕が選ばなかった道の先に、
レースのベールを被り、
こちらを見つめる美紗がいたのだろうか。
美紗が差し出すケーキを
嬉しそうに頬張る僕がいたのだろうか。
もしドレス姿の美紗の隣に立っていたのが僕ならば
どれほど今日この日が素晴らしかっただろう。
この会場の誰も知らない僕と美紗の2人の時間は確かにそこにあったし、僕はまだ捨てられずにいた。
僕はいつの間にか自分の足元に向かっていた視線をライトに照らされた2人に戻した。
周りに見えないように、左目から流れた涙を拭い心の中でつぶやいた。
「今までありがとう。幸せになれよ。」
その後配られたケーキは
優しい甘さの中にほろ苦い後悔の味がした。