永坂暖日

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5/21/2023, 2:31:46 PM

透明な水

 井戸から引き上げた桶の中の水は濁っていた。このままでは飲めないので、濾過装置に通さなければならない。それでようやく透明になるが、一度沸かさなければならない。
 川の水も、同じように濁っている。雨水を桶にためても、透明なのは一瞬だけ、あっという間に灰色に濁ってしまう。見たことはないが湖も海も、やはり灰色に濁っているという。世界中、どこに行ってもそれは変わらないらしい。
 かつてはそんなことはなかった、と誰も正確な年齢を知らない村の長老は言っていた。水が濁ってしまったのは、人間が罪を犯したからだとか、神に呪われたからだとか言われているが、確かな理由は長老も知らなかった。ただ、いつの間にか濁ってしまったそうだ。
 透明な水があるところに、きっと神はおわす。神に理由を問えば濁りは消えるかもしれない。長老が口癖のように繰り返すので、いつの間にか、そうに違いないと思い込むようになっていた。村人のほとんどは信じていなかったが、曾祖父が言うので仕方がない。
 小さくてもいいから湖を探し、湧き水を探し、川を遡った。
 この世のどこにも、未濾過で透明な水はないのかもしれない。曾祖父にはとうとう透明な水を飲ませられなかった。
 濁った水を、飲める代物に変える技術は確立している。手間はかかるが、水を飲めないわけではない。透明な水を探す理由は、もはやないと言っていい。
 それでも、家族にさえ呆れられても、探すのを止められなかった。自分でもどうしてなのか分からない。単なる意地だったのかもしれない。
 だから、透明な水が湧く小さな泉を見つけた時、にわかには信じられなかった。何日も山の中をさまようように歩いていたから、幻覚を見ているのかと思った。
 濾過して沸かした後の水よりも澄んでいた。そしてその泉のほとりには、山奥だというのに、一つのシミもない真っ白な衣を着た、真っ白な髪の幼い子供がぽつねんと座っていた。
 目の前にあるものが幻覚ではないとしたら、この子供は何者だろう。
「――神さま?」
 子供がゆっくりと顔を上げる。こちらに向けられた目は、濁っていた。

5/20/2023, 3:04:10 PM

理想のあなた

 三両目、真ん中のドア付近。それがあなたの定位置。ホームにやって来る時間もいつも一緒。土砂降りの日でも、それは揺るがない。
 髪に寝癖はなくて、起きたばかりの顔なんて、もちろんしていない。制服の着こなしも、いつだって乱れはない。
 名前も知らない、だけど電車でよく見かけるあなた。毎朝じゃないのは、わたしが乗り遅れて次の電車になってしまうことが、ちょくちょくあるから。
 きっと、あなたは休みの日でも平日と同じ時間に起きているのだろう。今日は休みだからって、ベッドの中でだらだらとスマホをいじったりなんてしてないだろう。
 わたしも、名前も知らないあなたみたいになりたい。

「最近寝坊しなくなったな」
 わたしより早く家を出る父が、感心したように言う。
「前よりずいぶん綺麗に片付けてるね」
 わたしの部屋をのぞき込んだ母が、感心したように言う。
 それ以外にも、色々ときちんとしてきたと、ほめられる。それもこれも、三両目のあなたがきっと送っているであろう生活を思い描いて、実行しているから。
 髪型も、あなたに似せようと思ってるけど、まだ実行に移せていない。
 身だしなみはいつも完璧なあなただけど、その髪型は、あなたにはちょっと似合っていない、と思えるから。
 そうだ。だったら、わたしがあなたにきっと完璧に似合う髪型にすればいい。わたしは、あなたと同じような印象になるメイクをしているから。

 髪型は、思っていたとおり完璧だ。月曜日、三両目の真ん中のドア付近にいるわたしを見たら、あなたは驚いてくれるかな。そして、わたしと同じような髪型にしようと思って――。
 ドアが開いて、あなたが乗り込んでくる。時間も乗車位置もいつもと同じ。だけど、髪は乱れていて、目元は泣きはらしたばかりみたいになっていた。制服も、月曜日だというのにしわが目立つ。
 どうしたの。何があったの。そんな姿、わたしの理想のあなたじゃない。
 火曜日も、水曜日も、目元こそ泣きはらしてはいなかったものの、わたしが追い求めてきたあなたの姿ではなかった。
 そうのうち、いつもの時間には見かけなくなることが増えた。次の電車に乗っているのかもしれなかった。
 わたしが理想としていたあなたは、もういない。

 いつもの時間に電車に乗り、わたしはいつもとは違う駅で電車を降りた。そのまま、改札には向かわずホームにとどまる。
 何本か電車を見送り、ようやく、ホームに求めていた人の姿を見つけた。階段を気怠そうな足取りで降りてくるあなた。髪型も髪色も化粧も制服の着こなしも、すっかり変わってしまったあなた。
 白線の内側までお下がりくださいという放送が、ホームに響く。あなたは白線ぎりぎりのところで、スマホをいじっている。
 わたしは、あなたの後ろに並んだ。電車の一両目が見える。わたしは手を、勢いよく突き出した。

5/19/2023, 2:28:20 PM

突然の別れ

 朝の八時、時計代わりに点けているテレビの番組が変わる。今日のトップニュースは何だろうと聞くともなしに聞きながら、朝食の後片付けをして家を出る準備に取り掛かる。
「志摩さん、おはようございます」
 聞き馴染みのないキャスターの声に、へ、と間抜けな声をこぼしていた。シマ、なんて名前の出演者はいないはずだ。というか、自分の名前と同じではないか。
 バッグに入れようとしたスマホを手に握ったまま、テレビに顔を向ける。
 知らない顔が、画面の中で微笑んでいた。代役だろうか。こんなアナウンサーもしくは芸能人、いたっけ。
 どこの国の人かよく分からず、外見と服装だけでは性別もよく分からない。布をたっぷりと使ってゆったりとした服は民族衣装のように見えるが、見たことがないものだ。
「いきなりで驚いていると思います。でも、こういうことはいつでも突然。行ってきますと同時に、その世界にさよならを」
 画面の中の知らない人は、まるでこちらに語りかけるようににこりと笑った。直後、画面が真っ暗になる。スマホが足下に音を立てて落ちる。
 リモコンの電源ボタンを何度押しても、テレビは点かなかった。壊れたのだろうか。きっと壊れたのだ。とりあえず、今は仕事に行かなければ。落としたスマホを拾ってバッグにつっこみ、バタバタと音を立てて短い廊下を急ぐ。パンプスに爪先を突っ込み、ドアを気持ちいつもより勢いよく開けた。
「志摩さん、おはようございます」
 ドアの向こうは、アパートの無機質な廊下のはずだった。けれどそこにいたのは、さっきテレビの中にいた人で、その向こうに広がるのは、うっすらと青く、どこまでも広がっていそうな砂浜――いや、砂漠?――だった。
「へ?」
 再び間抜けな声を漏らしていた。気が付けば、握っていたはずのドアノブが消え、足下は淡い青色の砂になっていて、振り返っても、そこに狭苦しい玄関はなかった。
「ようこそ、私達の世界へ」
「へ?」
「さあ、一緒に世界を救いましょう」
 満面の笑みには、有無を言わさぬ力があった。
「へ、へえ?」
 何がなんだか全く分からないまま、青い砂漠に一歩目の足跡を付けていた。