永坂暖日

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透明な水

 井戸から引き上げた桶の中の水は濁っていた。このままでは飲めないので、濾過装置に通さなければならない。それでようやく透明になるが、一度沸かさなければならない。
 川の水も、同じように濁っている。雨水を桶にためても、透明なのは一瞬だけ、あっという間に灰色に濁ってしまう。見たことはないが湖も海も、やはり灰色に濁っているという。世界中、どこに行ってもそれは変わらないらしい。
 かつてはそんなことはなかった、と誰も正確な年齢を知らない村の長老は言っていた。水が濁ってしまったのは、人間が罪を犯したからだとか、神に呪われたからだとか言われているが、確かな理由は長老も知らなかった。ただ、いつの間にか濁ってしまったそうだ。
 透明な水があるところに、きっと神はおわす。神に理由を問えば濁りは消えるかもしれない。長老が口癖のように繰り返すので、いつの間にか、そうに違いないと思い込むようになっていた。村人のほとんどは信じていなかったが、曾祖父が言うので仕方がない。
 小さくてもいいから湖を探し、湧き水を探し、川を遡った。
 この世のどこにも、未濾過で透明な水はないのかもしれない。曾祖父にはとうとう透明な水を飲ませられなかった。
 濁った水を、飲める代物に変える技術は確立している。手間はかかるが、水を飲めないわけではない。透明な水を探す理由は、もはやないと言っていい。
 それでも、家族にさえ呆れられても、探すのを止められなかった。自分でもどうしてなのか分からない。単なる意地だったのかもしれない。
 だから、透明な水が湧く小さな泉を見つけた時、にわかには信じられなかった。何日も山の中をさまようように歩いていたから、幻覚を見ているのかと思った。
 濾過して沸かした後の水よりも澄んでいた。そしてその泉のほとりには、山奥だというのに、一つのシミもない真っ白な衣を着た、真っ白な髪の幼い子供がぽつねんと座っていた。
 目の前にあるものが幻覚ではないとしたら、この子供は何者だろう。
「――神さま?」
 子供がゆっくりと顔を上げる。こちらに向けられた目は、濁っていた。

5/21/2023, 2:31:46 PM