誰もがみんな、その子を見たら顔を顰めた。
特別、容姿が劣っていたわけではない。
顔の造形だけ見れば、むしろ整っていると言ってもよいだろう。
だからこそ、いっそう不気味に思えてしまうのだ。
その地獄の底を集約したような歪な笑顔が。
「それ、やめなよ」
振り向く矢田の顔には表情が張り付いていた。
何かを答えるわけではない。ただ、どうして?と聞きたげな目をしていた。
「不気味、に感じる。少なくとも私は」
表情は変えないままで、矢田は私の目を見つめた。
酷いことを言っている自覚はある。
ただ、この無茶な作り笑顔さえなければ、転校してきて僅か1ヶ月でこれほどまでに孤立することもなかったのではないかと思う。
そしてそれは今からでも遅くはないと思うのだ。
「それ、ってなんのこと?」
気づいていないのか、気づいていながらあえてとぼけているのか、まるで判別がつかない。
「その表情。矢田さん、作り笑顔下手すぎだから」
矢田さんは変わらない表情でこちらを見つめ続けている。
傷ついているのかも分からない。
やがて、スっと表情が消えて、呟くように言った。
「そうなんだ。これ、ダメだったんだ」
「ダメっていうか……下手。下手だから作ってることがバレちゃう。だからみんな嘘をつかれ続けてるように感じちゃう、と思うんだよね」
矢田さんの表情は無い。だけど、これが本当の矢田さんなんだと感じていた。
「どうすれば、いいんだろ」
「作り笑顔、やめるだけでいいんじゃない」
「普通にしてると叩かれるから。文句あんのかって」
温度の宿らない瞳でこちらを覗く。
矢田さんの過去が台詞から透ける。
深く聞いてよい事情ではなさそうだ。
なんて返すか迷って、言葉を選んだ。
「私は叩かないよ」
矢田さんにどんな過去があろうと、そのせいでどのように認知が歪んでいたとしても、自分の行動だけは約束ができる。
「本当?」
「現時点で本当、そしてこれからの分は約束」
「たしかに今、叩かれてない」
スっと頬に手を触れた。
冬のような頬だ。
「約束は?どうして信じたらいい?」
ん、と少し詰まる。
たしかに口約束は最も蔑ろにされやすい契約だ。
「殺していいよ」
破ったら、と付け加えた。
抑止力の存在は約束の信憑性を高める。
それだけじゃなく、強い抑止力を提案することで約束を守る意思が硬いことを示す効果もある。
矢田さんはしばらく黙っていたが、やがて見たことのない表情に変わった。
「嬉しい」
呟いた矢田さんは微かに笑っていた。
小さくて、自然な笑みだった。
捨てられていた花束を拾った。捨てられている割には綺麗な姿だった。ゴミ捨て場にポンと置かれていた。仮に花弁がバラバラに散ってでもいたなら、まだ救いようがあったように思えた。
加害すらも与えられずに捨てられた花束からは、徹底的な贈り主への無関心が窺えた。おそらく贈り主はまだ、花束が捨てられたことさえ知らないだろう。
そうしてこれまで通り、伝え続けるのだ。昨日は花束に代えたそれを、花束以外の何かに変えて。
「残酷」
呟いて私は、昨日のことを思い出す。
「今日、誕生日なんだ」
客が来ない店内で、小羽さんが言った。
「22ですっけ」
私が言うと、そうそう、と気だるげに頷く。すべての動作に倦怠感が滲んでいるような人だ。
「悠は今何歳だっけ」
「私19です。来週20歳」
「へぇ、じゃあ飲めるじゃん」
実体のないグラスを呷る小羽さん。
「今って18から飲めるんじゃなかったですっけ」
「成人は18だけど、お酒と煙草は20のままだよ。まあ律儀に守ってるやつなんて、ほとんどいないけど」
「そうなんですか?最近のやつはけしからんですね」
真剣そうな顔を作って返すと、小羽さんはふふ、と笑った。
「堂々と飲めるようになったら、連れてったげる」
「え、もしかして奢りです?」
「ボスと呼びな」
「流石です。ボス」
聞き飽きた入店音が鳴って、背の高い男の人が入ってきた。見覚えがある。この時間帯にしょっちゅう来る人だ。
「中ボス、お客さんです」
「ナチュラルに格下げしないでよ」
ボリュームを下げて話していると、ブラックコーヒーを持ってこちらへ来た。スっとボスがレジに立つ。
コーヒーをレジに通して会計を済ませたが、男の人はまだそこに立っていた。
そして、意を決した様な表情に変わる。
「あ、あの。今日、何時に終わりますか!」
「コンビニなので24時間営業ですが……」
ウソでしょボス。
「あの、そうじゃなくて。お姉さんのバイト、終わる時間……」
「え、ああ!そういうこと!」
いわれてようやく気づいたようだ。ミステリアスな雰囲気で気づかれづらいのだが、ボスはド天然だ。
「えーと、あと1時間くらい、よな」
こっちを振り向く。
「です」
「あの、終わったらちょっとだけ時間ください!自分、外で待ってるんで!」
そう言ってコーヒーも忘れたままで、店を出ていった。
「あ、コーヒー」
持っていこうとするボスを止める。これ以上、あの人を恥ずかしい目に合わせるのは可哀想だ。
「私が行きます」
持っていくと、あ、と今更忘れていたことに気づいたようだった。
「すみません」
「謝ることないっすよ」
「いやそれも、ですけど。仕事中、邪魔しちゃったっすよね」
「あー、いいんですよ。ちょうど暇だったんで」
「突っ走りすぎたなって自分でも思ってて。引かれるとは思ったんですけど、これしか思いつかなくて」
「まあたしかにびっくりはしましたけど。あんまり気にしてないと思います。割とぼんやりしてるんで」
んん、と小さく唸る。
「まあ、1時間後くらいに来るんで」
去っていく背中を見て、マイペースな人だなと思った。
悪い人ではなさそうだけど。
バイトの時間が終わって、交代の人が2人、バックヤードから出てきた。
制服を脱いで、すぐに行こうとすると小羽さんが呼び止めた。
「あれ、悠。もう帰んの。一緒いこーよ」
「いや、私いたら気まずいでしょ」
「そっかなー」
「私今日用事あるし、じゃ、明日、話聞かせてください」
そう言ってさっさと家に引き上げた。
なんだかモヤモヤとした塊が心臓にへばりついているような気がした。
翌日のバイトは気分がだるかった。3限に量子力学Ⅲのテストがあったせいで疲れていたのもあるし、朝拾ってしまった花束のこともあった。
あれを持ち帰ったせいで、私は一限をサボってしまったわけだし。どうして、割を食ってまでこんなことをしたのか分からなかった。
1時間はワンオペで、その後小羽さんが来る。
あの花束の贈り主と受取人に私は心当たりがあった。
こんな想像を巡らせる自分が、そうだったらいいだなんて思ってしまう自分が嫌だった。
小羽さんはいつものシフトから1時間遅れだ。
とすればもうすぐ、あの男の人がやってくるはず。
その人の表情次第で私は、自分のことを嫌いになってしまいそうだった。
「白状」と題された日記のページを繰ると、次々に出てきた変哲もない日常。そこにはただの同級生だった頃の福田さんの心底が描かれていた。
2022年の1月から始まった日記は飛び飛びになっていながら、2022年の12月まで続いていた。最終日は12月24日。多分、福田さんが決心を固めた日だ。
12月に入ってからのページを除けば、内容は概ね和やかなものだと言っていいだろう。季節のイベントを程々に消費しながら、一般的なイメージと大して変わらない大学生活を送っている。
大きな転換点となっているのは、やはり12月20日だろう。この日は有機化学のゼミのメンバーで、旅行にでかけていた。私は実験が残っていたので見送ったが、同じく不参加のメンバーに福田さんもいた。
福田さんはゼミ室で何やら書き物をしていたようで、私が部屋に入るとびくりと身体を震わせた。
「うわ!誰?って鈴城ちゃんか」
「ごめんごめん、驚かせちゃった?」
「あれ?旅行は?」
「私去年入院してたから実験残ってんの。福田さんこそ、楽しみにしてたじゃん」
栗色の髪から覗く黒の瞳が曇った気がした。しかし、一瞬翳ったような気がしただけで、もう一度見ると、いつも通りの福田さんだった。
「だったねー」
私が入院していたことに対してなのか、自分が旅行を楽しみにしてたことに対してなのかよく分からない返答だった。
手元にはさっきまで書いていたメモのようなものがあるが、入ってきた時の様子から、見られたくなさそうだと思ったので、視線を遣らないように気をつける。
その様子に気づいたのか、ああこれ?とぴらぴらさせる。そのままくしゃりと握って、言う。
「ただの試し書き、ペン、誰か忘れてったみたいだから」
手元のペンを見ると、見覚えがあった。
「あ、それ凛ちゃんのやつ」
水色で芯が0.3ミリ。凛ちゃんがいつも使っていたペンだ。
「これ可愛いし、もらっちゃおうかな、なんて。人の物を取るのはよくないよね」
机の上にペンを置いて、福田さんはゼミ室を出ていった。開いた隙間から風が流れて、かき混ぜられた冷気が背筋を撫でた。
部屋を出ていく福田さんの表情は笑っていた、ように見えた。
それから1週間後、テレビをつけると、面長の整った顔をしたニュースキャスターが昨日の事件を報道していた。
「12月25日。都内のホテルで同じサークルの男女が亡くなっているのが、発見されました。犯人は被害者男性と恋人関係にあり、交際相手の浮気に腹を立て、犯行に及んだとされており、捜査は難航しておりましたが、12/26には、犯人は自首したようです。犯人は○○大学の理学部に在籍しており……」
屋根裏部屋で見つけた懐中時計はすっかり古ぼけていて、蓋はガバガバだし、どの針も微動だにしない。
蓋の表面は少し錆びていて、ザラザラとした感触がある。何やら文字が書かれているのは分かるのだが、読み方が分からない。
もうかれこれ10時間以上は調べているのだが、現存する言語に当てはまりそうなものは見あたらない。だとすると、ここに書かれているのはすでに世界から失われた言語で、この文字を読むと金銀財宝を隠した場所が分かり、たちまち大金持ちに……だなんて都合が良すぎる想像だろうか。
10年前に死んだ曽祖父の部屋には、膨大な量の書物があった。単にそれを本と呼ばないのは、そのほとんどが読み手を意識して書かれたものではないからだ。意味のよく分からない一枚絵や、毎日ほとんど同じことしか書かれていない日記、数字や線がびっしり描き込まれた地図。
母はすぐに捨ててしまおうとしていたけれど、僕はこの空間が気に入っていたので、変えないでほしいとお願いした。曽祖父が亡くなったのは僕が5歳の時だったので、もうよく顔も覚えていないが、低いが包み込むように優しい海の底のような不思議な声で、本を読み聞かせてもらった記憶がある。
そういえばあの本、まだこの部屋にあるのかな。朧気な記憶を掘り起こしながら、部屋を探る。たしかあれは少年が海を冒険する話だった。海賊の父を持つ少年は、自分を置いて島を出ていく父親から……。
「懐中時計をもらうんだ」
零れるように口から自然と言葉が出ていた。なんで忘れていたのか不思議に思うほど、物語が鮮明に蘇る。そして、冒険に出た少年はその道中で様々な宝を手にする。しかし、それを利用されることを恐れた少年は、途中の島に宝をすべて置いてきてしまう。その後成長した主人公は、途中の島で女性と出会い。冒険をやめて結婚をする。
その後は……。
「あった」
かきわけた本の隙間に見覚えのある表紙が見えた。崩れないように慎重に引っ張り出して、中身を開く。開くのは最後のページ。
結婚した主人公には娘ができて、最後のページでは子供を抱いている。その子の首の右後ろに、アザがついている。そのアザには見覚えがあった。毎日鏡を見る度に目に入る、自分の姿にそれは含まれているのだ。
鼓動が加速して、息が荒くなる。だとすれば、赤子を抱くこと人物は、主人公が利用していた海図は、その手にある懐中時計は。絵本の中で宝のありかを刻んだものは。
すべてが繋がる感覚があって、目眩がした。ながらく停滞していた時が動き出す。時計の針が動いたような気がした。
揺れる度に錆の音を立てて、一人公園に佇んでいる。曇天の空は鈍色に沈んで、帰るべき時間が到来していたことを理解した。とはいえ、あんな所へ帰っても仕方がないのだが。所在なく揺れるブランコに背を向けて、家路についた。足取りが重いのは母が待っているせいだろう。
家に私の居場所はない。母の再婚相手は、私より少し年上くらいの男性だ。私との歳の差よりも、母との歳の差の方が大きいくらいだ。悪人ではない。しかし、彼は私に興味がない。好きな人と結婚をしたら、付属していたもの、という程度の認識なのだろう。会話は常にぎこちなく、どこか儀式めいている。母もそのことには気がついているとはおもうのだが、彼との関係を繋ぎ止めることに必死で、私のことを気にとめている暇はないようだ。
あの人の前の母は別人のように見えて、3人で顔を合わせる度に知らない人と相席してしまったような不快な違和感が頭を満たしてしまう。家の中から居場所が失われた人間はどこに帰ればいいのだろう。
学校が始まるまで、ここにいようかな。どうせあの人たちは私を探さない。
踵を返してブランコに座ると、座面と連結する金具が軋んだ。曇天模様の隙間から夕焼けが覗いていた。視線の方向から2台の自転車。大きなバッグを肩に提げている。逆光で顔は見えなかったが、1人は自転車を停めたようだ。もう1人に手を振って、その後こちらに歩いてくる。
「檜原さん、こんなところで何してんの」
夕焼けと頭が重なる位置に来て、ようやく声の主がクラスメイトだったことに気づいた。
「井上さん」
井上さんは私のクラスメイトだ。クラスの中でも目立つ方で、常に隅っこを陣取る私とは関わる機会がほとんどない。
頭の中でもっともらしい言い訳を考えるが、思いつかない。慌てる私を見て、不思議そうな表情。
「夕焼けが……綺麗で」
私の回答に一瞬ポカンとして、振り向く。
「ん、たしかに」
隣のブランコにカシャンと座った。
そのままゆっくり漕ぎ出して、少しずつ振れ幅が大きくなっていく。頼りなく感じていたが、ブランコの鎖は意外と丈夫だ。
「井上さんはなんでここに」
「部活帰りはいつもここ通るんだ。遠回りなんだけどね。友達の帰り道がこっちだから。そしたらたまたまウチの制服見っけたから」
「そうなんだ」
「ブランコ、小学生以来かも。懐かしいね」
曖昧に頷くと、井上さんが笑う。
「何その反応、もしかして普段結構乗ってた?」
「漕ぎはしないけど、たまに」
「そっか!私は今日!漕ぎたい気分なんだ!」
そう言って井上さんは前後に激しく振れる。夕焼けに染まる横顔は、普段教室で見えているものとは違う気がした。
「何かあったの?」
「よくぞ聞いてくれた!」
そこで言葉を切って、息を吸い込んだ。
「今日!外部から練習見に来たコーチから!プロは無理って言われたんだ!」
どうして、とは聞けなかった。井上さんは中学の頃から地元では有名なバスケ選手だった。全国大会にも出場して、希望者で応援に行ったこともある。
素人目にも分かるくらい上手く、凄いと思ったのを覚えている。
しかし、それだけでは足りないのだろう。それを生業にするには、プラスアルファで圧倒的な何かが必要なのだろう。
そして、おそらくそれは私には理解できないものだ。
「そっか……」
「自分で言うのもなんだけど、結構バスケには自信あったんだよね。このまま続けてれば、もしかしてプロになれちゃうんじゃないかって思ってた」
ブランコの音が痛いくらいに軋む。
「だけどそうじゃない。きっとプロになれる人はもしかして、だなんて甘えた考えでやってないんだ。さしてきっと、他人に少し言われたくらいで簡単に納得しちゃえるようなものじゃないんだ」
風が強い。電線がヒュウヒュウと鳴っている。
「やりたいことが自分に向いてないってわかった時、どうしたらいいのかな」
ごめんね、愚痴っちゃって。と笑顔を貼りつける井上さんを見ていると、どうしようもなく、寂しい気持ちになった。
膝に温い感触が落ちた。
「え!檜原さん、泣いてる?どうしよう、ごめんごめん」
ブランコを足で止めて、井上さんが驚く。
「ごめん、なんか悲しくなっちゃって」
「ねぇ、そんなこと言われたら、私も、もう」
涙が止まらない私を見て、井上さんも泣き出してしまった。ブランコは風でキシキシと鳴いている。
そのまましばらく、居場所を失った私たちは2人で泣いていた。
「あー、泣いた泣いた。ごめんね、付き合わせちゃって」
井上さんは泣くのに急に飽きたかのように、ふるふると顔を振って立ち上がった。
「暗くなってきたし、帰ろうか。家はこっち?」
「うん、井上さんは反対側だよね」
「うん、じゃあここでお別れだね」
「お別れって、明日も教室にいればいるじゃない」
たしかに、と井上さんは笑った。
自転車を漕ぎ出そうとして、少し止まる。
振り向いた顔は暗くてよく見えない。
「明日もここ来ていいかな」
辺りはすでに夕闇に没して、自分たちの影もよく分からない。
「あ、でもいつもいるわけじゃないのか。ごめん、忘れて」
そうつけ加えて、去ろうとする井上さんの背に触れた。
え、と困惑した声で振り向く。
「いいよ。井上さんが来るなら、いつもいてあげる」
困惑した顔が笑顔に変わるのが見えた気がした。
「ありがと、じゃ、また明日」
遠くなっていく背中を見送って、今度こそ家に歩を進める。足取りはさっきよりも軽い。
いていい場所がどこかにあるだけで、私の足はこんなにも弾んでしまうのだ。