君の声がする
「好きになってごめんね」
別れ際、君はそう言って笑った。
俺にはわからない何かが、きっと君の心にあったんだろう。
「−−−あの、さ」
思わず引き止めてしまったのは、たぶん、そういうことだ。
「ごめん。……ありがとな」
君はちょっと目を丸くして、それからみずみずしい目を細めて
「ん」
とだけ頷いた。秋の風がふたりのあいだを吹き抜けていった。
君はまた前を向いて歩き出す。その背中が震えるのを見てられなくて、俺もまた早々に背を向けた。
少し歩いて、君の声がした気がした。振り返ると、君の姿はもうなかった。
俺は前を向く。君がそうしたように。
そして、もうじき背中を震わせて声を押し殺して泣くのだろう。君が、決して俺に見せなかった姿を。
もう君の声はきこえない。
そっと伝えたい
何の言葉もいらないくらい、あなたと通じ合っていたならどれほど。
偶然、駅で鉢合わせして、私の胸がどんと揺れて。あなたは「うお、また会ったなあ」とかにこにこ笑って。
もしも今日、これを渡してしまったなら。そうしたら流石に気づくのかな。それとも、もう本当は気づいているのかな。
嫌んなる。あなたのなかに私がいないことくらい、とっくに知ってるのよバカ。
他のより丁寧にリボンを巻いたチョコレートに、あなたは気づいてしまうかもしれないのなら。
やめた。
いつか伝えるなら、それはそっと風に背中を押される日がいい。ふんわりと伝わるときがいい。
あなたと「偶然」出会える電車を見送って、私はリボンをほどいた。きれいに結んだ心もほどいてしまいたかった。
「甘い」
チョコレートの甘さは、あなたも私も癒すことは、きっと出来ないのね。
やさしくしないで
『あたしのこと、大事にしてね』
ちゃんと出来ていたかな。
『優しくしてくんなきゃ嫌いになっちゃう』
もう嫌いになっちゃったかな。
『あなたはいつも、優しいよ』
そんなことなかったんじゃ、ないかな。
左頬のあざに触れないように服を脱いだ。傷だらけの身体を見たくなくて、風呂場の電気は消したままシャワーを浴びる。
痛い。
『ごめんなさい』
痛い。
『ごめんなさい、悪いのはあたしです』
イタイ。
『ごめ、なさ……やめ、もう、ごめんなさ……』
痛い。
『痛いですごめんなさいごめんなさいごめんなさい……』
これはさすがに、マスクをしても隠せないな。しばらくは外に出るのもやめておこう。
左頬を撫でる。どうして、こんなに痛むの。
あなたはもう帰ってこない、そんな気がする。
ベッドルームを覗いてみると、シーツも布団もぐちゃぐちゃのままだった。ああ、初めて叩かれたのはこの部屋。
キッチンのシンクには食器がいくつか残っている。包丁を持って脅されたときは、死を覚悟したっけな。
リビングのソファは、いまだに座れない。前にそこで寝ちゃってたら、帰ってきたあなたに引きずり下ろされたから。
お風呂場も、あなたが家にいるときに入るのは避けていた。洗濯機に閉じこめられたら死んじゃうもの。
髪の毛を掴まれてベランダから半身を出されて、やっと目が覚めた。
あなたは、優しい人じゃない。
優しくしてくんなきゃ嫌いになっちゃう。
あたしは確か、そう言った。あたし、嘘を吐いちゃったのね。あなたは嘘が嫌いだから、だからお仕置きをしたの、そうでしょ?
あなたは優しくなかった。あたしを抱いて、殴って、キスして、捨てた。
あたし以外の子になら、柔らかなキスをするんだろうか。今ごろは新しい人と一緒に微笑みあっているの? それとも笑っているのはあなただけで、相手の子はあたしみたいに泣いてばっかりいるのかしら。
それなら戻ってきて。
あなたは優しいよ、いつも。
そんなことなかったね。
あたしだけ、じゃないかな、あなたを抱きしめてあげられるのは。
ときどきしてくれたキスも、熱い目も、引っ叩いた10秒後の愛撫も。忘れられないの。
やさしくしないで、いいよ。
あたしだけのものになってよ。
あなたはもう帰ってこない、そんな気がするの。
手のひらの宇宙
きらきら。ふわふわ、ぐるぐるり。
ぴちょーん。とくん。とくとく、とん。
めりめり、ごー。しゅわっ。ふよよ。
ぐーん。び、びりり。
ぴかぴか。ぼうっ。めらめらめら。ぷしゅー。
ざー。ざざ、ぽーん。
しゅしゅしゅ。ひゅーん。ばしゅっ。
ごごごごご。どん。ぐるん、ばっ。
………、…、……。……。
?
あたたかいね
『鈴山さんの天気予報』はよく当たる。
朝5時から始まる情報バラエティの、星座占いと天気予報を観てから家を出るのが私の日課だ。
占いのほうは正直信じてはいないけれど、例えばラッキーアイテムがどうとか、ラッキーカラーだとか、そういうのが今日の持ち物のなかに入っていたらちょっと嬉しくなる。おまじないみたいなものだ。
この日の星座占いで、私の双子座は10位だった。ラッキーアイテムはサンドイッチで、『周りをよく注意して過ごしましょう』というアバウトな助言をもらった。スタジオのゲストにも双子座がいたようで、コンビニのサンドイッチ全買いしまーすとコメント。
私もなんとなく、お昼はサンドイッチを買おうと決めて家を出た。
徒歩10分の駅から、電車で15分。目的地に着いたらさらに5分ちょっと歩いて、私の勤めるオフィスがある。
『今日の最高気温は9度、昨日より2度ほど上がるでしょう。全国的に晴れの模様です』
今朝の鈴山さんは確かそう言っていた。だからいつものコートだけでカイロは持ってこなかったわけだけど、風が強くてどうしても暖かくなんて感じない。むしろ昨日より寒いんじゃないか。
オフィスビルに入ったところで、
「鳥越さん、おはよう」
声がかけられた。見ると、同僚の島泉さんが1階のコンビニからこちらへ歩いてくる。
「おはよう。何買ったの、お昼ごはん?」
「いやあ朝食だよ。寝坊して食べて来れなかった」
「島泉さんが寝坊?意外」
「俺だって自分にびっくりしたさ」
話しつつ、一緒にエレベーターに並ぶ。
「いつも観てる朝の番組をね、観れなかったわけだから残念。あの天気予報当たるのに」
「へえ、私も観てるよ。ソーソーモーニングってやつ」
「ほんとう?!俺もそれなんだ。鈴山さんのね」
「鈴山さん、今日は昨日よりあったかいって言ってたよ。でも風強いし、あんまりそうは思えないよね」
エレベーターは徐々に降りてきていて、今は5階にいるらしい。エントランスの自動ドアが開くたびに冷気が舞い込むから、早く来てくれると助かるのに。
「鳥越さん、カイロ持ってないの?俺の貸そうか」
島泉さんは大きなコートのポケットから、貼らないタイプのカイロを取り出した。
「大丈夫って言いたいとこだけど、じゃあちょっとだけ借りてもいいかな?もう手が冷たくて冷たくて」
そう手を差し出す。すると島泉さんは私の手にカイロを乗せ、そのまま彼の両手で包んだ。
「そうかな?鳥越さんはあったかいよ」
とたん、指先に熱さが巡った。
わけがわからないけれど、ひとつの感覚が脊髄に達する。
この熱さ、そして痛さ。
「あ、」
熱い。
「あっあぁ……」
暑い。
「ぁあぁぁ……?」
巡って、巡って、手首から身体の外へ流れ出る。
「鳥越さん」
チカチカする視界で、目の前の人物を見た。恍惚とした表情で、私をーー私から溢れる血液を眺めていた。
「ああ、ほら、ぜんぜん」
愛おしそうに手首の傷を撫でる。私の悶えも聞こえないみたいに、彼は指を傷口に突っ込んでは広げていく。
「鳥越さんはぜーんぜん冷たくなんてないよ」
床に落ちたカイロは赤々と染められていた。彼はカイロを拾って、頬擦りをした。
「鳥越さんは、あたたかいね」