脳裏
「本日は、お招きどうもありがとう」
メインを楽しんで、あとはデザートを待つばかり。私は床につくほど大きな白いクロスの掛けられたテーブル越しに、彼に会釈した。
「いえいえ、こちらこそ来てくれてありがとう。これといって珍しい料理も出せなかったけど」
「そんなことない!どれもこれも、とっても美味しかった」
「それならよかった」
彼は自分のグラスに水を注いで、ふわっと微笑んだ。
「これでもね、食材にはこだわったんだ。説明しても?」
もちろん聞きたい。こくこく頷くと、彼も嬉しそうに頬を上げた。
「前菜に添えたソースがあったでしょう、あれは彩りが大事だから、鮮やかさを保つのに苦労したよ。凝固も分離も防ぎたかったしね。いろんな赤い食材を、ペーストにしたりみじん切りにしたりして混ぜて。試行錯誤の末に、あの配分にたどり着いたわけさ」
なるほど、あのソースは確かに素晴らしかった。絶妙な苦味と酸味が、オードブルにしては少し甘い野菜たちの味付けを引き立てていたの。
「それからスープ。コンソメかクリームかで結構悩んだんだ。だけどどうしても使いたい肉があってね、この国では滅多に手に入らない希少部位さ。どうせなら君に食べてほしかった。でもほんの少しだからメインにはとても使えなくて。その点クリームスープなら、豪華にできるんじゃないかと踏んだわけだよ。柚子胡椒をアクセントにね」
ええ、本当に。スープだけでも心が満たれるくらい。あの刺激の正体が柚子胡椒だったなんて。おかげで芯からぽかぽか。
「メインは魚介を選んだけど、これも迷ったんだ。カルネはスープに入れちゃったからね。でもステーキをどんと出して、君の丸い目を見れたらなとも思った。結局、帆立のソテーでも喜んでくれてよかったよ。ああ、そうそう」
彼は立ち上がって奥のセラーを開けた。小ぶりなボトルを1本取り出して持ってくる。
「これ、一緒に飲もうと思って。デザートの前の、口直しみたいなものさ。グラスをこちらに」
差し出すと、上品な所作で注いでくれた。自分のにも注いで、話を続ける。
「ソテーのつけ合わせだけど、どうだったかな?実は咄嗟の思いつきで作ったから、ちょっと自信がなくて。ーー美味しかった?ああ、よかった。あれはね、とても硬いものだけど長時間かけてじっくり煮たら案外いけるんじゃないかって。君で試しちゃってごめんよ」
いいえ。むしろ私に最初に食べさせてくれたのは光栄だもの。大葉の上の、ジェリーのようなこれは何かと初めは訝しんでいたけれど、口当たりがとっても良くて気に入っちゃった。
「ただギリギリで準備を始めたからね、そこで時間を取られて、デザートがまだ冷凍庫というわけさ。うん、でもそろそろ固まったんじゃないかな。待っててね、見てくるよ」
彼はキッチンへ入った。やがて陶器のボウルを手に顔をのぞかせた。
「うん、大丈夫そうだ。取り分けて持っていくよ。
ところで、少し人体の話をしようか。そんな難しい話じゃないよ、安心して。
『脳裏』ってあるだろう?『脳裏に浮かぶ』とかよく言うけれど。
映画の中でさ、野蛮な民族が猿の脳みそをソルベにしている描写、あれ苦手なんだ。あんな苦くて臭みも強いやつ、食べれたもんじゃない。食わず嫌いなんて言わないでくれよ。
だけど脳裏は別だ。ふとした拍子にいろんなことが映し出される脳裏は、思考して堅くなった脳みそより味に深みがある。おもしろいでしょう。
脳裏は限られた部分にしかないからね、たくさんは作れなかった。2人で食べる量を考えると、1人分の脳じゃ足りなかったね。結局3人だよ。
でもいいんだ、君のためだから。大切なお祝いに奮発するのが楽しいんじゃないか。さあ、ミントの葉を飾って完成だ。
君のための特別なデザート、脳裏のソルベ。さあ召し上がれ」
哀愁を誘う
もう何年も前のことだけどさ、うつむいて歩いてたらね、あんたの名前で呼び止められたんだよ。数学の西先生にさ。覚えてる?公式とかなんでも歌にしちゃう先生。
そうそう、それで先生が言ったわけ。「下向いてたから、あいつと勘違いしたー」って。そんとき私思ったんだよ。うん、なんかさ。
あんたって馬鹿だよなあ。
私、あんたのこと好きよ。おもしろいし楽しいし、かわいいし。けどあんたはいっつも下ばっか見てさ、顔も隠したがるし、哀愁?みたいなの漂わせて。背中がすんごい寂しげなわけ。
でもそういうのも、あんたのいいとこだよ。変な虚勢も見栄も張らないし、自分です!つって貫いてる感?そういうとこも好き。
あーなんか照れるな。けど夢の中でもなきゃあ、こんなん言えんでしょ。
あんたのこと、愛してるよ。ほんと出会えてよかった。一生の友達。親友。……お別れなんて、やだなあ。
……なんつって。
うん、もういっかな。全部言えた、悔いはない。
ほんじゃ、私そろそろ行くわ。あんたは来んなよバーカ。そうやって哀愁ちらつかせながら、ずっとそこにいなさいよ。
生きててよ。
それじゃーね。ま、これから背中向けるけど、あんたの目に私の後ろ姿が寂しそうに映ってたら、それは光栄だわ。
ばいばい。
眠りにつく前に
お風呂に入る前に髪をといて、ひとつに束ねてから、メイクを落とす。寝巻きのスウェットに下着をくるんで脱衣所へ。
洗う順番は顔、体、そして頭。金曜日だけ入浴剤をいれて一週間の疲れを癒す。そのまま20分の半身浴。
やがてあがると早々に化粧水と乳液を顔につける。手について余ったそれらは腕や脚に塗って有効活用。濡れた髪はタオルでくるっと巻いて水分をとる。
そのあいだに着替えと歯磨き。最近ハマっているのは炭の歯磨き粉。一昨日も箱買いしたところだ。
うがいをしたら、頭のタオルを取って髪にオイルをなじませる。丁寧に、惜しみなく。そして鏡を見ながらドライヤーをする。
それが終わればキッチンへ。マグカップに電気ポットからお湯を注いで、スマホを触りながらゆっくり飲む。普段甘いもの好きなくせに、家で飲むのは白湯ばかりなんだから。
一旦ソファで休んで……なんてしたらすぐ寝落ち。一時間くらいして目が覚めて、目をこすりながらようやく寝室へ。
布団を被る前にアラームの確認をして、さあおやすみ。
これが彼の眠りにつく前のルーティーン。
私のルーティーンは、そんな彼の行動ひとつひとつをくまなく観察し記録することです。
永遠に
永遠なんてなかった。
金木犀の香りは終わったし、目を逸らしたら消える笑顔と、その場限りのあいづちと。
「うそつき」
吐き出した言葉さえもアスファルトに落ちたら最後、じゅわっと溶けてなくなった。
あなたを許さないよ?わたし。どれだけ後悔したってもう遅いの。時は戻らないの。綻びは塞がらないの。
忘れてなんてあげない。あなたを恨み続けます、
永遠に。
懐かしく思うこと
今年から赴任してきたこの学校が、どこか淋しいのはなぜだろう。去年までいたところと違うのは偏差値くらいで、校舎の作りも担当科目も変わらないのに。
授業中、黒板を向いていると何かが物足りない。例えば、あの温度。
ああ、そうか。
前から4番目の、右から2列目。そこに座っていた彼女は、今どうしているんだろうか。まだわたしを探してなどいないだろうか。
いつかまた会えたら話したいことがある。この春に生まれた娘のこと、学校間のカルチャーショック、君の視線のない淋しさ。
彼女はなんて言うだろう。馬鹿ですねと笑ってくれるだろうか。はぐらかすかのように目を細めて、またわたしを見つめるのならば。
「ごめんな」
君が懐かしい、福井。
『彼女と先生・おまけ』