「たそがれ」
朝からぼうっとしていた。頭がゆらゆらで、水道水に触れると変にあったかいような冷たいような感じがした。
どうして今日に限って、あの人の授業が午後なんだ。それまで耐えないといけないじゃないか。
文句が浮かんでも、心は変わらない。私を動かすのはいつだってそうーー……。
すでに脳みそががんがんに揺れていて、身体が鉄骨みたいに重かった。ストーブの上で温めたような血が全身を巡るせいで、もう秋なのに暑かった。なのに容赦なく吹く風のせいで、寒気が背筋を駆けのぼった。
ようやく帰れると思った放課後、委員会に呼ばれた。会議室へ向かう階段の踊り場に、あの人が立っていた。
2階に吹き抜けのその空間はオレンジ色に染まっていた。その人は窓の外にいる生徒と話しているらしい。いつもの調子で明るい声で、ふと、上ってきた私に気がついた。
「おお、福井」
さよならと会釈をして顔を上げたとき、その瞳に捕えられた。
「きれい」
茶色い目が、長いまつげが、めがねのレンズが、たそがれ。
「……せんせい」
口が勝手に動いていた。
「好きですか、それとも嫌いですか」
とたん、足ががくんと折れた。リュックサックの重さに、身体が後ろに傾く。
先生の困惑した表情が一気に青ざめたのがわかった。手が伸びてきた。届かなかった。
視界がぐるんと上に回って高い天井が見えたあと、私の意識は途絶えた。
『彼女と先生』
「きっと明日も」
最近気づいたことがある。前から4番目、右から2列目の席の視線。
「……で、この時代、ビザンツとオスマン、さらには神聖ローマなんてでかい国が同時に存在してたわけです。けど1492年、オスマンがビザンツを滅ぼします。ちなみにこの年号見覚えのある人おる?……そう、コロンブスが新大陸を見つけたっていうのと一緒の年なわけなんです。覚えやすいでしょ?」
板書して生徒たちを振り返ると、みんな一斉にプリントに写していく。前から4番目、右から2列目も同じ。
再び黒板に向くと、ああ、まただ。背中に感じるなにか。
「このときオスマンはめっちゃ強かったわけですが、このあとヨーロッパ連合軍も破ります。この戦いはこないだちらっと紹介だけしてんけど、覚えてる?」
振り返る。板書のない今は、みんなわたしのほうを見て授業を受けている。
目が合いかけた。
だめだ。
ちょうどなのか今さらなのか。前から4番目、右から2列目の席の視線に気がついてしまった。おそらく隠そうとして隠しきれない、なにか熱の込もったような視線。
わたしは知らないふりをする。
昨日も今日も、きっと明日も。
『彼女と先生』
(年号はミスです。このまま覚えないでください🙇)
「静寂に包まれた部屋」
午前6時56分。ほの暗い教室に明かりをともす。かじかんだ手をこすりマフラーを脱ぐ。
午前6時59分。そろそろかな、見計らって廊下に出ると左折。すると間もなく、
「福井?おはよう」
背中にかかる声。
「今日も早いなあ。あ日誌なら持ってきたで」
振り返るとその人はもう教室に足を踏み入れていた。
「はよ入り。寒いやろ廊下」
後ろに続いて教室に入ると、その人は「も〜、暖房いれぇな」と操作盤をいじる。
「寒ないん?」
寒いですーー答えると、その人は軽やかな声を立てた。
「真面目やなあ、風邪ひいたらどうするん。公募推薦は来月やろ」
はい、と頷いて席に座る。その人は、もっとサボりやあなんて笑いながら黒板に連絡事項を書いていった。
少ししてチョークを置き、ごみ箱の上で手をはたく。
「ほなな、1時間目なったらまた来るわ。勉強ほどほどに頑張って」
午前7時13分。その革靴で早足で去っていく音に耳を立てる。
午前7時20分に他の生徒が登校してくるまで、うす明るくなった教室の静寂と共に余韻に浸っている。
『彼女と先生』
「別れ際に」
花束を渡したい。
最後の最後でわがままを。
あなたに会いたい。
最初で最後の別れ際に。
その腕で眠りたい。
最も偉大な愛情だから。
「あのね」
シュー、シュー、シュー……。
「ごめんね、ずっと言えなくて」
シュー、シュー……。
「だいすきだよ」
「……」
「だから帰ってきて」
シュー、シュー……シュー……。
玄関のドアを開けて、真っ暗なリビングだけが出迎えること。荷物を投げ出して泣きわめいても、あなたは駆けつけてくれないこと。
おはよう。いってらっしゃい。いってきます。ただいま。おかえり。いただきます。ごちそうさま。おやすみなさい。
それらの代わりに花束を。お別れなんて信じない。認めない。私のそばには、あなたがいないと許さない。
だからありったけの愛をひとつに束ねて、あなたに届けたいの、お母さん。
『彼女と先生』
「秋」
『好きですか、それとも嫌いですか』
彼女に訊かれて答えられなかったことを今でも覚えている。リュックサックを背負い、夕日越しにわたしを見つめる目を、オレンジ色に染まったまつげを、頬にかかった数本の髪を。
九月二一日の、まだ暑い放課後だった。熱か暑さか、それ以外だったのかもしれない。妙にみずみずしい黒目に、わたしは何をすればよかったのだろうか。
そのまま彼女は後ろ向きに倒れた。支えることも間に合わなかった。
九月二十日の夕日は痛い。『明日です』と、囁かれる気がしてしまうから。
『彼女と先生』