一年後、扉がノックされた。
鍵なんてかけてないのに律儀なやつだ。
僕は扉を開けてやった。
「やあ」
まるで昨日も会ったかのように、戸口の君が片手を上げる。
僕は無言で不機嫌を伝えた。
歓迎ムードじゃない僕に気がつき、君は不思議そうな顔をした。
「怒ってるのか?」
「当たり前だろ。君、一年も何してたんだよ」
そう、一年も。
今日は君がふらりと散歩に行って戻らなかった日から、きっかり一年後だ。
君はきっと僕の心配や悲しみなど気にもしていなかったんだろうな。
「そうだ、おまえに土産があるんだ。珍しい菓子だぞ」
背負ったリュックサックをごそごそやりだす君を、僕は抱きしめた。
まったく。人の気持ちなんてわからないくせに、こんなことばっかり覚えやがって。
ずっと我慢していた涙が溢れ、君の肩口を濡らしていく。
びしょびしょになればいい、勝手に出て行った罰だ。
僕はそっと口を開く。
「おかえり」
君は戸惑ったように身じろぎし、少し迷って恐る恐る僕の背に腕を回した。
「ただいま」
明日世界が終わるなら、やりたかったこと全部しよう。
今から車で海まで行って、二人でアイスを食べよう。
今からだよ。今すぐ。
それから君が行きたがってた駅前のカフェでお茶をして、欲しかった靴も買って。
ああ、公園でピクニックもしなきゃ。
あとは何だろう。映画?
ごめん、あのテーマパークには行けないかも。
やっぱり時間が足りないね。
でも最後は決めてるよ。
君と手を繋いで、ベランダで終末の世界を眺めるんだ。
生きている人間を、何も知らない動物を、それでも動く世界を。
まだ生きたかったねって泣いて、あれやるの忘れてたって後悔して、空がきれいだねって笑って。
それでいよいよ終わりが近づいたら、抱き合って、手を繋いだまま目を閉じよう。
……何?眠いの?いいよ、おやすみ。
明日も一緒に生きようね。
君と出逢って、私は変わった。
全能の神の座から、ただの人間へ引きずり下ろしたのは君だ。
私たちは影響し合い、混ざり合い、融け合い、やがて一つの美しい生き物になる。
羊の声が聞こえるかい。
君の中の怪物は、たいそう腹を空かせているだろうね。
見ないふりはできない。
聞こえないふりもできない。
大きな運命の川が私たちを押し流す。
君の穏やかな小川はすっかり濁ってしまった。
私と出逢ったことが、君にとってどんな意味を持つのか。
君は神の目を持つ人間だから、きっとそのうちわかる。
地獄の淵で踊る。
どちらかが足を滑らせるまで。
あるいは、君の覚悟が決まるまで。
その時が来たら、さも驚いたふうに、一緒に落ちてあげよう。
もうどうにもならなくて、全部が上手くいかなくて、毎日泣いていたあの頃。
あなたと二人、夜の街をヘンゼルとグレーテルみたいにさまよった。
わたしの赤い目元に、同じくらい真っ赤な目をしたあなたがキスをして囁く。
「逃げちゃおうよ、二人で」
結局、中途半端に臆病なわたしは何も言えなかった。
あの時あなたがどんな顔をしていたかはもう思い出せない。
初夏の風が前髪を揺らしていた。
耳を澄ますと今でも聞こえてくる気がする。
あの日のわたしたちの静かな笑い声。
世界に二人きりだった、遠いあの頃。
「二人だけの秘密だよ」
チェシャ猫めいた笑顔であいつは囁いた。
真っ黒な瞳が僕を飲み込もうとしている。
「ああ、気分がいいな。君の秘密をぼくだけが知ってるなんて。ぼくだけが。──あいつは知らないんだ」
じっと黙る僕を無視して、大きく手を広げたあいつが喋り続ける。
あいつにとっても僕にとっても都合が悪い秘密を、あいつは楽しんでいる。
過ちは無かったことにはできないが、僕は心底後悔していた。
「おまえ、絶対あの人に言うなよ」
悔しくて悔しくて、僕は食いしばった歯の隙間から言葉を押し出した。
念を押さずにはいられなかった。
「言わないさ。だって、せっかくの二人だけの秘密なんだから」
またチェシャ猫は笑って、強張った僕の体を抱きしめた。
背中に食い込む爪の感触を、僕は受け入れて目を閉じた。
きっと、これが罰なのだろう。