先月のこと、そろそろダリアの球根植えなきゃなーと思って調べたところ、
「桜の花が咲く頃が植えつけ適期です」
とあって不覚にもキュンとした。花のことを花で言い表すんだなと。
仰せの通り桜の頃に植えました。ギャラリーダリアの赤とレディダリアのアプリコットピンク。昭和の時代はどこの家の庭にもあったらしいけど、なかなかどうして奥深い花。今年もきれいに咲かせるべくお世話を頑張る所存です。
さて、お題の「桜散る」。
サクラサク、サクラチル、といったら大学の合格電報。
北海道大の「ツガルカイキョウナミタカシ」(津軽海峡波高し=不合格)とか、
三重大の「イセエビタイリョウ」(伊勢海老大漁=合格)とか、いやうまいこと言いますね。結果が出るまで気が気でない学生さんたちにはちょっと申し訳ないけども。
(桜散る)
電報っていうとなんでか「チチキトクスグカエレ」が浮かぶ。
夢見るような、というと、なんとなく少女を連想する。
目は閉じているか、どこか遠くを見るようなまなざし。胸の前で手を組んで。神話の登場人物みたいな布を身にまとって。花。小鳥。そんなイメージ。
子どもの頃、カメラ屋にフィルムを現像に出すと、いつもミュシャの表紙の簡易アルバムをくれた。はじめて買ってもらった画集もミュシャだった。
『イヴァンチッツェの思い出』なんて、まさに私の思う“夢見るような”そのもの。まどろむように目を閉じて、祈るように手を組んで、うっすら微笑みを浮かべている女性。ぼんやり浮かぶ教会の塔。ツバメの群れ。一説には、幼くして亡くなった、ミュシャの初恋の女の子がモデルとか。
(夢見る心)
穏やかな人物画が多いけど、時々ハッとするような表情の作品がありますね。
連作<四つの星>の月
燃えるろうそくと女
この二枚がすごく好きです。
伊東屋で買った季節の花の便箋。ウォーターマンの限定ブルーであふれる想いをつづった。ピッタリのり付けして、ついでにチュッと念を押す。
これでよし、と。
だのに窓口で突っ返された。
「84円切手でお届けできるのはひと目惚れまででして、片思いですと定形外となります」
「じゃあ不足分を……」
「あいにく取り扱いが14時までとなっております」
その後も押し問答したけれどもらちが明かない。困り顔の職員の後ろには、配達待ちのはがきや封筒が山積みになっている。入り口横のポストはいつから集荷していないのかはちきれそう。
切手やはがきの値上がりにドライバー不足に郵便法改正。
想いを届けたくとも物理的に届けてもらえないなんて、世知辛い世のなかになったものだ。
(届かぬ想い)
トイレのドア裏にかけた日めくりカレンダー。愛らしい猫の写真に偉人の格言が添えてある。
マザー・テレサ、ロバート・デ・ニーロ、武者小路実篤。有名人といってもジャンルはさまざま。
本日15日はイギリスの思想家トマス・モア。
「天が癒すことのできない悲しみは、地上にはありえない」
そして白くてちっちゃくてまんまるなそれこそ雪見だいふくそっくりの猫ちゃんが、つぶらな瞳でこっちを見上げている。
「ぼくにできることはあるかニャ」の台詞つき。
それを見るたび「ぼくにできることしかないニャ」とデレデレしてしまうのでした。
(神様へ)
はじめて付き合った人はゼミの先輩だった。文系だけど趣味は筋トレ、人付き合いもよく、バイトだってこなしていた。地方から出てきたばかりで田舎者もいいとこの私に声をかけたのは「真面目そうだったから」。ずいぶんな理由だが、そういうあけすけな言葉も逆に新鮮だった。
その人に誘われ、なんだかんだいろんな経験をさせてもらったと思う。カラオケも居酒屋もパチンコ店もはじめて入った。
音楽は東京事変をよく聴いていた。運転しながら歌ってくれたこともある。地声は低いのに、椎名林檎のクリアな高音が妙にうまかった。
でも彼のあけっぴろげな物言いは少しずつ胸に刺さるようになった。たとえば一緒にテレビを見ていても、「つまんねーよな」と言われたら「そうですね」としか言えない。年下だから生意気を言ってはいけないと変に自戒していたのだ。頼ることはあっても甘えかたがわからなかった。なにかをねだるなんてもってのほかだった。
「いつもきれいな敬語だし礼儀正しい」と彼の母親に紹介しているのを聞いてしまってからは、ますます引っ込みがつかなくなってしまった。
そのまま秋になり、冬になり、クリスマスと大晦日もそれなりにこなした。
そして元旦。0時を過ぎてしばらくするとその人が電話をくれた。
ひと通りの挨拶を終え、ふと沈黙が落ちて、私は「なにか歌ってください」と言った。どうせ断られると思いながら。
果たして彼は歌ってくれた。東京事変の『群青日和』。きっとお酒でも飲んでいたのだろう。
「新宿は豪雨……」
心地いい歌声に耳をかたむけながら、このまま時間が止まればいいのにと思った。無性に泣きたくて、ばかみたいに叫びたかった。
(快晴)