時計塔から鐘の音が聞こえた。
僕はラボのソファで眠りこける女性に声を掛ける。
「先輩、起きてください。もう12時です」
「……ん……なに……」
「12時です。正午ですよ」
「……あ」
「どうしました?」
「……昨日と明日のまんなかだあ」
新事実を発見をした、みたいな満点の笑顔を浮かべた彼女は、ゆっくりと瞼を閉じる。僕は慌てて話を繋いだ。
「昨日と明日といえば……明日っていい響きなのに、昨日ってあまり響かないですよね。今日を基準にすれば同じ距離なのに」
「んー……そうだねえ」
「なんでなんでしょうね」
「それはねー、明日に向かって進んでるからだよ」
夢うつつで言った彼女は、まもなく寝息を立てはじめた。僕はぽかんとして、それからドップラー効果、という単語に思い当たった。救急車のサイレンが近づいてくる時は高く聞こえ、離れていく時は低く聞こえる、あの現象だ。
僕はそっと息をついて、上げたばかりのブラインドを落とす。理論や理屈が主食の先輩は、眠くなるとなぜか空想的になる。不思議なことだけど、僕はその感性を買っていた。
夢の中の先輩はどんなだろう。一度会ってみたいものだけど、それはそれで少し困る。先輩に対するこの感情を見透かされるような気がするからだ。
展望台から望んだ池は水面に緑を映していた。
それがあまりにも綺麗だったから、
もっと近くで見たいと思った。
茂みに分け入り、薄暗いぬかるみを行く。
池のほとりに辿り着いた時には、
靴がすっかり泥だらけになっていた。
目の前には、澄みわたった静かな池。
そろりと覗き込むと、透き通った水の向こう、
ゆらゆら泳ぐ魚やキラキラ輝く石、
見たことのない神秘的な世界が広がっていた。
夢中になって眺めていた僕は、ふと展望台を振り返る。
遠く、写真を撮る人たちの姿が見えた。
みんな、どうして降りてこないんだろう。
この光景を見ないで帰るなんて。
僕は池の底に目を戻す。
なんだかもったいない気がした。
うららかな五月の昼下がり。
乗り慣れた車を降りると、そよ風が私たちを迎えた。
眼下には、新緑に彩られた山々と快晴の空。
「いい景色だね」あなたは私を見て微笑む。
「緑がよく似合ってる」
「そうかな。ありがと」私は少し照れてしまう。
あなたには青が似合ってるよ。
素直に言うのが恥ずかしくて、代わりに写真を撮る。
家に帰ったら、良い写真でしょ、って見せるんだ。
手すりにもたれて、二人揃って景色を眺める。
私が山なら、あなたは空。
そんなことを思う。
二人合わせればどんな隙間も無くなって、
この世界の全てになる。
「何してるの?」
「ううん、なんでも」
あなたは不思議そうな顔をする。
私はなんとなく嬉しくて、稜線をなぞる。
全部を分かち合えたから、
二人でひとつだと思ってた。
別れて初めてわかった。
俺たちはべつべつの生き物だってこと。
「たまには恋物語でも読んでみたらどうだ?」
珍しく飲みに誘ってきた兄はそんなふうに話を向けた。
察するに、ミステリなんて殺伐とした本よりも、
純愛ものを読んで刺激を受けろ、と言いたいわけだ。
さらに推せば、お前もそろそろ恋人くらい作れ、と。
「読まないよ。所詮、千円以下の恋愛だろ?」
「本の虫とは思えん発言だなぁ」
「恋愛ものはなかなか感情が入らないんだよね」
自分とは無縁な世界だからだろうか。
純文学の崇高な考え方は読むのに疲れるし、
かといってライトノベルはリアリティがない。
「もっとこう、のめり込める恋愛小説ならなぁ」
「のめり込める?」
「そう。胸を掻きむしられるような物語。燃えるようで、苦しくて、切なくて、恋焦がれるようなさ。なかなか無いんだよね」
兄は息をつき、それ以上は深入りしなかった。
それから数日が経った。
一人暮らしのアパートに一冊の本が届いた。
えんじ色のシックな装丁。タイトルはない。
開いてみると、つらつらと文章が続いていた。
なんとなく読み始めると、次第に目が吸い寄せられていった。恋に悩む男子高校生の純情な恋物語。一輪の花のような女の子に見惚れた所からそれは始まる。心に芽生えた感情に対する戸惑い。それを受け入れる決意。その子の一挙手一投足に心が揺れ、少しでも距離を縮めようとするも、想いはなかなか実を結ばない。会いたいと焦がれる日々。見えない恋敵。一歩踏み出そうにも届かないかもしれない恐怖。ためらい。身悶えする夜。繰り返し夢に見るあの子の姿。ああ、二人だけで話し合えたら。その手を握れたなら。どんなに幸せだろうか。
……
恋焦がれるような青春の日々が幕を閉じた。
俺は顔が火照り、切なく、心焦がれていた。
最後のページに、作者として自分の名前があった。
タイトルは、『日記 』
「…………あう……あっ……うわあああああ!!!」
俺は雄叫びをあげて胸を掻きむしった。