つぶて

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5/20/2023, 12:28:54 PM

うららかな五月の昼下がり。
乗り慣れた車を降りると、そよ風が私たちを迎えた。
眼下には、新緑に彩られた山々と快晴の空。

「いい景色だね」あなたは私を見て微笑む。
「緑がよく似合ってる」

「そうかな。ありがと」私は少し照れてしまう。
あなたには青が似合ってるよ。
素直に言うのが恥ずかしくて、代わりに写真を撮る。
家に帰ったら、良い写真でしょ、って見せるんだ。

手すりにもたれて、二人揃って景色を眺める。

私が山なら、あなたは空。
そんなことを思う。
二人合わせればどんな隙間も無くなって、
この世界の全てになる。

「何してるの?」
「ううん、なんでも」

あなたは不思議そうな顔をする。
私はなんとなく嬉しくて、稜線をなぞる。

5/19/2023, 3:18:01 PM

全部を分かち合えたから、
二人でひとつだと思ってた。

別れて初めてわかった。
俺たちはべつべつの生き物だってこと。

5/18/2023, 1:34:23 PM

「たまには恋物語でも読んでみたらどうだ?」

珍しく飲みに誘ってきた兄はそんなふうに話を向けた。
察するに、ミステリなんて殺伐とした本よりも、
純愛ものを読んで刺激を受けろ、と言いたいわけだ。
さらに推せば、お前もそろそろ恋人くらい作れ、と。

「読まないよ。所詮、千円以下の恋愛だろ?」
「本の虫とは思えん発言だなぁ」
「恋愛ものはなかなか感情が入らないんだよね」

自分とは無縁な世界だからだろうか。
純文学の崇高な考え方は読むのに疲れるし、
かといってライトノベルはリアリティがない。

「もっとこう、のめり込める恋愛小説ならなぁ」
「のめり込める?」
「そう。胸を掻きむしられるような物語。燃えるようで、苦しくて、切なくて、恋焦がれるようなさ。なかなか無いんだよね」

兄は息をつき、それ以上は深入りしなかった。


それから数日が経った。
一人暮らしのアパートに一冊の本が届いた。
えんじ色のシックな装丁。タイトルはない。
開いてみると、つらつらと文章が続いていた。

なんとなく読み始めると、次第に目が吸い寄せられていった。恋に悩む男子高校生の純情な恋物語。一輪の花のような女の子に見惚れた所からそれは始まる。心に芽生えた感情に対する戸惑い。それを受け入れる決意。その子の一挙手一投足に心が揺れ、少しでも距離を縮めようとするも、想いはなかなか実を結ばない。会いたいと焦がれる日々。見えない恋敵。一歩踏み出そうにも届かないかもしれない恐怖。ためらい。身悶えする夜。繰り返し夢に見るあの子の姿。ああ、二人だけで話し合えたら。その手を握れたなら。どんなに幸せだろうか。
……

恋焦がれるような青春の日々が幕を閉じた。
俺は顔が火照り、切なく、心焦がれていた。

最後のページに、作者として自分の名前があった。
タイトルは、『日記 』

「…………あう……あっ……うわあああああ!!!」

俺は雄叫びをあげて胸を掻きむしった。



5/17/2023, 2:03:17 PM

ぱたり。
物語の扉が閉じる音。
静けさ。
カチ、カチ、と小さな音が耳に届き始める。
いつの間にか針は進んでいる。
視線を落とす。
私の手がある。
文庫本がある。
それから私自身がある。
大きく伸びをする。
読み終えた本の表紙を眺める。
じんわりと胸を満たす感慨を噛み締める。
ゆっくりと息をつく。
枕元に本を置き、明かりを消す。
柔らかな夜の幕が降りる。
蘇る光景、声、言葉。
全部ないまぜになって、暗闇に溶けていく。
夢でまた会えたら。
そう願いながら眠りに落ちる。
真夜中。

5/16/2023, 2:21:17 PM

店先で足を止めると、ふわりと甘い匂いがした。
5月の花の香り。
心を託される花たちの香りだ。

胸いっぱいに吸い込む。
いい匂い。だけど、まだちょっぴり苦い。

微かなカーネーションの気配に、
決まって思い出すのは何年も前のことだ。

自分が馬鹿だと思うことは数え切れないけれど、
あれほど自分が馬鹿だと思ったことは少ない。
それまでの私は、
無償の愛、という言葉を信じて疑わなかった。

あんたは私の子どもだから。
いつだって母はあんたの味方さ。
母は我が子を愛するもんさ。当然だよ。

我儘で振り回していた母。
私が弱った時はいつでも寄り添ってくれた。
私はそれを不思議とも思わなかった。

ある年、ふと思い立って母の日に花を渡した。
なんだい珍しいね、と笑った母は泣いていた。
その光景に私は動けなくなって、それから……どうしたんだっけ。

親は我が子を愛するものかもしれない。
無償の愛を注げるのかもしれない。
だけどそれは当然のことじゃない。
自分より他者を大切にするなんて、ものすごいことだ。
そんな当たり前のことに気づいて、
私は己の浅はかさを一つ知った。

回想から醒めた私は、今年も店員さんに声をかける。
「これ、包んでもらえますか?」

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