なのか

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11/27/2023, 10:31:06 PM

きっかけはフランス語の講義だった。言葉を学ぶ以上話し相手は必要であり、講義の場合その役割は隣の席にいる人が担う。友人や知人同士でそれぞれがペアを作る中、余り者にいたのがノンさんだった。
フランス語では肯定を「ウィ」、否定を「ノン」という。それが名前を呼ばれている様で恥ずかしいのだとノンさんは語った。面白がってあらゆる質問に否定で返した時から、少しずつ打ち解けていった。
ある日の講義で、三十分ほどのショートフィルムを鑑賞して感想を述べ合う課題が出た。フランスのパリを舞台にしたロマンスで、それなりの面白さだった。
講義の後半で、ビズが話題になった。頬と頬を寄せあってリップ音を軽く鳴らすフランス式の挨拶で、親しい間柄で行われるらしい。文化や風習という言葉をこれほど意識したのは初めてかもしれない。
講義が終わって昼は何にしようかと考えていた折、ノンさんから図書館へ行かないかと誘われた。特に断る理由もないので了承する。その意図するところが何なのか、気になるのももちろんあった。
「借りたい本でもあるんですか?」
食堂に向かって行軍する人々の流れに逆らって、図書館へと歩いていく。木についた新緑が眩しく、風が初夏の香りを運ぶ。ノンさんの長い髪が吹かれて揺れる。
「あの、少し、気になる本があって」
それから会話はなく、ただ歩幅を合わせて黙々と歩く。
五分ほど歩き、図書館に辿り着いた。学生証を機械に読み込ませて中に入れば、館内はいつもより閑散としていた。腹が減っては勉学にも勤しめない。
検索コーナーへと向かうものだと思っていたけれど、ノンさんは地下一階にある、年代に分けられた古書の棚へと向かった。階段は金属製で、丁寧に降りても音が反響した。
ほとんどの人間が、目的がなければ古書に用はないらしい。フロアには誰もいないようで、ノンさんを追いかけてぐんぐんと奥まった場所へ行く。結局、フロアの隅っこにある棚の前で足は止まった。
「ここら辺に、気になる本があるんですか?」
棚に置かれた本を一冊手に取る。かなり古い材質の装丁が手に馴染まず、ぱらぱらと捲ると中は漢字だらけで読める箇所が一つも見当たらない。
「あの、ごめんなさい」
謝罪される事柄に心当たりがなかったので、首を傾げることにした。
「その、気になる本があるというのは、嘘、なんです」
「なるほど?」
本を棚に戻す。
「その、ビズ、してくれませんか」
一瞬、ビズという単語が処理されずに脳を通過していく。再試行したインターネットみたいに、遅れて理解がやってくる。
「したいんですか?」
小さな頷きが返ってくる。
「いいなって、思って」
「分かりました。やりましょう」
戸惑っているノンさんの肩を優しく掴んで頬を寄せる。リップ音というよりかはタンギングといった感じの音が鳴った。
「どうでした?」
「映画の、ヒロインになった気分です」
ビズされた方の頬を両手で押さえながら、ノンさんは恥ずかしそうにはにかんだ。
用件は本当にそれだけだったようで、図書館はその本分を果たすことなく終わった。せっかくだからと一緒に昼食をとることになり、お礼ですとりんごジュースを奢ってもらった。
「別に断らないんで、今度何かする時は普通に誘ってください」
食堂のおばちゃん特製のカレーを雑に頬張る。
「それなら、もう一つ、あるんですけど」
「何ですか?」
バッグをごそごそと漁り、ノンさんはスマホを取り出した。
「連絡先、交換したいです」
「そういえば、してませんでしたね」
メッセージアプリを開いて、QRコードを読み込ませる。ビズより先にやるべきでしたねという言葉は飲み込んだ。その代わりに一枚、隣で頬を撫でているノンさんを写真に収めて、『交換記念です』というメッセージと一緒に送信する。
『これからよろしくお願いします。』
律儀に読点のついた返信に、思わず笑みが溢れる。流石に今回ばかりは「ノン」とは言えなかった。

11/26/2023, 3:53:57 PM

いつも浴びているシャワーの温度が少し温いなと感じた時、微熱があることを悟った。測ってみれば案の定、三十七.一度というなんとも言えない数字が出てきた。トーストも緑茶も問題なく喉を通ったけれど、親と相談した結果、大事を取って高校は欠席することになった。
制服からスウェットに着替え、共働きの親をそれぞれ見送る。平日の家に一人でいる違和感が、足元を少し揺らした。
せっかくの機会だと思いテレビを点けてみたけれど、朝の情報番組ばかりが流れていて男子高校生には退屈な内容だった。学校を休んで観るテレビは面白いと聞いていたのに、全くもって期待外れだ。テレビは音量を絞って流しっぱなしにしたまま、結局スマホを起動させる。
動画投稿アプリを惰性で流し見ていたけれど、面白かったのは一時間ほどだった。次第に時計が気になり始め、学校に行ってれば今はこれこれの授業を受けているとか、そういうことばかりが頭をよぎる。
これではいけないと思い、昼飯を作ることにした。どうせなら手間のかかるものをと考え、メニューは餃子に決まった。
足りない具材は近くのスーパーで買い足した。いつもみている街並みが心臓に牙を立てた感覚がした。
家に戻り、手洗いうがいを済ませてキッチンに立つ。スマホで調べた手順を拙く真似しながら餃子を作っていく。分量を間違い四十個を焼き終えたところで、時刻は十三時に迫っていた。
食べる前に片してしまおうとフライパンやらを洗っていると、食卓に置いていたスマホに着信があった。
『もしもーし。生きてる?』
着信は級友の一人からだった。ビデオ通話になっていて、そいつだけではなく何人かが思い思いの面白いポーズを取っている。向こうも丁度、昼休憩に入ったようだ。
「スマホ取られるぞ」
『大丈夫、弁当箱で隠してっから』
大丈夫というなら止めはしない。サプライズ的な嬉しさを感じたのも確かだった。
食卓に餃子と白飯を、奴らは机に弁当を並べ、いただきますを合唱する。通話によるズレはご愛嬌といったところだ。あとは各々の昼ご飯を食べながら、ズル休みに違いないとか暇すぎて餃子を作り始めたとか、とてもくだらない話をした。
昼休みも終盤に差し掛かった頃、運悪く担任が教室を訪ねてきた。いかに隠しているとはいえ違和感は残る。スマホを使っているのがバレてしまった。
何事かが遠く知らないところで言い争われ、先生が『ここに俺も映ってるのか?』と画面を指さした。
「見えてますよー」
声をかけると、先生は嬉しそうに手を振った。
『ちゃんと水分取ってるかー?』
教室中に響き渡る大きな声で訊かれる。
「取ってますよ。身体は全然平気です」
先生は『そうかそうか』と鷹揚に頷いた。
『早く治して学校ちゃんと来いよ』
「明日はちゃんと行きます」
嵐のように訪れ、嵐のように先生は去っていった。去り際に『次は普通に没収するから、これが普通だと思うなよ?』と釘を刺すのも忘れなかった。
『じゃ、そろそろ昼休み終わるから切るな』
「おう、ありがと」
通話が終わってからは、時間割に合わせてその教科の勉強をした。いつもは退屈なテキストが案外面白く、スマホを触っているより胸が踊った。
翌日の朝、浴びたシャワーは肌に温かく刺さり、制服の袖に勢いよく腕を通した。心なしか、昨日着たそれよりも軽くなっていた気がした。

11/25/2023, 7:19:11 PM

受験勉強に身が入らないのはきっと暑さのせいだ。
母方の祖父母が住む田舎に帰省して三日目、早くも都会の喧騒が恋しくなってしまう。そこかしこで鳴いている蝉に疎ましさすら感じる中で集中力が持つはずもなく、意識は自然と散り散りになっていく。
蝉の鳴き声や古びた扇風機の首が軋む音、風に吹かれた草木が擦れる音の中に、微かに人の声が混じった気がした。勉強を中断する言い訳としては及第点ぐらいだろう。
スマホと財布を無造作にポケットへ突っ込み、縁側にあったサンダルをひっかける。
「あんた勉強は?」
庭で作業をしていた母に見つかってしまう。
「ちょっと休憩。散歩でもしてくるよ」
「陽がまだ高いから、帽子被ったら?」
「いや、大丈夫」
いってきますと残してから玄関をくぐった。
二、三分ほど歩くと、声の主はすぐに見つかった。畑を挟んで家の裏側にある広場で、少女が泣いていたのだ。
高いネットフェンスに囲まれた広場の真ん中、麦わら帽子のつばを両手でぎゅっと握りしめたその子は、強い陽射しの下、何に構うことなく大きな声で泣きじゃくっていた。元は真っ白であっただろうワンピースが膝辺りから汚れていていたたまれない。
気づけばその子に駆け寄っていた。
「大丈夫? どうしたの?」
少女は初め戸惑っていたけれど、やがて一生懸命に説明を始めた。嗚咽混じりの説明はあちこち飛んで要領を得なかったものの、母親とはぐれたこととビー玉を失くしたことは、なんとか理解出来た。
意外に力強く少女に手を引っ張られて、広場の隅にある草むらの方へ案内される。ビー玉探検隊にどうやら抜擢されたらしい。
草をかき分け、モンシロチョウと戯れながらしばらく探したものの、お目当てのビー玉は見つからなかった。これだけの労力があるなら帽子を被るべきだった。
「喉乾いたんじゃない?」
土をほじくり返していた少女に聞く。「かわいた!」と元気の良い返事があった。
少女の手を引いて、広場に付設した公衆トイレへと連れていく。爪の間に入った土汚れを落とし、出来る限り手を綺麗にしてから近くにある古い商店へと向かった。
「麦わら帽子、被った方がいいんじゃない?」
商店への道すがら、ふと聞いてみる。少女は麦わら帽子を首にかけていた。
「帽子きらい」
「でも、被らないと熱中症になっちゃうよ」
自分の事は棚に上げた。
「おかーさんが被らなくていいって言ってた。持ってればいいって」
間延びした『お母さん』に微笑ましくなる。母親にそう言われたのなら、注意されるいわれもない。
商店は去年と変わらず、風化して読めなくなった看板が掲げられていた。無愛想な顔をしたおじいちゃん店主に迎えられる。
田舎のコミュニティは狭い。ここも例外ではなく、故に店主ならこの子について知っていると踏んでいたけれど、空振りだったようだ。諦めて飲み物を吟味する。
「これ、ビー玉のやつ!」
少女が指さしたのはラムネだった。
「じゃあ、これにしよっか」
扉を開ける時にひんやりと気持ちいい。ラムネ瓶を二本手に取って、好きな駄菓子を選ばせてカウンターへと置く。
袋の中で涼し気な音を立てるラムネたちに気を遣いながら広場へと戻ってくる。
ゲートボールを楽しむ老人達のために作られた、打ちっぱなしのコンクリートで出来たベンチへと腰掛ける。無機質な冷たさがお尻に心地よく、日陰に入れるのも有難かった。
二人であくせくしながらラムネを開ける。栓になっていたビー玉が勢いよく落下して、代わりにラムネが溢れていく。少女には少し量があったようで、駄菓子を食んではちびちびと飲んでいた。
ベタつきの残らないよう公衆トイレの方で瓶や手を洗い、中からビー玉を救出する。それらの違いは正直分からなかったけれど、せがまれたので互いのビー玉を交換した。
疲れたのだろう、少女は程なくして眠ってしまった。太腿へと預けられた重さがくすぐったかった。
何気なく、ベンチに置かれた麦わら帽子を見ると、内側に小さく何かが書かれていた。それはハイフンで三つに区切られた十一桁の数字の羅列、つまりは電話番号だった。
「なるほど」
ポケットからスマホを取り出して、あまり使わないキーパッドを起動する。二回目で繋がった。
「もしもし、突然すみません。娘さんの麦わら帽子に書かれていた番号が、もしかしたら親御さんのものではないかと思って」
一息に説明を終えてしまう。疑念から安心に変わった女性の声と、広場にいることをやり取りする。
十分とかからず、母親は広場へやってきた。
丁重すぎるほどにお礼の言葉を述べて、母親は少女を抱きかかえた。少女を起こしてお礼をさせようとしたのは、悪い気がして止めた。
祖父母の家に帰ると案の定「遅かったね」と言われた。事情を説明するのも面倒だったので軽く受け流し、さっとシャワーを浴びる。
部屋に戻ると、開きっぱなしのテキストの頁が風に煽られ進んでいた。ビー玉を筆箱へとそっと入れる。
蝉の声は、もう疎ましくなかった。

11/24/2023, 8:02:27 PM

「静電気ばちってさせるのやりたい」
助手席に座っていた先輩が突然そう言い出した。詳しく聞けば、昼間に観ていたテレビ番組で特集が組まれていたらしい。
「一人でやってくださいよ」
闇に浮かぶ信号を注視しながらハンドルを切る。特に目的地のないドライブだから、どの道を通るかでいちいち悩んでしまう。深夜一時を回っているので車通りが少ないのが、唯一ありがたいことだ。
「えー、やろうよ」
「やりません。意外と痛いんですよあれ」
忌々しいことに、十一月も半ばを過ぎて本格的な冬が到来しつつある。静電気とは長い付き合いだけれど、一向に仲良くなれる日は来ない。
隣から聞きなれない音がし始めたのでちらと見やると、先輩はセーターの裾を掌まで引っ張りあげて、懸命に左右の手を擦っていた。摩擦によって帯電させようとしているのだろう。
「セーター伸びますよ」
「それは困る」
すぐさま手を止めて、先輩はセーターに謝罪をした。そんな謝罪ではセーターも納得しないだろうという実にラフなものだったけれど、それは当人同士の問題なので黙っておく。
「新しいやつですか」
黄色は止まれだ。段階に分けてブレーキを踏んでいく。車が停止するまで返事がないので不安になり隣を見てみると、先輩もこちらをまじまじと見ていた。
「何の話?」
「セーターの話です。去年は見たことないやつだなと思って」
風船から空気が抜けた時のような返事があった。
「これね。実は君のセーター」
先輩は何故か助手席の窓に向かって話しだした。
「先輩が着てるじゃないですか」
「正確には、君のクリスマスプレゼントになる予定だったやつ」
先輩の着ているセーターを改めて見る。
「そのふわふわモコモコがですか?」
「文句あるのか」
「特には」
先輩が前方を指さした。見ると信号が変わっている。少し慌てがちにアクセルを踏み込み、車はのっそりと走り出した。
「ほら、あるでしょ。写真で見るとめちゃくちゃ美味しそうなのに、いざ手元に運ばれてくるといまいちなパフェとか」
実体験のありそうな例え話だ。
「作ってみたはいいものの、イメージより小さいのが出来ちゃったって感じ」
感じも何も、そのまま全て言った気がする。
言われてみれば、男性向けファッションにありそうなモノトーンの配色をしている。
「似合ってますよ」
「取ってつけたように褒めるな。褒めるならちゃんとやって」
「ふわふわモコモコが、普段サバサバした感じとのギャップ萌えでとても良いです」
肘掛けに乗せていた左腕に、先輩が自分の腕を擦り始めた。
「悔しいから静電気を貯めてやる」
「やめてください」
「観念しやがれ」
言いながら、先輩が手を強く握ってくる。静電気はおろか、特に何も起きなかった。
「手、暖かいね」
「ひんやりしてて鳥肌立ちました」
「よし、そこのコンビニに入れ。でこぴんしてやる」
特に逆らう意味も無かったので素直に従う。広いスペースがあると駐車が楽だ。ヘッドライトを消して、エンジンを切る。
「何か買いますか?」
「暖かい飲み物」
先輩がドアを閉めたのを確認して、運転席の扉を閉めようとした時、中指に一筋の痛みが走った。
「いてっ」
反射的に声が出てしまう。別に痛みがなくなるわけじゃないのに、意味もなく手を振った。
「天罰が当たった」
「別に悪いことしてないんですけど?」
先輩が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「仕方ないからでこぴんは許そう。代わりにココア奢って」
「『許す』って、難しいですね」
「簡単だよ。たったの二百円だし」
車の鍵を閉めてから、どちらともなく手を繋ぐ。残念ながら、静電気は流れなかった。