ぎらぎらと輝くネオン、街灯。もうじき夜も更けると云うのに、天高く伸びたビルの四角い窓は、未だ幾つか光を灯していて。狭い道路を縫う様に走る車輌だとか、路地を駆ける自転車だとかのヘッドライトが、ちかちかと瞬く。宙を見上げれば、其処には昨日切った足の爪みたいに細い月と、点滅しながら移動する航空機の光が見えるばかりだ。
眠らない街、とは良く言ったものである。部屋着でベランダに座り込み、煙草をふかしているわたしも、そんな街の一部だった。明日も仕事で朝早くに起きなければならないと云うのに、如何にも眠れる気がしなくて、こうしてぼんやりと景色を眺めている。
そういえば、こんな風に街を見るなんて初めてかもしれない。何時もは日付が変わる随分前に布団に包まっているし、休日もあまり外に出ない上に、丑三つ時迄呑み歩く様な友人も恋人も居ないから。起きて、働いて、寝て、偶に買い物やネットサーフィンや読書をする。唯其れだけの毎日の中、此の光景は少しだけ新鮮だった。子供の頃住んでいた片田舎に比べると、星なんか一つも見えやしないし、聴こえるのは虫や蛙の合唱ではなくて老若男女の騒ぐ声ばかりだけれど。明日になれば、今見た物も忘れて忙殺されているかもしれないけれど。
「もう少し、生きてみても良いかなァ」
短くなった煙草を灰皿に擦り付けて、のそりと立ち上がる。風呂上がりで濡れた儘だった髪は、すっかり乾いてしまっていた。風邪をひいてしまうかもな。そんな事を考えながら、部屋に入って、窓の鍵を掛け、カーテンを閉めた。次に此れを開ける時、外は眩しいばかりになっているだろう。明日もまた、何時も通りの朝が来る。
「こんな紙切れ一枚で願いが叶うなんて、そんな都合の良い事がある訳無いよなあ」
薄水色の短冊を指先で摘み、ひらひらと揺らしながら隣の男は言った。彼は己の友人であるが、些か……否、かなりリアリストな所がある。歯に衣着せず夢も欠片も無い発言ばかりするので、己以外に友人と呼べる者は居ないし、勿論恋仲と云った者も居ない。何故此奴と友人などやれているのかと良く聞かれるが、己自身も他人に大して興味を持てない人間なので、と言える訳も無く。其の度にはは、と適当な笑いをもって誤魔化していた。
「まァ……短冊を書く様な人間は、其れが叶うと思って書くんじゃあ無いと思うがね」
「なら、なんだ。神様に願掛けする様なもんか?」
「と云うより、言霊が如きものかなァ」
「言霊ってえと、あれかい。口に出したもんが現実になるとか、そういう」
「そんなもんさね。唯、書いたからと云って其の儘叶う訳じゃあ無い。書く事で自分の中の願いを形にすると云うか……其れ迄漠然としていた目標への道筋をはっきりさせると云うか」
「詰まる所、此れに書いたから叶える為に頑張ろうだとか思うって事かい?」
「そうそう。流石に願いが降って湧いた様に叶うとは、誰も端から思ってはいないさ」
ふうん、と、納得したのか興味が無くなったのか、気の抜けた反応をしてから、彼は短冊を机の上に戻した。淡い黄色、桃色、若草色。様々な色の其れ等は、町の子供達が七夕祭で笹に飾る為に用意された物で。己達は祭にさしたる興味も無いが、手伝いに駆り出されていた。短冊に只管穴を開け、吊り下げる為の紐を通す、内職が如き作業を今の今迄していて、飽いた時分に始まった会話が先程のものである。
「そんなら、俺はこう書くかね。御前より早く死にませんように」
腕を組んでじいと短冊を見詰めていた彼が、徐に口を開いてそう言った。己は多分、妖怪でも見た様な顔をしただろう。此の男の口からそんな言葉が出て来るとは思わなかったから。予想より遥かに、己は此奴に好かれていたらしい。
「なに、己は弱っちいから……屹度御前の方が長生きだろうさ」
「ははは、其れもそうか! まァ精々呑み過ぎで死なん様に気を付けるとしよう」
からからと笑って、彼はまた短冊に穴を開け始める。己なら、何と書くだろうか。穴を開けて寄越された其れに紐を通しながら、ぼんやりと考えた。
友達の思い出、と聞いて頭に浮かぶのは、唯一結婚した友人の事だろうか。
俺の周りは所謂オタクばかりで、異性の気が見て取れる様な奴は全くと言って居なかった。勿論皆見目は悪くは無いし、人間としても面白く、良い奴ばかりなのだが。つまり恋愛よりは推しが大切なのだ。此れには世の中のオタクの半分が頷いてくれると思う。
因みに俺はそこそこ恋愛をこなしてきた訳だが、そもそも同性愛者であるので、大っぴらに話をする事も無く、勿論結婚やら何やらも出来ないので論外としておこう。
前述した友人は、仲の良いグループの中でも服装等のセンスが良く、さっぱりとした性格の女性である。高校からの付き合いで、社会人になってからは暫く連絡は取っていなかったが、SNSで様子は見ていたので疎遠になった感じは無かった。ただ、SNSでは推しへの萌えを語る彼女しか見た事が無かったので、結婚式の招待が届いた時には酷く驚いたものだ。何せ、全く匂わなかったのである。相手の男性の存在が。まあ元来謎の多い女性ではあったし、彼女が決めた相手ならば悪い者では無いだろうという、良く分からない確信もあった。
然し結婚式など、四半世紀と数年生きてきて初めての経験であるし、更には大事な友人である。謎に張り切ってしまった俺は、8万のオーダーメイドスーツを買った。因みに俺はXジェンダーである。実際ドレスばかりの会場では些か浮いていたが、男性と形式は同じなので失礼では無かった様に思う。
式で見た彼女は、純白のドレスに身を包み、見知らぬ男性の横で少し緊張した面持ちで挨拶等をこなしていた。他人なのだから当たり前だが、皆自分の預かり知らぬ所で、新しい関係性を構築していく。それに少し寂しい様な気持ちになりながら、新しい門出を心から祝福した。尚、見慣れない服装ではあったものの笑った顔は何時もの彼女であったし、式の曲に昔から大好きなアーティスト(あまり結婚式向きでは無い)を選んでいて、変わらないものもあると安心したりもした。仲良しグループの高校時代の写真が出てきた時は、何処から持って来たんだ!?と少しダメージを受けたが。十何年も前の写真など、恥ずかしさしか無い。あの頃より垢抜けていると良いのだけれど。
因みに、その仲良しグループのうち、俺と彼女以外の二人が喧嘩別れしているのだが、其れはまた別の話。
窓を抜けて照りつける日差しを遮る為に、分厚い遮光カーテンを引く。途端に部屋は薄暗くなるが、俺には此れが一番居心地が良い。外は如何にも暑そうで、引き篭る事に慣れてしまった身体には毒の様なのだろう。
のそりのそりと布団に包まると、欠伸が一つ。漸く眠気が来たらしい。昨晩は、病院から処方された半錠の睡眠導入剤を飲み下しても全く眠れず、暫く布団の中で携帯端末を弄っていたが、そのうち諦めて適当にパンなど食べながら本を読んだ。薄い文庫本だったので2時間か其処らで読み終わってしまい、その後は少しばかりゲームをして、飽きて、今度は座椅子の上で携帯端末を眺めた。特に何が見たいと云う訳でも無く、只々呟きを親指の腹で流し続け、そうして気が付いたら昼前になっていた。
俺には仕事が無い。と云うより、自ら辞めてしまったのだ。特段ブラックだとか、人間関係のいざこざがあった訳では無い。安月給ではあったしグレーな部分はあったが、それなりに良い職場だった様に思う。では何故か?簡単に言えば、疲れてしまったのである。
俺は、四半世紀と数年ばかり生きてきたが、人とは少しばかり違うらしい。幾分か疲れやすく、ストレスに弱く、暑さ寒さや湿気にも弱い。病気では無いが、如何にも所謂「普通」の人間と云う奴の生活が、些か難しい様で。それなりに仕事も出来、怒られる事は滅多に無く、忘れ物や遅刻も殆ど無い。けれど、如何してか生き辛いのだ。いっそ何か大きな病気だったり、障害があれば……と思うが、当人からすれば楽では無いだろうから、そんな考えに至る自分に嫌気がさす。
死にたいなどと思った事は無い。然し、毎日寝付きが悪くて、眠れなくて困る。鬱では無いし、パニックも無い。けれども何故か、夜になると身体の中がぐるぐると渦巻いて、冷たくなる様な感じがしたりしていけない。「普通」とは何だろう。自分を守る為に仕事を辞め、無為に時間を過ごす俺は、逃げたのだろうか?甘えているのだろうか?それとも?
嗚呼、瞼が重い。また厭な考えが脳味噌を掻き回す前に、寝てしまおう。此の眠気に身を任せて、沈みきってしまおう。
コップの水を一口飲んで、俺は目を閉じる。カーテンの隙間から差す日も、直ぐに気にならなくなった。