涙の跡/太陽の女神
あらゆることが適当な捏造のSF
白と茶の地平線が広がっている。
まだらに混ざり合う地表はラテアートのようにマーブルを描いている。晴天の空とのコントラストで、パッキリと天地の境がとおくに伸びてゆくのは壮観であった。しかし美しいのは景観だけで、すっと鼻で息をすると、香ばしいコーヒー豆の芳しい香りというよりも、生き物を捌いて内臓を放置した時のゴミ箱のような臭いがした。
ふっと私は息を吐く。こんなにおいはどこに行ってもまとわりつくものだ。しかし場所によってほんの少し変わるので、今いる場所は初めて訪れた青海原の跡だと分かった。
靴底がざり、と氷を噛み砕いたような音を鳴らす。蜃気楼に揺らめく地平線は、まるでかつてここが空を反射して波打つ大海だったことを思い起こさせるようだった。
美しいと思う。憎たらしいほどに。しかしこの美しさに、私は───私たちは、生き残った人びとは、たくさん苦しめられてきた。肌を焦がす太陽の熱射、目をくらませる真白い光、尊崇と憎悪を一心に集める引力を持つ猛炎は、青い地に生きるすべての生物にはあまりに苛烈な、すべてを照らす恒星だった。
「あつい!」
私は思わず叫んだ。
すると今さっき私が渋々出た涼しい車の中で、彼女が「そりゃそうだ」と笑った。バカにしたように目を細めている。しかしそれがただ単純に可笑しいなあと思っているときの表情だと、私はすでに理解していた。
「外気温56度。UV指数8。そのまま突っ立ってたらお前生きたまま干物になるよん」
「ヤダッ」
「だったらさっさと試料と資源取ってこい」
私は泣く泣くかつての海の跡地へ踏み入り、リュックからサンプルチューブと分厚いプラスチック製のパックをいくつか掘り出す。そのまま数メートルごとに塩と土を採取し、私は汗だくになりながらヒイヒイ車に駆け戻った。
ばん、と思った以上にドアが閉まる音が車内に響く。薄暗い車内は外よりも幾分か涼しい風がエアコンから噴き出ており、私は息を整える余裕もなく、置いておいた水筒の生ぬるい水を一気に飲み干した。溢れた水が口の端からこぼれて、首をつたい汚れたタンクトップに染み込む。
運転席でハンドルにもたれかかったまま、そんな私を眺めていた彼女は「あはは」と笑う。そうして私の口元に手を伸ばし、溢れた水を指で拭った。
「青い地球って、一体いつまでのことを指してたんだろうね」
「...さあ。でも今の感じからすると、とっても昔のことのように思いますけどね」
「そうだね。私、その頃に産まれたかったな。豊かで綺麗で、不安も絶望も、なんの苦しみもない昔の時代に産まれたかった」
するりと彼女が私の頬を撫でた。冷たいようで熱い指先が肌をなぞり、私の二の腕にじんと鳥肌が立った。
「...きっと素敵ですね」
私はカラカラの喉を震わせ言った。彼女はニコッと眩く笑い、「ね」と歯をみせる。
昔の人のせいで、私たちはこんなにも生きづらい星に生まれてきてしまった。水も食料も何もかもを奪い合い、残された旧世代の遺産に縋りつく。私たちのように遠くへ出て物をさがす人をトレジャーハンターと呼ばう人びとがいるけど、どちらかといえばハイエナに近い気分でいる。生きるか死ぬかばかりの生存本能が己を突き動かし、そのためならどんな行為だって厭わない。
どうしてこんな時代に産まれたんだろう。私はずっとそう思いながら生きてきた。どれだけこの世を恨んだかわからない。
でも。
私は目の前で夢を語る彼女を見つめる。
陰る車内に、白む陽光がナイフのように差し込んでいる。それは滑らかな肌に濃く陰影を落とし、まるでいつか見た彫刻のようになにもかもが“完璧”だった。
「......いまも私、結構満足ですけどね」
私の唇から、ぽろりと本音がこぼれ落ちる。
すると彼女はきょとんと目を瞬かせた。こんな世界を望む者はそうそういないからだろう。
「マジで?変わってるねえ」と彼女は眉を下げた。私の喉は一瞬痙攣し、眉根にキュッと力が入った。からりとした答えは悲しくなるほど私の気持ちを焼き尽くした。
「住めば都ってヤツですよ」
言うと、彼女は「タフだねお前は!」とケラケラ笑った。「お前のそういうところ、大好き!」と。私も彼女に合わせて笑いながら、ワシワシと頭を撫でるあたたかな手に泣きそうになった。
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トライガンと塩の街とうすくduneが混ざってるかもみたいな意識がありながら書いた話。近未来SF。文明崩壊した地球が好きなので
私は半袖が着れない。
昔からアトピー性皮膚炎に悩まされているせいである。
関節の皮膚がぼろぼろだから、夏でもシアーシャツの長袖や七分袖のインナーで見えないように誤魔化してきた。「成人したら治るよ」なんて医者は言ったが、ほんの少しマシになっただけで完治はしていない。腕の内側、太ももの裏、首、肩、皮膚が薄くよく伸縮するようなところが痒くなる。アトピー性皮膚炎の中でもまだ軽いほうだと言われたが、長く悩まされてきた私にとっては父の遺伝を恨むくらいには憎たらしい病だった。ひどいときは眠っていても無意識に肌をかいていて、それで目が覚めてしまうこともあった。
ステロイドや掻きすぎで皮膚が薄くなり、シワができてしまっている部分もある。小さい頃は家族から我慢しろと言われたが、殆どの親族はアトピーを持っていなかった。別に掻きたくて掻いているわけじゃない。本当にどうしようもないのだ。頭がおかしくなるほど強烈な痒みなんて、同じ疾患を持つ者にしかこの苦しみは分からないだろう。
治したいという気持ちはずっとある。まっさらな肌に憧れて、掻かないように我慢した日々はたくさんある。医者に行き薬をもらって治そうとしてきた。でも気を抜くと爪を立てて掻きむしっている。
関節部分以外はまったく傷はないが、痒い場所が場所なので短いパンツやインナーは着ることができない。今はだいぶ傷も無くなっているけど、あまりにも汚い肌を露出するのは抵抗があった。どれだけ我慢しても治りそうでも、気を抜くと汗や乾燥でかゆくなってしまう。どうして自分は我慢ができないのかと惨めな気持ちになるほどだ。
だから夏でも肌が隠れるような服をいつも着ている。タンクトップや袖の短いTシャツ、足の出るようなパンツ、そういった露出の高い服を着て堂々と歩く人とすれ違うたび、羨ましいなあと思う。はやく冬が来てくれたらいいなあ、とも。
夏は私にとってまさしく地獄である。
過去に行けるなら両親の結婚を邪魔したい。
どうせ離婚するのは確定しているので、だったらお互い別の人と付き合って結婚して私以外の子供を育ててほしい。正直なんで結婚したんだよ...と思うことは多々あったし、私から見てもソリ合わな過ぎだろって呆れるような二人だったから、多分別の合う人とくっついたらそれぞれ幸せになれたんじゃない?きっと。
何年も毎晩喧嘩して怒鳴って暴言吐いて、やっと離婚となったら今度は調停で一年以上くって、この人たち大変だな〜って見てた。両親の喧嘩に口挟むと矛先がこっち向いたり面倒くさいことになるからbgmだと思うようにしてたけどマジでうるさかったな。引越した日の夜がすごく静かだったのいまだに覚えてる。ずっと悩まされてた耳の痛みとか耳鳴りも治った。いいことづくしだったし、きょうだいや親と会話してるとげらげら笑うことが増えて、気楽に生活できるようになったんだなって思う。
私は両親が仲良くしている記憶あんまりないし、下の子はマジで記憶ないんじゃないかな。けど子供には優しかったから時々小さい頃の記憶思い出して嫌いになりきれなかった。でも最後に話したとき私は親の顔をちゃんとしっかり見ていたのにあっちは全然目合わせてくれなかったし、年金とか保険とかそういう話しかしなかった気がする。まあ元気でねとか言うのもなんか違うなって思ってたからあっちもそうだったのかもしれない。ただ目を見て話せよおいとはなった。
スーパーとか行くと夫婦で買い物に来てる人がいて毎回すごいなって驚く。若い夫婦もだけど、よく見かけるのは歳をとった夫婦かもしれない。うちの両親が揃ってスーパー行くとか本当に見たこと無かったから、なんかみつけると毎度すっごい素敵だな〜って感動する。いいな〜って思うけど、自分は両親を見て育ったせいか結婚なんてしたくないし子どもも欲しくないから、憧れというより少女漫画とかラブストーリー観てるときの素敵✨いいな✨に近いかも。保育園児の頃の将来の夢はお嫁さんだったのにね...それは叶わないよって昔の私に教えてあげなきゃ...🏃♀️➡️
過去の両親にも「貴方たちの結婚生活は破綻するので別の人と付き合ったほうがもしかしたらワンチャンあるかもね」って教えてあげたいね。22世紀からタイムマシンがやってきて二人の過去に連れてってくれないかな〜。
「また会おうね」とか「また明日」とか「バイバイ」とか、次を約束する挨拶をなんのためらいもなく口に出せていたのは、多分中学生くらいまでだった気がする。純粋だったというより、何も考えていない思慮の浅い子供だったからだろう。
歳をとり、大人に近づくにつれ、相手との「次」を繋ぐのは難しいことだと知った。
「また遊ぼうね」という言葉に「そうだね」と返しながら、これは優しさゆえの世辞なのか、それとも私と同じように本当にそう思ってくれているのか、いつも考えてしまう。お互い楽しかったね、と笑いあっているのに、その笑顔が本物なのか疑ってしまうのが常だった。ただの雑談でも、私は返答や表情やリアクションの“正解”を考える。ここは笑うのが正解、この時はきっと聞いてほしいだけだからそれに徹して相槌を打つ、愚痴にはアドバイスではなく共感を表す───とにかく相手に合わせて、その人にとって正しいコマンドを選択しなければならない。自己を出すと碌でもないことになるというのが、僅かな経験で得た教訓だった。しかしそういう人付き合いの仕方が私の悪い癖で、他人と関係を上手く築くことができない原因だという自覚はある。
他人と衝突するのがとにかく苦手だった。些細な“間違い”は不審に変わり、猜疑の芽になり、やがて人間関係に根をはって軋轢を生む。その様子を見ていることもあったし、種になったこともある。そのたび私は無神経な人間になろうと自分に麻痺をかけたり、被害者面して傷付きその痛みを他人のせいにしてきた。嫌な人間だな...と書いていてうんざりする。
傷付くのはとにかくつらい。メンタルに負った傷が完全に治ったためしがないからだ。だから痛みを忘れるか、痛み続けることを諦める他ない。
しかし私はそれも出来ず、いまだにこうして「人間関係が上手くいかない。頑張ってきたのに。傷付いてつらいんです」とここで吐露して楽になろうとしている。でも別に慰めてほしいわけじゃない。と強がっているが、きっとここで「すっごいつらいから誰か慰めてー!!誰か助けてー!!」と叫べる人間の方がおそらく強い人間だと思う。少なくとも私はそう考えるし、羨ましいと嫉妬するし、そうなりたいと憧れる。
自分の気持ちを叫べる勇気と、誰か応えてくれるという他者への信頼と、ほんの僅かな無神経さは、人と関係を築くうえで大切だと思う。私はどれも持っていないから、相手との距離が縮まらない。というかそもそも私がコミュニケーションに対して卑屈なので、相手も近づこうとは思わないだろう。こういうことをウダウダ考えてしまうので、私はいつも寝る前に布団のなかで一人反省会をし、後悔でもんどりうつ羽目になる。
みんなどうして自然に和に溶け込めるんだろう...人との関わり方が上手いんだろう...どこを見渡してもコミュ障なのは私だけな気がしたし、誰もが出来ることを私だけいまだに出来ていないようで、どうして普通になれないのかとみじめな気持ちになったりもした。
でもsnsを見ていると、私が悩んでいるようなことをみんな考えているようで、「えっ」と意外に思った。まさに私が思っていることがそのまま文字に起こされている気がして、自分が書いたのかと驚くほどだった。
まったくの他人のさまざまな考えを覗けるsnsのよい点は、自分だけじゃないのだと周囲を見る余裕をくれたところだ。例えば、いま目の前にいる人は、もしかしたら私と同じように人付き合いが苦手で、それでも頑張って話しかけてくれたのかもしれない。そう考えると、私の態度はかなり失礼だし、相手に同じ思いをさせてしまうだろう。
他人に一歩踏み込むのは結構な勇気がいる。私にとってはそうだった。それで空回って上手くいかなかった経験があるので、もうあんな恥ずかしい思いはしたくないと足がすくんでしまうのだ。
上っ面の関係ならいくらでも自分を取り繕える。一定距離を置いて、仲のいいフリをするのだってそれなりにできている、と思う。社会は案外そんな距離感でまわっているように見えるし、私は職場でよく話す人がいるけど、その人のことをよく知っているか・仲がいいかと聞かれたら「まあ...」と曖昧に答えるだろう。
どれだけ仲が良くて仕事の愚痴を言い合っても、私たちは“職場のそれなりに気があう人”でしかない。仕事という繋がりがなくなれば、きっとあっさり縁が切れる。退職や異動の後、偶然会う機会があれば「久しぶり!元気だった?」とお互いの近況を話すが、わざわざメッセージを送って気にかけるほどではない間柄と例えたらいいだろうか。寂しい関係だとは思わない。私も相手もそうするだろうと想像できるからだ。
きっと少ししたら、いなくなった人の位置に別の人が収まって、仕事の愚痴を言い、持ち寄った噂話でこそこそ盛り上がり、そういうくだらない同じような会話を繰り返しているかもしれない。
退職した人のことなんて一ヶ月もしたら忘れるとはよく言うが、結局どれだけ惜しまれようがその人の代わりはいる。それは社会のいいところだと思うし、悲しいところだとも思う。
私は代えのきかない存在になりたいわけではない。むしろ今の社会のあり方は気楽でいい。学校の方がよほど苦しかった自分にとって、社会人の皮を被っていれば薄っぺらいままでいられる場所は楽だった。
でも私は、家族ではない誰かに本音を打ち明けたり、傷付いたり衝突することを恐れず話しができるような関係を築けるようになりたい。働き始めてから、何故か思うようになった。必要ない、今のほうがいいとすら思っているのに、不思議なことである。
まあ単純な話、友達が欲しいのだ。長々吐き出したが結局この一文で全て事足りる。というのを、ここまで書いてようやく理解した。
たぶん、何も考えていないハナタレの子供だった時のように、人と関わることに恐れがなかったバカに戻りたいのだと思う。イヤなこともあったが、やっぱり楽しかった思い出もたくさんある。そのほとんどは友達とどうでもいいことで笑いあったり、だらだら喋ったり、遊んだりした記憶だ。
散々遊んだあと、「じゃあね」「明日ねー」「また遊ぼ」と手を振って別れた帰り道は幾度もある。そのときの私は言葉の裏なんて考えもしていなかった。必要が無かったというのもあるが、みんなのことをただただ純粋に“友達”だと思えていたからだ。
どれだけ歳を重ねても、なんのためらいも不安もなく、いつかのあの頃のように「またね!」と言える相手が出来たら......なんて思いはしない。けれども、すくんで動かなくなった足を一歩踏み出す度胸と、人を信じる強さは、今さらだとしても、自分の力で手に入れたいものである。
久々にこんな長く書いた。自分の気持ちを書き出すって難し〜🤯苦手だったから今までしてこなかったけど履歴書埋めてるときみたいな自分を掘っていけばいくほどメンタルベコベコに凹んだあの頃を思い出して悲しくなった。
テーマ見返したらちょっとズレてる?
テーマ またいつか
2025.7.23