君が紡ぐ歌
ボーカル彼女
と
ギターわたし
車のクラクション、エンジン音、足音、話し声、電光掲示板から流れるチャチな音楽、すべてがごた混ぜになって鼓膜をじんじんと震わせる。
思わず顔を顰めたわたしに、彼女はぷっと小さく噴き出した。うふふ、なんて少女漫画のヒロインみたいに可憐な笑い声は、漣立つ雑踏のなかでずいぶんとハッキリ聞こえて、そして妙に浮いていた。
「だからやめたらって、私、言ったのに」
「うるさい」
「まあ。うるさいなんて、ひどいわね」
ふわふわした栗毛の髪が、歩くたびに陽光を弾きながら彼女の背中で揺れている。金魚の尾鰭みたいなチュールスカートも相俟って、水中を泳いでいるようにすら見えた。
ぱっ、ぱっ、と、視界の端で青緑色の信号機が点滅するのが見えた。わたしたちは慌てて横断歩道を小走りで渡りきる。けれども焦っていたのはわたしたちくらいなもので、周囲の流れは青信号を渡っていたときとなんにも変わらない。赤信号、みんなで渡れば怖くない。古くさい冗句を思い出し、わたしはため息を吐く。僅かに乱れた呼吸が整ったので、肩にかけた荷物を担ぎなおす。
「どこにする?」
わたしが聞くと、彼女はうーんとあたりを見渡した。
今日は休日で、歩行者はそれなりに多い。みんなスマホに目を落としていたり、並んだショップを眺めていたり、ぼんやりと歩いていたりと、さまざまだ。誰もわたしたちを見てはいない。それにほっとして、わたしは同時に不安になった。
「ここでいいんじゃない?」
彼女はわたしたちの立っている場所からほんの数メールほど離れた地点を指差す。「いやあのさ、」私の頬がひくりと引き攣った。ただの歩道じゃん。
「マジで?」
いちおう遠回しに聞いて(異議申し立てとも言えるかもしれない)みると、彼女は「そうよ」と頷いた。てっきりここから近い公園とか、そういう、なんていうか、人がたくさん居過ぎないような、適度な人口密度の広場でやるって話をしていたはずだ。雰囲気が良さそうな場所がいいよね、とゆるく決めていたせいかもしれない。あるいは、自由気ままで猫のような彼女の性格を勘定に入れていなかったわたしの落ち度か。
「ここでなくてもいいんじゃないの」
「そうかしら。たくさんの人に聞いてもらえるわ」
「...かもだけどさあ。まずあっちの公園でやってみようって話したじゃん」
「そうだった?」
「そうだったよ」
「でも、ここの方がいいと思うの」
「ええー...」
「イヤ?」
「イヤっていうか...人多いし」
「多くなきゃ意味ないじゃない」
「そうだけどさーあ...」
心の準備ってものがある。
公園にいるのは親子連れとか、ランニングとかしに来てる人とか、ピクニックしてる人とか、“公園に来る層”というのがある程度読める。個人的な感覚としては、心にゆとりのある人間が多い。
でもこの路上を歩く人たちは分からない。だってここはただの道だ。目的地までの通過地点。いろんな人がいて、この先の分岐路でみんなそれぞれの目的地へ歩いていく。
そういう人間の足を止めさせるなんて、わたしには難易度が高すぎる。
「だいじょうぶ」
彼女が私の手に触れる。ギターケースのストラップを握りしめていたわたしの手に。
細く白い指先が、皮膚が厚くカサついたわたしの手をきゅっと握る。それは最早握るというより、リボンが巻き付いたくらいの柔らかな感覚だった。
「……」
「笑われたって、二人だわ」
だからだいじょうぶ。
彼女は親指のひらで、わたしの手の甲をなぞる。
なんにもだいじょうぶじゃないのよ、と、言えたらよかったのに、わたしは俯いたまま唇を引き結ぶことしかできなかった。
わたし“だけ”が笑われるのはいい。下手くそだと晒し上げられたってべつにいい。でも、彼女が嘲笑の対象になるのは心底いやだった。
「笑わせるもんか」
彼女のまるい瞳が、ぱち、と瞬いた。
わたしは背負っていたケースからギターを取り出す。使い古したアコースティックギターは父親から譲り受けたものだ。小さいころはオッサンくさいと思っていたけど、いまはその渋さが気に入っている。エレキギターの肌が痺れるような音色も好きだけど、身体の芯をじんとさせる優しい弦の音も、わたしは好きだ。なにより、彼女の声とよくマッチする。
おもむろに支度を始めたわたしに、彼女はワタワタと持っていた荷物をまさぐる。だいじなマイクに、ネットで配信するためのスマホ、スタンド、ほか色々。わたしはチューニングをしながらその様子を眺めていた。アコギの音に気づいた歩行者がチラチラとわたしに目を向けて、そうしてそのまま通り過ぎていく。
軽く弾いた一音一音が、真っ直ぐに空へと響いていくようだった。
室内では到底感じることのなかった音の広がり方に、わたしは尻込みしそうになった。外で楽器を弾く機会なんてそうない。聞こえ方も全然ちがう。練習しておけばよかったと後悔しながら、でもこの時、わたしはたしかに高揚していた。
ど、ど、と肋骨の内側で重く跳ねる心臓の拍動が、わたしの指先を震わせる。ピックをつまむ指に力を入れ直し、わたしは大きく息を吸って、吐き出した。
どでかい深呼吸に、準備が終わったらしい彼女がこちらを振り返る。
パチンと目があって、あ、とわたしは思った。
その瞬間、不思議なことに、わたしには彼女だけしか見えなくなった。彼女の息遣いだけがわたしの耳朶を震わせることができたし、一挙手一投足をわたしの目がとらえていた。そんな確信めいた錯覚を抱かせるなにかが、わたしたちの間にピンと糸を張った。
マイクを握る彼女の唇が、ほんの僅かにゆるむ。
緊張なんてきっとこの子は知らない。尻込みどころか、わたしの感じている緊張すら無意識のうちに”楽しみ“へと変換して、いまかいまかと歌うのを待っているのだろう。
いいなあ、と、わたしは思った。
こんな純粋に、好きなことを好きなように楽しむ気持ちを無くさずいられる彼女が羨ましかった。しかし同時に、楽しそうな彼女がずっとこのまま楽しくいられる場所を守ってやりたいとも、わたしは思うのだ。
わたしはピックを握りなおす。きゅり、と先が弦を擦った。
彼女が顎を引いて、ほんのわずかに首を傾げる。
わたしはふっと肩から力を抜き、目線だけを返した。
凡人のわたしにできることなんてたかが知れている。せめて彼女の歌声を邪魔しないように努めるのみだ。
彼女のうすい唇がひらく。
すう、と無音の呼吸音が耳朶を震わせると同時、わたしの指が弦を弾いた。
懺悔
ギター弾いたことない人間のエアプ描写
10/19/2025, 6:22:09 PM