"楽園"
「ふーふーふーふーふー♪……よし」
五線譜に最後のメロディの音符を置いて、シャーペンを机に置く。
──試しに吹くか。
立ち上がって戸棚からフルートを入れたケースを取り出し、卓上に置いてケースを開ける。
【OvertuRe】はまだ練習中だが、息抜きに新たな曲をアレンジして、今一通り終わった所。
この曲は、あいつらと出会った位の時期にやっていたアニメのOP曲らしい。
前にオススメされて、聴いてみたらイントロが格好よくて、調べてみたら凄く良い歌詞で、いつの間にかお気に入りになっていた曲。
アニメのOP曲と知ったのはその後で、そのアニメがスポーツ漫画が原作のアニメなのと放映時期を知ったのはその更に後。
本当にスポーツアニメのOP曲かと、サビ後の歌詞に疑問符が浮かんだが。
ケースからフルートを出し、組み立てて軽く音を出す。
問題なく伸びやかな音が響いたのでしっかり構えて、早速曲を奏でる。
最初の音はもう少し小さくても大丈夫だ。
サビでの疾走感が大切なので息継ぎが大変だと思っていたが、これくらいなら配分を工夫すれば可能なレベルなので調整する必要は無い。
他の所も充分息継ぎの間を確保できているし、音程も問題ない。
曲を二、三回ほど吹いてリッププレートから口を離し、フルートを分解する。
ケースの中からクロスを取り出すと、分解したフルートを一つひとつ丁寧に拭いていく。
拭き終わると、顔前に上げてフルート全体を見る。その度に銀色の綺麗な光沢が白い蛍光灯の光を滑らかに反射し、自分の顔が映る。
フルートとクロスを仕舞い終えると、ケースを閉じて楽譜ノートと共に戸棚に戻す。
「さてと……」
鍵付きの引き出しから日記帳を卓上に出し、パラパラとページをめくる。
ふいに太腿に重量を感じ、「ん」と声を漏らす。
視線を落とすと、ハナが膝の上に乗って身体を丸めていた。
膝の上はすっかりハナの定位置になった。
ハナの頭を撫でると、気持ちよさそうに喉を鳴らした。
微笑ましさに小さく笑うと、シャーペンを持って日記を書き記し始めた。
"風に乗って"
今朝は風が少し強かった。
花壇や道端に咲く花は揺れて、桜の花弁は舞い散る散歩道。
風が吹く度に、花の良い香りが鼻腔をくすぐる。
もう大丈夫だとエリザベスカラーを外し、運動を解禁したハナは、揺れるチューリップ、フリージア、名前は知らないが紫色の小さな花にじゃれたり、飛んでくる桜の花弁が舞う様を観察したりしている。
桜吹雪の中を歩くハナはとても絵になる。
「楽しいか?」
「みゃあ」
首を動かしてこちらを向き、弾む声色で鳴いた。
尻尾が、ピン、と立っている。
よく見ると、鼻がヒクヒク動いている。
微笑ましくて、小さな笑いが漏れる。
戯れる様子に、はたと気付く。
──『ハナ』に、春の『花』に、……『花』家。
三つの『はな』が共演している事に気付き、恥ずかしさに顔を伏せる。耳が熱い。
「みゃあ」
足に違和感を感じ、我に返って足を見るとハナが足に前足をかけて立っていた。
「なんだ、抱っこか?」
両手でハナを持ち上げ、抱きかかえる。
──また重くなってる。
ハナの成長に喜びを感じながら、ハナの頭を撫でる。
「もう少し歩くか?」
「みゃあ」
「じゃあいつもより少し遠くまで行くか」
「みゃあん」
ハナの返事を聞き、いつもなら折り返して帰っているところを直進する。
「降りて歩くか?」
「みゃあ」
ハナの返事を聞いてゆっくり地面に下ろしてやると、前足と後ろ足を弾ませて先を歩き始めた。
再び微笑ましさに小さく笑いながら、ハナの後をついて行った。
"刹那"
十数メートル先に見覚えのある──いや、幾度も見ている、糊のきいたスーツをかっちりと着こなす青年が正面からこちらに向かって歩いてくる。
こちらに気付き、片手を上げた。
それに倣って片手を上げ、声をかける。
「おう」
近付いて立ち止まると、俺が背負っている物を見て「あぁ」と声を漏らした。
「そういえば、今日取りに来ると言っていたな」
「これから行くとこ。お前は?」
「近くの図書館に、借りていた本を返しに」
へぇー、と相槌を打つと、不思議そうな顔をして「ところで」と聞いてきた。
「『これから行く』と言っていたな」
「あ?あぁ」
何故そんな事を聞くのか。不思議に思いながら頷く。
「リュックが少々膨らんでいるから、これから帰るところなのかと思ったんだが……」
「は?」
驚いて、間抜けな掠れ声が出る。
──何か入れてたっけ?
不思議に思って背のリュックの底に触れてみる。
少し重みを感じた。感触も柔らかいような固いような、不思議な感触だった。
また驚いて、今度は肩が跳ねる。
リュックを地面に下ろし、恐る恐るファスナーを開けてリュックの口を広げる。
すると、尖った耳がピョコンと動いて、のそり、と身体を動かし、リュックの中にいたものがこちらを向いて声を上げた。
「みゃあん」
身体を伸ばしてこちらを見上げる。「はぁ……?」と先程よりも間抜けで掠れた声を漏らした。
俺の声を聞き「大丈夫か?」と声をかけながら、俺の肩越しに中を覗き込むと、俺の心の中を代弁するような言葉を発した。
「何故ハナがリュックの中に……?」
その疑問に、答えにならない答えを返す。
「俺だって知らねぇよ……」
「なら、目を離した隙に入り込んだのか?」
「はぁ?いや、目ぇ離してた時ちゃんと閉め──」
不自然に言葉を切る。
そういえば一回だけ。今回受け取る物資の確認でチャットを見る為に目を離してた。確か開きっぱなしだったはず。
だがその時間はほぼ一瞬だったはずだ。
けれど猫は俊敏だから、どんなに一瞬でも全く別の場所にいたりする。
不自然に言葉を切って考え込み始めたので、心配そうに「開業医?」と外での呼び名で呼ばれた。我に返って「んっ……あぁ、悪い」と答え、続けて推測を文章にして述べる。
俺の推測に頷いて「なるほど」と漏らした。
「それで、どうする?このまま連れて行く訳にもいかないだろ」
「あぁ……」
情けない大きなため息を吐く。ハナを連れて病院に入るなど無理。かと言って、またリュックの中に入れて行くなど罪悪感が勝って出来ない。
「悪いけど……代わりに、持ってきてくれねぇか……?」
おずおずと口を開き、バツが悪そうに言葉を紡ぎながらリュックを差し出す。
「本当は、ハーネスで病院の傍に繋いで行くのがいいんだろうけど、ハーネスねぇし……。かと言って、ハナは好奇心旺盛で人懐っこいし、一人にして行く訳にもいかねぇし……だから……」
「なら俺が面倒を見ながら外で待って」
「駄目だ。緊急で呼び出しくらったら大変だし。そもそもお前スーツだし、毛が付いたら目立つ」
そう言うと納得したのか頷いて、差し出したリュックに手を伸ばした。掴んだのを見て手を離す。
「じゃあ、悪ぃけど頼む。近くの公園で待ってっから。呼び出されたら他の奴に頼んでもいい」
「分かった」
そう答えると俺のリュックを背負い、身を翻して病院へと向かった。
その背中を見送り、病院近くの公園へと向かい、公園内のベンチに座るとハナを顔の前に持ち上げる。
キョトンとした顔で俺の顔を見るハナの目に、不機嫌な顔をした俺が映る。
「本当困った奴だな、お前」
不機嫌な声色でそう言うと、いつもと変わらぬ声で「みゃあん」と鳴いた。がくり、と肩を落として「このヤロー……」と呟く。
──今度からはこいつをストールでくるんでからリュック出そう……。
"生きる意味"
俺が存在する価値も重要性もない。
俺が今ここにいるのは、自分で蒔いた種だから自分の手で終わらせたいという、俺の我儘だ。
あいつらは、未熟な所もあるが、一人前と言って遜色ないくらいの実力も知識もある。
俺がいなくても、充分やれる。
ハナの事も正直言うと、それ程心配していない。
ハナは人懐っこいし賢いから、他の人が飼い主になってもさほど変わりなく暮らしそう。
理由も、《自分の為》は無く《誰かの為》。
生きる事に執着も貪欲さも持っていない。
駒のように使われていた事を知っても、何とも思わなかった。怒りも悲しみも湧いてこなかった。
《良い方向》に向かう為なら、自分の犠牲など安いもの。
その程度の意味なのだ。俺が生きている意味は。
だから理由も、他人や周りの事ばかりなのだ。
"善悪"
親バカ、というわけではないが、ハナは0歳の子猫としては結構賢い方だとと思う。
代表例は、動物病院に連れて行く時、普通はキャリーケースを見ただけで嫌がって逃げ回ったり断固としてその場を動かなかったりするらしいが、キャリーケースを出しても逃げられたり抵抗された事は無い。
病院に着いた後も、診察中に暴れたり身体をうねらせて逃げ出そうとする子がいるらしいが、ハナの場合逃げるどころか自分から触られに行っている。
獣医曰く、病院から出たすぐ後に労いで沢山撫でたり、最近ではおやつをあげたりするから『病院に行くとご褒美がある』と学習して、早くご褒美が欲しくて大人しくしたり自分から向かって行っているのではないか、という事らしい。
小さな事だと、俺が一度「駄目だ」と怒った事は二度とやらない。
まぁ子猫なので好奇心に負けたり、遊びたい盛りで有り余っている体力で二度三度やってしまう事はあるが、大体の事は怒られた時の事を思い出してか、直前で踏みとどまる。
物事の善悪は多少理解しているみたいだ。
本当に聞き分けがいいので、本当に子猫かと時々疑うし、少し恐怖を感じる。