正直な話、自分は生きる意味のない人間だと思うことが度々ある。
世間一般ではその考えはあまりよろしくは無いが、知ったことではない。私の考えは私だけのものであるし、誰に矯正される謂れもない。
ただまぁ、そんなことを考えている私だから、思考の行き着く先は「死ねないかな」だ。月明かりすら差し込まない自室の暗がりで、寝る前にいつも考える。
死ぬ瞬間の意識の切れ方は、睡魔に負けるこの瞬間と同じなんだろうか。
勿論死んだことのない私には想像しかできないことだ。でもよく創作では言うじゃないか。「眠る様に」とか、「ぷつっと途切れた」とか。まさしく今この状態じゃなかろうか。
限界まで眠気を我慢してベッドに寝転がる。
もし同じようなものなら、私は毎日、死ぬためのリハーサルをしていると言うことになる。臆病な私の、いつかの日の為の予行練習。お手軽さに笑いしか出ない。
これで寝たらもう、起きない。目が覚めない。うん。怖いな。けれどこれ以上楽なものはもう……。
アラームが鳴る。時刻は朝六時。いつもの通りの起床だ。何回目か分からない日常だ。
天井から垂れ下がる輪を眺めながら息を吐く。「あーあ」なんて呟いてみるが、この独り言が何に対してなのか……自分でも理解できていない。
2024/5/15
「後悔」
居なくなってから大切だって気づくんだよ。
なんてまぁありきたりな話だなと思っていた。別に間違いだという訳じゃない。寧ろ逆だ。恐ろしいほどに正しい。いつか将来、同じことを考えて泣くんだろうとは認識していた。
ただそんな思考も日常に流されて、数年が経ち。
いつも通りの朝。と言ってもまだ五時の明け方に、自室の扉がノックされた。ベッドから這い上がってドアを開ければ父親で、隣県の施設に入っていた祖父の心臓が止まったという話だった。声が出なかった。
父と母は施設に向かうという。私も着いて行きたかったが、祖母を一人で家に居させるわけにも行かず、仕方なく見送った。
祖母の朝ごはんを用意して洗濯物を干し……と家事をしている間に再度連絡が来た。亡くなった、と。
正直、死に目に会えなかった私には実感が湧かない。なにせ数日前に面会に行って話したばかりなのだ。痴呆が進んでまともな会話は出来なかったが、しきりに私の名前を呼びながら手を握っていた。背中や手をさすった感触がまだ残っている。声も顔も覚えているのに。
それでも、もう居ないらしい。
数日後、祖父に会いに行った。湯灌(ゆかん)と言って、棺に入れる前にメイクをしてもらったり白装束に着替えてもらう為だ。職員も優しい人で、頭を洗わせてもらったり、着替えを手伝ったりもした。
あぁ。死んだんだな。なんて考えて。
だってあれだけ頭が揺れているのに、身体を濡らしているのに起きないのだ。ずっと目を閉じて、ただ眠っているような安らかな顔で横たわっている。あんなに笑っていたのに。あんなに喋っていたのに。起きない。
葬式も終えて、納骨、祭壇、諸々済ませて手を合わせた。年に数回会うのが当たり前だった。面会になっても、まだもう少し元気でいるだろうと思っていた。それがいつまで続くと思っていたのだろうか。永遠なんてないのに。歳も歳だ、長くはないだろうということくらい分かっていたのに。何も言えない、言う機会も完全に失われてしまった。
声を聞くことも笑い合うことももう出来ない。だって。死んでしまったのだから。居ないのだから。遺影がこちらを見つめるだけだ。喋りかけたって相槌の一つ返ってくることはない。
せめて、今いる大切な人達には言葉を尽くそうとメッセージアプリを開く。時間は過ぎていくし、返っては来ない。顔を合わせなくとも、声が聞けるのは今だけなのかもしれないのだから。
2024/5/12
「失われた時間」
先月祖父が亡くなりました。
お読み下さった皆様、御家族や友人でも誰でも、声が聞ける時に聞いた方が良いかと思います。
相手がいつ死んでしまうのか、いつ会えなくなってしまうのかは、誰にも分かりませんので。
生きるということは、絶えず成長していくと言うことだと思う。
知識を蓄え、己を知り、知ればまた無知が見える。無知を克服する為にまた知る。その繰り返しだ。そうして日々を生きていくと、当時は新鮮に見えたことが、今は意識すら向けなくなっていくもので。
真夜中の午前二時。眠れないまま外へ出た私の靴には、既に少量の雨が染み込んでいた。
雨なんて、靴下は濡れるし寒いし。傘持たないといけないから片手は塞がるし。要するに面倒なことだらけだ。家に帰った後に乾かさないと思うと少し憂鬱な気持ちになる。
それでも傘を開いたのは、部屋から聞こえる雨音が少し神秘的に聞こえたからだ。普段ならうるさいと布団を被るであろう騒音なのに、ほんの一部の音がぽつぽつとゆっくりに聞こえて。もう一度聞きたいと思った。
少し歩いて、目当ての公園にたどり着く。ここは屋根の下にベンチもあって休むのにぴったりな場所。ふぅ、と一息ついて、屋根を打つ雨音に耳を傾ける。
木が雨を遮っている様で、落ちてくる粒は少量だ。部屋で聞いた音が再度聞こえてきた。
ぽつ。
ぽつぽつぽつ。
ぱしゃぱしゃぱしゃ。
そういえば小学生の頃って雨の日に真っ直ぐ家に帰ったっけ。この公園で今はもう撤去されてしまった、ツリーハウスの様な所に上がって雨を楽しんでいた記憶がある。
あぁそうだ、雨を楽しんでいたじゃないか。この音だけじゃない。人が歩く時の音も、車や自転車の音も、この土の匂いも。全部を面倒だなんて言わず、「どうして雨が降るんだろう」なんて考えながら。
雨が降るのなんて理由はもう分かりきっているし、そんなことより最優先なことは山程ある。一々消費された新鮮さに心を動かすほど子供の期間は長くない。
生きていれば、自然と大人にはなっていく。自分の中身の成長すら感じられないままに走り続けて、こういう些細な記憶は取りこぼして行くんだろう。
けれど今日のことは覚えていたい。ほんの少し子供に戻って、あの頃感じたものをなぞっていきたい。
大人として過ごしていく中で得る物の根幹は、きっと幼き自分の感性も大事になってくるのだろうから。
2024/5/12
「子供のままで」
貴方から貰った時計を着ける。
一緒に選んだ服を着て。
磨いてくれた靴を履き、渡された帽子を被る。
いつもくれる言葉で自分を励まし。
今日のラッキーカラーだと笑う飴を口に含み外へ。
自分は貴方を愛しているし、貴方も私を愛している。
そうとも。私自身が、貴方の愛そのものなの。
貴方のくれた愛を身につけ、魅せつけながら、いつもの一日が始まるのだ。
2024/5/12
「愛を叫ぶ」