人は過剰さを求める
→なので秩序で抑える
→しかし反動でより過激になる
→だから定期的にガス抜き
→お祭り(擬似的無秩序)の誕生
ざっくりと解釈した「構造と力」より
めちゃゆるく言うと人はヤバい(過剰な)ことが好きだ。だからそれの受け皿としていろんなコンテンツができる。
昔よりも技術が発展してより複雑なものがより大量に。
過剰な供給によって非日常的なものが日常化していく。
サブスクにSNS、それらは現代の弱いお祭りだ。
毎日開催されることでハレとケの境目は消えてしまう。
そんな現代で実際に開催される夏祭りはどうだろう。
コンテンツとして見る夏祭りはどんなものだろうか。
日本の夏祭りはエモ産業だ。
浴衣、屋台、りんご飴、わたがし、かき氷、花火。
目に見えるものを羅列するだけでエモが成り立つ。
恋人と、家族と、独りでも。
とりあえず祭りに参加すれば雑にエモい物語ができる。
それこそがコンテンツとしての強みではないかと思う。
時代遅れの屋台娯楽を"あえて"やるのもエモい。
エモによってお祭り(非日常)価格でも屋台は成り立つ。
ぼったくりだと嘆くのも風物詩でありそれもエモになる。
体験、古い娯楽、風物詩。
純粋なエンタメコンテンツとしてみれば古くて弱くとも、
ハレとケが消えゆくネットをケとし夏祭りはハレとなる。
しかしそれもまた巡り変容していくのだろう。
祭りに飽きたら日常と名付けただけのまた別の祭りへ。
後の祭りは永遠に訪れないまま湿っぽい熱帯夜が続く。
「神様が舞い降りてきて、こう言った。」
と神様は言った。
今日も神様が舞い降りてきてお題を告げる。
その神様の名はアプリ提供元のほその夫妻だ。
調べても公式サイトやSNSが見当たらず彼らの謎は多い。
その中でも一番の謎はお題の選定基準だ。
季節や自然物、恋愛、台詞、病み、厨二病的なもの。
今までの傾向的にそのような物が多い。
しかしそれらをどうやって決めているのだろう。
傾向を見るに選定のランダム性は低く意図的に見える。
いわゆるエモを狙いにいっている節を感じるからだ。
偏りがあることでお題を通してはっきりと人を感じる。
人であることは感じるが決め方はどうしてるのだろう。
どうやらクリスマスなどのイベントの日は予め決めているようだがそれ以外の日のお題はいつ決めているのだろう。
名前の通り本当に夫婦で話し合って決めているのか。
それとも本当は一人の人物なのか、はたまた団体なのか。
謎は謎のまま、明日も神様は舞い降りてお題を告げる。
誰かの為にといっても結局は自分の為
批判的な意味も含めてそんな主張はありふれている
人間の根源にエゴがあるのだから何を今更感が否めない
自分の為にやっているから優しさではない偽善だ
こんな風に優しさと善性を持ち込むから話が拗れる
それらの概念は社会秩序を保つ為の概念であって
どんな意図や目的で行為をしたかはそんな重要じゃない
優しさや善意を持っている"ように見える行為"が重要で
別にそれが本心であるかなどこだわらなくてよいのだ
エゴイズムに従って見返りを求めて優しいふりをする
別にそれ自体はまったくもってなんら問題ない
優しいふりも優しいということに変わりない
相手や自分を騙しているようでどこか気持ちが悪い
そんなふうに感じるならさっさとその行為をやめればいい
やめて事態が改善するのか悪化するのかを知ればいい
恐ろしいほどに自分の内心とは関係なく物事は進む
自分の中の善性にどこまで拘っても悪いやつは消えない
"善人は報われない"ようなことを言いたいわけじゃない
その善悪という概念を自分の価値軸とは分離することで
あくまで社会的なものであると捉えてほしいのだ
善悪を含め倫理的な概念たちは強迫観念に近い
だからこそ少し離れて冷静に見つめる必要がある
そしてその位置から改めて独自の善を目指せばいい
独善とは違う再解釈された善を目的地へ
鳥かごの中を幸福という概念で推し量っても
鳥はそんな概念の下に生きてるかはわからない
自由を論じて幸か不幸かを見定めてしまう
不自由さは鳥かごではなく人かごの中にある
非物理的で何重にもある人かごの中
概念のかごに人は収監されている
幸せに固執せずに幸せなりたい
自由から離れて自由になりたい
いくら願えど矛盾してしまうように
言葉は言葉から逃がしてくれない
んー
堅苦しい文体はもういいや
言葉で考えるの疲れちゃった
もういっそ幸せも自由も不法投棄して
言葉を知らない鳥にでもなってみたいよ
あー 人間しんどいよー
あー 呑気な鳥になりたいなー
(最新の研究では鳥にも言語があることが判明してます)
「同性同士の友情は成立するか」
定番の話題を少しズラすと違和感を抱くだろうか
レズビアンの知人はパートナーが女友達と食事することに
嫉妬も含めた複雑な感情を持ってしまうと言っていた
僕は男女の友情の成立という話題が苦手だ
言わんとする趣旨もだがその手前の表現もだ
男女に限って友情の成立を疑問視するなら
それは同性同士でも言えることだろう
そもそも情なんて感じるだけのもので
「成立するか」なんて的はずれな視点だ
言わんとする趣旨も表面上と内心の二層構造を作って
延々と内心はわからないと語り続けさせる
表面上の行為によってでしか情は汲み取れないのだから
でも片方の内心は…なんて不可知の話は要らないだろう
「男女」によってそれ以外の性愛を透明化させ
「成立」によって友情の捉え方を歪まさせ
「行為/内心」の二重構造で話を堂々巡りさせる
この手の話題には暗黙の文脈が流れている
それを解体することで問いの質を変換しよう
「人はいかなる行為によって友情を感じるか」