天国と地獄の原材料はなんだろう
人の感情だろうか 感情が物事を判別し価値付ける為のものだとしたら正と負の二つの方向性に対応する象徴的な二つの世界が創られるのは自然な流れのように思える
しかしなぜそのような世界を必要とするのだろう
生の目的作りだろうか それとも死の謎を説明する為か
はたまたそれらを利用し大衆を先導する為か
きっとそのすべてが必要とする理由に成りうるだろう
思えば死後について別の世界を使って説明することは原理的に解明不可能なものを原理的に解明不可能な概念で説明しているだけだがなぜそれがこんなにも力を持つのだろう
きっとそれは知り得ない死という未知の恐怖を誤魔化してなんとか和らげさせてくれるからなんだと思う
何もわからないよりはとりあえず仮設したもので言い換えられれば人はそれだけで少し安心する
だから天国も地獄も超常的な世界のようでその実態はとりあえずで傷口に貼る絆創膏のようなものなのかもしれない
もしくはそれよりも「痛いの痛いの飛んでけ」のようなある種のおまじないに近いものなのかもしれない
願うことでそういうことだとするようなものに
その日は晴れと晴れの間を作るような短い雨が降った。
咄嗟に何かなかったかと鞄の中を探ると折り畳傘が見つかった。たしか数ヶ月前に使ったきりで奥に眠っていたそれはいつの間にか汚れていた。
数字が散りばめられた変わった柄に錆びた骨組み。人には見せられない物になったそれを恥を感じながら差し、いつもより早足で帰宅した。
水滴を払い玄関で傘をどこに置こうか考えたとき。目に映るその汚さに悲しみを憶えた。それが幼い頃に貰った母からの譲り物だということを思い出したからだ。今の自分では選ばない柄の訳がわかった。
この傘は何回雨を凌いできたのだろう。昔の記憶を重ねていくうちに母との思い出が浮かぶ。遠足の日に雨足が早まったときに一応と渡された。珍しい柄だと喜んでいた私を見て母も喜んでいた。
記憶が綺麗なほど目の前の汚れが私を責める。私は物を大切にできない。それは昔から母に指摘されてきたことだ。大人になった今でもそれは変わらなかった。変えられていなかった。大切な人からの物も大切にできない。
沈んだ意識がしばらく続いた後にふと外の雨音が聴こえなくなったことに気付いた。そうだもうしかたない。誰もいない玄関でごめんなさいと呟き折り畳んだ傘をゴミ箱へ捨てた。
薄情者は今も度々思い出す。あの短い雨が知らせたことを。
降り止まない通り雨。
あの頃の私へ
世界五分前仮説によると君は非実在らしいけどどう思う?
なんか私に君の記憶があるだけでそれは君の実在の根拠にならないんだって。なんかインガセイ?ってのが当てにならないからそうなるみたい。
というか五分前じゃなくてこれは一秒とかでも成立するらしいよー。ん、じゃあ今こうして時間かけて文字を打ち込んでるけど「あの頃の私へ」って打ち込み始めた私も存在しないことになるじゃん。やば。
えーなんかヤだな。あ、今ヤだなってなったこの私も存在しなくなるじゃん。って今思った私も過去になるから存在しなくなるのか。めっちゃ存在消えるじゃん。やばやば。
てか過去の自分よりも実在してる今の私の方が変じゃね?だって今ってなった瞬間私は過去の存在になるから今の私の存在は、えっと、だから、えー、どういうこと?
もうわけわかんないからこの際実在してるかはどーでもいいから君も一緒に考えてくんない?時間ってなんだと思う?そもそも私達って同じ人間なのかな?
あ、ごめん。こうなるとは思ってなくてベイブレードに夢中な頃の私に話しかけちゃった。やっぱさっきまでの話は忘れて。え、うん、ドラグーンの左回転かっこいいよね。
「せんせー さよーなら またあした ばいばい」
母親の迎えがきた後のお決まりの挨拶だった。
卒園する日にいつもと同じように挨拶をするとまた明日はもうないねと先生が小さく笑っていたことを憶えている。
またはないんだ。そのときはその意味をあまり理解していなかった。涙もでなかったし周りの大人達が子ども達へ寂しげに話し合っている光景が少しいびつに見えていた。
先生や親達が悲しい顔を作っている。それが違和感だった。ふりをしている。実際悲しみはあっただろうがそれをそのまま表にするのではなく、さみしいねと子どもに寄り添う為の顔をしているのように見えた。
今ならそうすることも理解できる。そしてそれが寄り添うようで本当は促していることもわかる。別れは寂しいものと雰囲気で教えている。子どもがさみしいと言う前に寂しいねと先回ることで子どもの気持ちを先導している。
道徳はこういうときに知らず知らず身に付いていくものなんだろう。心の底から別れを痛感する術をまだ持ってなかった幼い自分は大人達の外側にいた。
悲しいけど悲しい顔ではなく悲しそうな顔をする大人。きっと葬儀屋もそうだと思う。本当の悲しみの一部が他人の為に見せる悲しみに混ざっている。
思い切り泣いている他の子ども達と大人達の違いはそこにあった。その差をわずかにだけ感じとれていた自分はそのせいで余計に別れの場面で泣けなかったのだと思う。
今もし誰かとまたはない別れをしたら自分はどんな顔をするのだろう。もう大人の内側にいるが思い切り悲しみがそのまま表にでるのだろうか。これが成熟なのか喪失なのかもわからない。
きっと両方なのだろう。
カラオケ映像で流れるチープな恋物語は
きっと人類をバカにした宇宙人が作っている
だいたい街中以外には海岸か芝の広い公園がロケーション
運命的な出逢いを経て何かしらの共同作業の後
自宅で一人相手を想うパートもマストで入る
花や果物あとは手紙も登場したりする
なぜか連絡手段として公衆電話も活用する
ファションセンスは永遠に平成初期で止まっている
最初から失恋スタートパターンもある
その場合の男女は夜の都会を背にシビアな表情をしている
男は黒のタイトなシャツを着て目線は絶対カメラから外す
ツッコミどころが多すぎて正直歌わずに見ていたい
恋愛というか恋愛ドラマあるあるを意識したかのような
実際の恋愛に抽象に抽象を重ねた映像の味わいが好きだ
あれが映しているのはもはや概念としての恋愛だ
超うっすいイデアのような恋物語の垂れ流し
簡単に言うと人間の恋愛なんてこんなもんでしょという
結果としてバカにしているような映像がたまらない
まるで人類を外側から観測しているような
カラオケ映像の監督はきっと地球外生命体だ