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「せんせー さよーなら またあした ばいばい」
母親の迎えがきた後のお決まりの挨拶だった。

卒園する日にいつもと同じように挨拶をするとまた明日はもうないねと先生が小さく笑っていたことを憶えている。

またはないんだ。そのときはその意味をあまり理解していなかった。涙もでなかったし周りの大人達が子ども達へ寂しげに話し合っている光景が少しいびつに見えていた。

先生や親達が悲しい顔を作っている。それが違和感だった。ふりをしている。実際悲しみはあっただろうがそれをそのまま表にするのではなく、さみしいねと子どもに寄り添う為の顔をしているのように見えた。

今ならそうすることも理解できる。そしてそれが寄り添うようで本当は促していることもわかる。別れは寂しいものと雰囲気で教えている。子どもがさみしいと言う前に寂しいねと先回ることで子どもの気持ちを先導している。

道徳はこういうときに知らず知らず身に付いていくものなんだろう。心の底から別れを痛感する術をまだ持ってなかった幼い自分は大人達の外側にいた。

悲しいけど悲しい顔ではなく悲しそうな顔をする大人。きっと葬儀屋もそうだと思う。本当の悲しみの一部が他人の為に見せる悲しみに混ざっている。

思い切り泣いている他の子ども達と大人達の違いはそこにあった。その差をわずかにだけ感じとれていた自分はそのせいで余計に別れの場面で泣けなかったのだと思う。

今もし誰かとまたはない別れをしたら自分はどんな顔をするのだろう。もう大人の内側にいるが思い切り悲しみがそのまま表にでるのだろうか。これが成熟なのか喪失なのかもわからない。

きっと両方なのだろう。

5/23/2024, 6:23:12 AM