その日は晴れと晴れの間を作るような短い雨が降った。
咄嗟に何かなかったかと鞄の中を探ると折り畳傘が見つかった。たしか数ヶ月前に使ったきりで奥に眠っていたそれはいつの間にか汚れていた。
数字が散りばめられた変わった柄に錆びた骨組み。人には見せられない物になったそれを恥を感じながら差し、いつもより早足で帰宅した。
水滴を払い玄関で傘をどこに置こうか考えたとき。目に映るその汚さに悲しみを憶えた。それが幼い頃に貰った母からの譲り物だということを思い出したからだ。今の自分では選ばない柄の訳がわかった。
この傘は何回雨を凌いできたのだろう。昔の記憶を重ねていくうちに母との思い出が浮かぶ。遠足の日に雨足が早まったときに一応と渡された。珍しい柄だと喜んでいた私を見て母も喜んでいた。
記憶が綺麗なほど目の前の汚れが私を責める。私は物を大切にできない。それは昔から母に指摘されてきたことだ。大人になった今でもそれは変わらなかった。変えられていなかった。大切な人からの物も大切にできない。
沈んだ意識がしばらく続いた後にふと外の雨音が聴こえなくなったことに気付いた。そうだもうしかたない。誰もいない玄関でごめんなさいと呟き折り畳んだ傘をゴミ箱へ捨てた。
薄情者は今も度々思い出す。あの短い雨が知らせたことを。
降り止まない通り雨。
あの頃の私へ
世界五分前仮説によると君は非実在らしいけどどう思う?
なんか私に君の記憶があるだけでそれは君の実在の根拠にならないんだって。なんかインガセイ?ってのが当てにならないからそうなるみたい。
というか五分前じゃなくてこれは一秒とかでも成立するらしいよー。ん、じゃあ今こうして時間かけて文字を打ち込んでるけど「あの頃の私へ」って打ち込み始めた私も存在しないことになるじゃん。やば。
えーなんかヤだな。あ、今ヤだなってなったこの私も存在しなくなるじゃん。って今思った私も過去になるから存在しなくなるのか。めっちゃ存在消えるじゃん。やばやば。
てか過去の自分よりも実在してる今の私の方が変じゃね?だって今ってなった瞬間私は過去の存在になるから今の私の存在は、えっと、だから、えー、どういうこと?
もうわけわかんないからこの際実在してるかはどーでもいいから君も一緒に考えてくんない?時間ってなんだと思う?そもそも私達って同じ人間なのかな?
あ、ごめん。こうなるとは思ってなくてベイブレードに夢中な頃の私に話しかけちゃった。やっぱさっきまでの話は忘れて。え、うん、ドラグーンの左回転かっこいいよね。
「せんせー さよーなら またあした ばいばい」
母親の迎えがきた後のお決まりの挨拶だった。
卒園する日にいつもと同じように挨拶をするとまた明日はもうないねと先生が小さく笑っていたことを憶えている。
またはないんだ。そのときはその意味をあまり理解していなかった。涙もでなかったし周りの大人達が子ども達へ寂しげに話し合っている光景が少しいびつに見えていた。
先生や親達が悲しい顔を作っている。それが違和感だった。ふりをしている。実際悲しみはあっただろうがそれをそのまま表にするのではなく、さみしいねと子どもに寄り添う為の顔をしているのように見えた。
今ならそうすることも理解できる。そしてそれが寄り添うようで本当は促していることもわかる。別れは寂しいものと雰囲気で教えている。子どもがさみしいと言う前に寂しいねと先回ることで子どもの気持ちを先導している。
道徳はこういうときに知らず知らず身に付いていくものなんだろう。心の底から別れを痛感する術をまだ持ってなかった幼い自分は大人達の外側にいた。
悲しいけど悲しい顔ではなく悲しそうな顔をする大人。きっと葬儀屋もそうだと思う。本当の悲しみの一部が他人の為に見せる悲しみに混ざっている。
思い切り泣いている他の子ども達と大人達の違いはそこにあった。その差をわずかにだけ感じとれていた自分はそのせいで余計に別れの場面で泣けなかったのだと思う。
今もし誰かとまたはない別れをしたら自分はどんな顔をするのだろう。もう大人の内側にいるが思い切り悲しみがそのまま表にでるのだろうか。これが成熟なのか喪失なのかもわからない。
きっと両方なのだろう。
カラオケ映像で流れるチープな恋物語は
きっと人類をバカにした宇宙人が作っている
だいたい街中以外には海岸か芝の広い公園がロケーション
運命的な出逢いを経て何かしらの共同作業の後
自宅で一人相手を想うパートもマストで入る
花や果物あとは手紙も登場したりする
なぜか連絡手段として公衆電話も活用する
ファションセンスは永遠に平成初期で止まっている
最初から失恋スタートパターンもある
その場合の男女は夜の都会を背にシビアな表情をしている
男は黒のタイトなシャツを着て目線は絶対カメラから外す
ツッコミどころが多すぎて正直歌わずに見ていたい
恋愛というか恋愛ドラマあるあるを意識したかのような
実際の恋愛に抽象に抽象を重ねた映像の味わいが好きだ
あれが映しているのはもはや概念としての恋愛だ
超うっすいイデアのような恋物語の垂れ流し
簡単に言うと人間の恋愛なんてこんなもんでしょという
結果としてバカにしているような映像がたまらない
まるで人類を外側から観測しているような
カラオケ映像の監督はきっと地球外生命体だ
「この時間だと世界に私たちしかいないみたいだね。」
真夜中の路上。ロマンス溢れる瞳でこちらを見つめながら彼女が言ったその"私たち"の中に側にある公園で泥酔し倒れている若いサラリーマンが含まれているのか考えていた。
付き合い初めて2ヶ月。普段大人しい彼女は二人きりになると大胆になることを僕は知っている。そして一度そのモードになると手がつけられなくなることも知っている。
恐らくではなく確実に彼女は今僕以外の他人の存在を認識していない。身体の距離が近くなっていっていることがその証拠だ。ときめきがサラリーマンを抹消している。
彼女に恥をかかせないためにサラリーマンのことを伏せてそれとなく場所を移動したいがモードに入っている彼女の雰囲気がそうはさせてくれない。
いっそ人がいることを直接伝えるべきか。しかしそれも結局彼女に恥をかかせてしまうには変わりないだろう。何より彼女の作るロマンスがその選択肢も遠ざけていく。
あれこれ思考を巡らせていく内に顔と顔が近くなり次第に何も考えられなくなっていた。そうだもう他のことはどうでもいい。このまま彼女を受けいればいい。それだけだ。
意識の焦点が目の前のことに極限まで合わさったとき。
近くでコール音がほんの数秒間だけ鳴った。
「もしもし。はい、はい。本日はご迷惑おかけしてすみません。はい、あの後無事に乗り継ぎしまして今は自宅にいます。すみません、ご心配ありがとうございます。はい明日の出勤はもちろん問題ありません。はい、今後お酒は控えます。社会人としての自覚が…」
サラリーマンが突然蘇生し嘘をついている。そしてその通話が終わった直後におそらくスマホで現在の時間を確認したのだろう。何かを悟ったような表情しその場にまた寝倒れた。
ほんの一瞬の出来事にロマンスも息の根を引き取り僕も彼女も普段以上に冷静になった。
「やっぱりもう時間遅いし急いで帰ろうか。」
彼女はこくりと小さく首を縦に振りお互いそれ以上は何も言わず真っ直ぐ帰路についていった。
世界に誰もいないかのように虫の音だけが聴こえる。