始まりはいつも持続する時間を切断するものである
始まりはそれ自体により区切りのない時間を終わらせる
今日や明日がなかった時代はどんな暮らしだったのだろう
日陰が時間を表せることすらも気づかなかった時代
そもそも時間は人が生得的に感じられるものだろうか?
終わりのない問いが始まる
言葉と行動もそれの意味をひとつにできないのかな?
そうじゃないから他の人とすれ違っちゃう
そもそも他の人が同じ考えかは確かめられないもんなー
んー それでも言葉もつかうし行動して確かめたくなる
伝わるかもしれない 届くかもしれない
その可能性があるから確かめたくなっちゃう
絶対に意味が一緒か確かめられなくても相手に伝える
これ?違う!じゃあこれ?そう!…かと思ったら違ーう!
みたいなやり取りが起きるかもだけど伝える
それでも一緒なことを考えてると思えたときが嬉しいから
だから傷つく可能性があっても人と話したい
そっちのほうがいいって信じてるから
雲一つない澄んだ空は美しくて怖かった。夜の海のように色の差異のない画一的な自然。一色で統一されたような広大な自然はどこか飲まれそうに感じる。自分の身体も澄んでいってその一部に溶けてしまいそう。美しさはそんな怖さを持っている。
いつも浮かんでいて多種多様な雲。それが一つでもあれば邪魔だと思わせる一面の青が物語る。いずれは雲一つも消えてなくなって最終的には空のみになると。雲はその物語の過程の存在でしかないように感じさせられた。
空に心を奪われていると目の前にイチョウの葉が舞った。去年もこの道のこの時期に同じ光景を見たことを思い出した。廻っている。そんな些細なことからぼんやりと円を描くような時間を感じた。いつかの終わりを目指すような一直線ではない時間の流れを。思わず立ち止まって少し考える。もしかするとこの円環自体が終わりのあり方なのか。延々と同じことが続く。それが終わりを示しているのか。
目の前に散らばるイチョウの葉。その葉脈はすべて同じようで違っていた。ただ線が平行に並んでるだけのように見えて所々2つに分かれた線模様が葉ごとに違った場所にある。直線から枝分かれした変化が。統一の中の非統一が。この円環は差異を含んでいる。
トラウマは忘れたくても忘れられない記憶の1つと言えよう
心に見えないタトゥーのように染み付いたもの
心的外傷という別称は心の空間化、物質化を思わせる
身体の傷のように目に見えないはずの心にも傷があると
そのようなイメージが漠然と浮かび上がる
心の傷という比喩が次第にそれが比喩とは思えにくくなる
トラウマという概念自体がトラウマのように刻まれる
受け入れ難いがそうと信じざるを得ない変え難いもの
そのような変更不可能な見えざる何かを抱えて生きている
この自己像は思考の基準となって心に深く根付く
しかしその一点のみに思考を委ねるのは危うい
それとは別のもう一つの基準を持つあり方が鍵と思える
どこまでが変更不可能かいつでも再確認できる鍵
2つの基準を持って矛盾しながらしなやかであること
二重の基準の回游 それが心の営みと思う
光にやわらかさを憶える
光は刺激 こちらに反応を仕向けるような鋭利なもの
しかしそれにやわらかさを憶える
鋭利なものの例として針があるがそれを取って考えてみる
針の刺激は通常不快でありイメージするだけで怖さがある
しかし針を使うものの中には鍼灸というものがある
身体に極細の針を刺して身体の調子を改善するもの
それには痛気持ちいいのような不快と快感の混ざりがある
やわらかな光もそのようなものかもしれない
光は眩しさという針を刺す
しかしその後の和らぎに微弱な快楽がある
非常に微弱な一種のマゾヒズム
人にはそんなところがあるのかもしれない