物心着く前、よく母と手を繋いでいた気がする。
少しひんやりとしていて優しく包み込んでくれる事に何よりも安心感を得ていた。
だからだろう。いつしかそれが癖となっていたのは。
どんな人よりも手を繋いできた。
友達との挨拶代わりは握手だったし、初めての恋人との繋ぎは昨日のように思い出せる。
だから寂しくなんかないさ。
私の目を下に向ける。そこにはあるはずの手がなかった。
交通事故。運が良かったのか悪かったのか命は無事だった。その代わとばかりに私の両腕は切除しなければならなかった
私のはもう人一倍ある思い出もあるし作り続ける。手を繋げることが出来なくても心では繋がっているから。
夢と現実に違いは無い。
現実を現実として定義できるものは何一つなく、そこにあるものを空想だと思わないのが私たちだ。
遥か未来に住んでいる私たちを想像してみよう。
その中では体という鉛から解き放たれ人々は情報の1部でしかない世界だ。そんな世界で何が現実か何が仮想なのかなんて論争に意味はあるのだろうか。
あなたはこう思うかもしれない。それは未来の話で所詮は妄想でしかないと。しかし私はこうも思う。
この話に未来かどうかなんて関係あるのだろうか。
例え5秒前に作られた世界だとして、あるいは私たちが仮想上の実験動物だとしてもやる事に変わりは無いはずだ。
夢か現実かなんて区別に意味は無いということ。
ただ突き進むしかないのだ。我武者羅に。馬鹿の一つ覚えみたいに。
「なぁ」
「んだよ」
「小学校の時さぁ」
「うん」
「さよならの事さ、さよオナラって妙に言いたくならん?」
「おん?」
「いやさぁこう......あんねんな、渦巻く衝動が」
「まぁあるっちゃあるか?」
「んでよォそれを当時好きな子に試しに言ってみたのよ」
「おっと?」
「その時何したと思う?」
「まぁキモイとかやめてとかそこら辺じゃね」
「ツームストーン・パイルドライバー」
「ツームストーン・パイルドライバー?」
「そう」
「......将来有望だね」
私は宙ぶらりんな存在であった。
笑顔が苦手だった。人に合わせることが苦手だった。興味がなかった。言い訳は色々思い浮かぶ。
しかしひとえになぜと聞かれれば私はこう言うだろう。
「私に人は向いていなかった。」
ただ呆然と生きる日々に飽き飽きとする。それを17年も続けてきた。
「 」
「.......」
「き...いるのか。」
「.......」
「聞いているか?」
そう大声を出す教師。少し色褪せたスーツに、所々剃り残された髭。中肉中背なこの男性になんと返そうかと、僅少の間考え込む。
「聞いていますよ。」
「お前だけだぞ、こんな時期にまで進路調査を出していないのは」
「そうですね。」
またお説教が始まりそうだ。そんな予感に辟易しながら窓の外へと目を向ける。降雪と灰色の街並みが織り成すコントラストは私の心のようだ。
「はぁ......いいかよく聞けよ。」
そう改めて言葉を発した。
「君にはどうやらお説教は必要ないらしい。」
「はぁ。」
「だから一つ聞きたいことがあるんだ。それでこの無駄な時間は終わり。」
「なるほど。」
「......」
淡白な返事に眉をひそめた教師の目に色は無い。ただこの惨状に飽き飽きとしていた。
「君は陰キャと陽キャについて君はどう思う。」
「別にどうでもいい、くだらない言葉だと思う。」
突飛な質問に戸惑いを覚えつつも質問に答えた。
「そうだね、実にくだらない事だ。そしてそんなくだらないものにもなれないのが君。」
さらに突飛な返答に顔を顰めた。まるで理解ができない。一体何に付き合わされているのだろうか。そんな困惑の表情を浮かべる私に教師はまたもや口を開く。
「陽キャと陰キャに区分されたとしても、さしたる意味は無い。例え区分されたとしても確たる査定も出来ないんだ、こんなものいくらでもひっくり返される。だがねこの行動には意味があるんだ。」
「はぁ?」
「所謂キャラ付けってやつさ。これにより人のプロフィールていうのが見えてくるんだよ。通常プロフィールって言うのは用意されているものだ。」
「......」
「日々の生活の中その人の色というのは必ず出てくるからね。でもね、君にはそれがないんだ。」
次から次へと何を言いたいのかさっぱり分からない。
「それがどうしたと言うんですか。」
「君はいつも無表情だ。まるで何も感じようとしていない。」
「仕方ないでしょう。」
「違う、それは違うよ。」
「......それだけですか」
私は席を立ちカバンに手をかける。こんなにイラッときたのは初めてだ。私の何がわかると言うんだ。仮定を断定して話すところも気持ち悪い。
「逃げるのかい?」
明らかな挑発だ。教師の言葉を無視しそそくさと教室を出ようとする。
「別に君を責めている訳では無いよ。」
そのドアに掛けた手を少し緩めてしまったのはなぜなのだろうか。
「君の苦悩は本物だよ。そこにとやかく言うつもりは無い。」
「なんなんですか本当に。」
怒りの表情を顕にした私をよそに飄々と話を続けた。
「やっとこちらを見たね。」
したり顔の教師にもはや怒りを通り越して呆れのため息が込上げる。
「当たり前のことだがね、感情というのは良くも悪くも人に影響を及ぼすんだ。光にも闇にもなれる万物だと思ってる。」
「そうですかそうですか、新手の厨二病かなんかですか?」
「まぁまぁそうカッカしないでくれよ。君は今ようやく人生の節目に立ったんだ。無からの脱却だよ、喜びたまえ。」
いちいち鼻につく言い方だ。私はいつかこいつをぶん殴るそう心に決めて学校を出る。雪は止んでいた。
どうしても溢れてしまうこの気持ちをどうすれば良いのか。ビターで薄ら寒いこの響を。
きっとこれも報いなのだろう。誰が悪い訳でもないこの世の不条理にぶち当たってしまった。人から逃げ、優しさに甘え、あまつさえそれを利用した。その消えない罪によって引き起こされた自業自得のカルマ。
私は決して許されない。許してくれる相手は消えてしまった。
母は認知症を患ってしまった。
大きかった背中はいつしか小さく曲がって行た。シワも増え、関節が痛むことがココ最近の悩みだったらしい。
私はそんなことすら気づかなかった。30年も毎日顔を見合わせ続けていたというのに。
寝室の前。軋む床材がなりやまない。バタバタと体を動かし意味もわからず歩き出す母に私はなんと言えばいいのだろうか。その光景を呆然と眺めるしか無かった。
いつしか私の頬に涙が伝う。クシャクシャになった感情のダムがついに崩壊してしまった。
「こんな息子ごめんなさい」
謝るしか無かった。
「親孝行のひとつできず」
息も絶え絶えで鼻水は垂れ流し、まるで泣きわめく赤ん坊のように母に縋った。
「ごめんなさい」
答えは求めていなかった。ただそれを伝えたくて。許して欲しくて。断罪して欲しくて。身勝手に泣き言を喚いた。
すると癖だからだろうか。母がぎゅっと抱き締め返した。スっと手を持ち上げ私の頭にポンポンと叩いた。
「大丈夫」
誰よりも優しい声で
「泣かないで」
誰よりも暖かい目で
「大丈夫、大丈夫だからお母さんがいるよ」
誰よりも厳しいことを言う。
私は一晩中泣くしか無かった