誰のことも無条件に愛してくれるはずの家は、恋の氷河期に突入した。テニスの40-40からの長いラリーのように毎日ギャーギャーと叫び声がしていた時代は、一転して静寂に包まれた。もはや叫ぶ気力もない老老介護の生活。子どもは巣立ち、故郷へと戻ってくる気配はない。ノルウェーの大地のように冷たく、生命の炎をチロ火にする。だが、それがどうした?
愛から恋を引いたら、どうでもいいという感情だけが残った。
題『愛 ー 恋 = ?』
秋は梨。秋になると、ほとんど水分だけで空っぽなのに「待ってました」とばかりに店頭に並ぶ。だが開店と同時に青果コーナーを素通りして肉へ向かう。梨は一部のベジタリアンの鬼に好まれる贈答品でしかない。梨より空虚なハラワタの私にそんな余裕はない。
肉を食べねば飢えてしまう。
食べたい気持ちはあっても、果物は主食を削らなければ食べれないものだ。
題『梨』
画面の向こうではカボチャ頭のパペットを手にはめた子供が身体を左右に揺らしており、笑顔でお菓子の袋を抱えている。
"ぴん ぽーん" (家のベルが鳴る音)
「Trick or Treat?」
ああ、よく来たね。イタズラされるのは怖いからお菓子をあげよう。"アポロにマーブル、レモンのタルト"
ニッコリしたこどもが両手を広げてクルッと一回転。
「LaLaLa GoodBye!」
歌うように駆けていった。
題『LaLaLa GoodBye』
鼻柱にできた針先くらいのシミでさえ、自分の中では感情を揺さぶる要因となる。歳をとったと実感して、若い頃のイメージが否定される。自分が最も輝いていた時代と比較して「あの頃はよかった」と絶望してしまう。
目の前にやりたい事は沢山あるのだ。寝袋に包まれて寝てみたい。食べたことのないジビエや昆虫を食べてみたい。一度諦めた仕事に再度挑戦したい。ただそれらは必ず否定される。「何を言われてもやりたいならやればいいじゃない」と。勿論、相談せずに行動することもできた。だが結局のところ後になって発覚した時に「なんで言ってくれなかったのか」と言われることに変わりはない。さざ波ほどの、他人にとっては五秒後には忘れるようなセリフでさえ、無重力の中ではどこまでも後退させられる。私が欲しかったのは「いいじゃん。やってみなよ」という些細な、それこそ壁に止まった蚊のような「何の価値もない肯定」だった。笑顔で「いってきます」と言う or 置き手紙を置く。脱線しながらも、どこまでも進み続ける。
題『どこまでも』
(追申: バラバラな感情、あるいはココロMEMO)
あとほんの一歩を進むための後押しが欲しかった。じゃあもういいや。どうにでもなれ。そんな気持ちで自暴自棄になりながら後先考えずに動くことになる。それで倒れてもボクは知らないからね。投げやりになりながらも将来をより良くしようと無謀に前に進むのがボクの性格なんだ。ただ、どうせなら肯定してほしかった。それだけ。どこまでも一人で進むことは出来るけど、否定的に考える。どこまでも受動的で身近な人の意見に影響されやすい人間だなと、どこまでも人は繊細で苦しい。
未知数が2、次元が1であるならば二元一次連立方程式である。未知数をx とyとする。
x+y=未知の交差点 ---①
y=未知の交差点-x ---②
x=既知の交差点と仮定する---③
②に③を代入
y=未知の交差点-既知の交差点
つまり未知数yは「未知の交差点から既知の交差点を減らした余り」である。
よって全く知らない交差点ではない。
なぜなら今まで進んできた道は既知なのだから。
題『未知の交差点』