鼻柱にできた針先くらいのシミでさえ、自分の中では感情を揺さぶる要因となる。歳をとったと実感して、若い頃のイメージが否定される。自分が最も輝いていた時代と比較して「あの頃はよかった」と絶望してしまう。
目の前にやりたい事は沢山あるのだ。寝袋に包まれて寝てみたい。食べたことのないジビエや昆虫を食べてみたい。一度諦めた仕事に再度挑戦したい。ただそれらは必ず否定される。「何を言われてもやりたいならやればいいじゃない」と。勿論、相談せずに行動することもできた。だが結局のところ後になって発覚した時に「なんで言ってくれなかったのか」と言われることに変わりはない。さざ波ほどの、他人にとっては五秒後には忘れるようなセリフでさえ、無重力の中ではどこまでも後退させられる。私が欲しかったのは「いいじゃん。やってみなよ」という些細な、それこそ壁に止まった蚊のような「何の価値もない肯定」だった。笑顔で「いってきます」と言う or 置き手紙を置く。脱線しながらも、どこまでも進み続ける。
題『どこまでも』
(追申: バラバラな感情、あるいはココロMEMO)
あとほんの一歩を進むための後押しが欲しかった。じゃあもういいや。どうにでもなれ。そんな気持ちで自暴自棄になりながら後先考えずに動くことになる。それで倒れてもボクは知らないからね。投げやりになりながらも将来をより良くしようと無謀に前に進むのがボクの性格なんだ。ただ、どうせなら肯定してほしかった。それだけ。どこまでも一人で進むことは出来るけど、否定的に考える。どこまでも受動的で身近な人の意見に影響されやすい人間だなと、どこまでも人は繊細で苦しい。
10/12/2025, 7:59:52 PM