〈同情〉
何故、こうなった。
どうしようない気持ちで、空を仰ぐ。
そして、また、そっと目の前にある鍋の開けてみた。
分かってる。何度見ようが、時間は遡らない。そこに在るのはパッと見、美味しそうな肉じゃがだ。しかし、いささか苦すぎる香り。じゃがいもと、にんじんの間に見えるカラメル。少し揺すったくらいじゃ見た目が変わらないぐらいに、具の皆々様、鍋底とベッタリだ。
良い匂いがしてきたと思ったときに一度見に来るんだった、と再び後悔する。
すまない、新じゃがよ。
せっかくお前を美味しく食べてやろうと思ったのになあ。
一言も喋らない初物のかなしみに、思わず同情した。
〈枯葉〉
3月になって、春の匂いがするようになった。
日の出時間に合わせて、自然と目覚めも早くなる。暖かな空気を感じて、うずうずする気持ちそのままに起き上がった。時刻はAM 5:30。朝練に家を出るには少し早くて、軽くストレッチしてから近所を走ることにした。そのくらいならオーバーワークにはならないだろう。
春は好きだ。何か、新しいことが始まる季節。街路樹にも芽がふいている。
軽く息を弾ませながら走る道の傍らに目を遣ると、ところどころ枯葉がまだ残っているのに気づいた。と、同時に、真冬の大会直前のロード中に、枯葉に突っ込み盛大に転んだ記憶が甦る。尻餅をついて、確かに尻が痛かった。でもそれ以上に、真っ青になって駆け寄ってきた彼を見て、胸が痛かった。
過ぎていった季節分鍛えられたこの体は、自分の体であって、自分だけの体では無い。
来月からは3年。同じだけの日々を筋肉にしてきたメンバーと、若芽の1年との新しいチームで、どう楽しもうか。枯葉を横目に、スピードを上げた。
〈今日にさよなら〉
「すみません、遅れました。」
待ちに待った君は、走ってきたのか少し息が乱れていて、俺を待たせたことに謝った。
実際の時間にしたら、なんてことない間だったと思う。しかし、なんとも途方もなく感じた。
自分からやっとので送ったメール。呼び出した場所で壁掛け時計を睨み付けてから俯いて、手を握ったり開いたり。そして、開かないドアを上目遣いでチラと見る。何度繰り返したか。
「や、ごめん。忙しかった?」
「少し片付けに手間取りました。…何かありました?」
早く来いと念じていたくせに、いざ目の前にするとどうすればよいか分からなくなって、とりあえず“いつもどおり”を目指したつもりだったのに違っていたようだ。ちょっと焦る。焦ると同時に、自分を理解してくれているようにも感じて嬉しい。
「あのさ、」
自分でも驚くくらい、緊張して掠れた声が出た。
「すき、なんだけど、」
あれ、俺っていつもどうやって声出してたっけ。喉が、きゅう、と締め付けられて、うまく声がでなくて、
〈バレンタイン〉
目が覚めて、仰向けのまま伸びをする。
視線だけ、チラ、と勉強机を見遣る。机の上には、割と大きめな紙袋があって、中身が少し溢れそうになっていた。
昨日はバレンタインデーで、明らかに義理なものも、本命なのかなというものも、たくさん貰って。でも、本当に貰いたかった相手からは、貰えなかった。
(……他の誰かには、渡したのかなあ。)
なんて、ぼんやり思う。同時に、自分から渡せばよかったとも思う。今の時代、女から男に渡す一方的なイベントでもあるまい。
思い立ったが吉日だ。元気よく起き上がって身支度を済ませると、いつもより少しだけ早く家を出た。
(この時間じゃ、きれいに包んだのは買えないし、アレ…かな)
電車に揺られながら、少し前に見かけた、青い箱パッケージのビスケットチョコを持ったあの子を思い浮かべた。付き合ってほしいなんていう大層なものじゃなくて、単純に喜ぶ顔が見たい。気持ちがちょっとだけでも伝われば、なお良いが。
そうこう考えているうちに降りる駅に着く。まず目指すべきは駅前のコンビニだ。駆け足気味で改札を抜けた。
〈待ってて〉
一歩も二歩どころではない、ずっとずっと前を行く…というより“上を”行くあの人を追いかけてきた。
進学を決めたきっかけになった俺のスター。同じ高校で、同じ部活で、同じユニフォームを着て。あっという間の2年間で、追いかけても追いかけても、全然追い付けなかった。とても充実した楽しい日々だった、と思う。そんなただの思い出になってしまうのが悲しい。
(未来のための、祝福すべき門出だとは分かってるけど…)
卒業生が体育館から続々と出てくるのが見えてどうしようもない気持ちになる。上を向き、目を瞑って軽くため息をついた。そのまま目を開くと、
「どうしたの?元気ねえじゃん。」
「わっ…!?」
俺の顔を覗き込むスターがいた。
慌てて取り繕う俺の様子を見て、めずらしー!とか言いながら快活に笑ってから、急に真面目な顔つきになる。
「あのさ、」
「…はい。」
「待ってるから。」
「…はい?」
「だからあ…。待ってるから、さ。」
優しい笑みを浮かべて、肩をぎゅうっと抱かれた。
目の前がぼんやりと滲む。
「…そんな顔してないで、笑ってよ。」
「…はい。」
滅多に活躍しないと言われる表情筋を、目一杯動かして、笑顔で返事する。
待ってて。待っててください。
来年には必ず、また一緒に。