よどみ

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5/29/2024, 10:25:51 AM

「ごめんね」


「あんた、朝昼置いておくから食べてなさいね」

 きいい、ばたん。一軒家のドアが閉まって、カチャカチャと鍵の音。自室のベッドに寝転がった朝七時、至って健康な私はブランケットの中で丸まっていた。
 学校に行けない。出席率がどんどん減り、このあいだついに六割になった。息継ぎみたいに学校に行けば、担任や養護教諭に留年の話をされる。「大丈夫?」という言葉はもはや辞書どおりの意味なんてなく、取ってつけたような都合のいい言葉として発されていた。世界が私を拒んでいる、みたい。起き上がることすらできないのにお腹は空く。本当は消えてしまいたいのに。例えば食べずにいればいい、みたいなことを思っても実行できないのは、私の弱さなんだろうか。世にはそれを容易く実行する人間もいるわけで、その様な些細な比較が私の身体すべてをチクチク刺していた。
 親の人肌すらなくなったリビングで、スーパーで値切られたサンドイッチを飲み込む。一口噛んで、咀嚼を何回か、そしてすぐお茶で胃に落とす。繰り返し。手にあったひとつのハムサンドを三十分近く掛けて食べきると、もう癖になった鎮痛剤を飲み込む。偏頭痛というより眠気に近いそれは吹き飛ばされることがなく、食品特有の口臭をせぬよう息を抑えながら、そっとベッドに滑り込んだ。

5/26/2024, 1:41:19 PM

月に願いを


 星に願いは託すけど、恒常的な月に願いを託すことって少ない。一過性のようなロマンチックも、可逆性のない刹那的な印象も無いから、かもしれない。織姫と彦星の天の川すら星なんだから。
 恒星とは違い月は太陽の光を反射して光っているのだと言う。もしかすると星に託すよりよっぽとか細くて、叶わなくて、幸せになれない願いを託されているのかもしれない、と思ったら。窓辺から見上げた夜空はあいにくの鈍色雲を敷き詰められていたけれど、かりそめの光を雲から突き通す月の光を集めるようにそっと窓を開けた。ぬるくて塊みたいな風が頬に触れる。五月の終わり、もう夏がそこにいた。

5/20/2024, 1:04:41 PM

理想のあなた


 鏡に映ったわたしが、好きで嫌い。女性という肉体はいとおしいし、造形もたしかによろしくはないが、とはいえ人さまにご迷惑かけるようなものではきっとない。
 でも、女の子ってめんどくさい。学生時代はメイクを禁止されるくせにやらないと笑われるし、センスがなくても不器用でもすべてやらなきゃいけない、らしい。そう思うと女性というこの肉体がとたんに嫌なものになる。鼻にティッシュ突っ込んだ風邪引きすっぴん面皰たくさんのわたしを愛せよ。ダイエットだとか、適当なこと言わないで。

 わたしの理想の人がいる。幼馴染。完璧ではないけれど、たしかにわたしの心を射抜いて、鷲掴みにして離さない。天才であり秀才で、賢さだけではなく、努力や無理に裏打ちされた能力が好きだった。うらやましさもあった。ざっくばらんに結ばれたポニーテールも、目の下にうすらに溜まったクマも、小学生からずっと使っているであろうリュックサックも好きだった。わたしは憧れるくせに努力をしなかったので、今はほぼ話す機会も少ない。それでも捻出して相手してくれるのだけが、わたしのしあわせだった。
 せめて、高校卒業するまではお友達でいようと思う。きっと彼女はわたしを幼馴染とも腐れ縁とも思ってないだろう。嫌われるなら、もう二度と会わないような、そんな時に嫌われたい。耐えられそうには、ないけれど。

5/20/2024, 7:09:42 AM

突然の別れ



 制服が三年生でもぶかぶかだったように、私は背丈が小さかった。運動も不得意。社交的でもなくて、教室のすみでうじうじと本を読んでいるようなひとだった。少しでもここから逃げ出したいと思い、塾にも通えない環境の中、ボロボロになるまで使い古した教科書と書いて参考書とも読むそれを片手に努力していた。たぶん、体に見合ってなかった。何度か体調を崩して、私の努力なんて露も知らない両親が心配していた。やっぱり許せなくて、何度も資料室の過去問に目を通して、理解できるまで解いた。
 夢にも見たブレザーの制服に袖を通した四月。昨今の地球温暖化により満開の桜だなんだと贅沢は言わなかったけれど、公立でも新しい、いわゆる進学校みたいなところに入学できた。入学式、お守り代わりに私は数学の教科書を鞄に入れていた。夥しい量の付箋、マーカー。通学にかかる四十五分でさえ、私にとっては誇らしかった。

 高校のレベルはやっぱり高くて、私には何度か躓いた。周りは塾に通っていたり、もともと賢かったり、一度聞いてスッと理解できるような、秀才と天才ばかりに見えた。わからない、でも認めたくない。抜けかけた英文法や公式、古典規則たちを見直すために教科書を探す。
 いつも置いていた棚に、ない。たった五教科、五冊の教科書たち。毎日見てはいなかったけど、私はずっと把握してたのに。

「ねえお母さん、教科書どこやったか知ってる?」
「高校の?あんた、本棚に置いてたんじゃないの」
「いや、中学の」
「あぁ中学の教科書?要らないでしょう、捨てといたから」

5/17/2024, 10:35:38 AM

真夜中


 おやすみなさいと言ったのは何時間前のことか。23時前には夢の世界へと旅立ったであろう友達とのトークを眺めながら、ぼんやりとまろやかな布団のなかで微睡んでいた。ただ肉体がどこかに放たれたようで、意識だけが、ぽつねんとそこにあった。壁の染みを見ることさえできないような靄がかった脳を、少しでも起こさないように、健気に画面の光量を絞っている。眠気特有のガンガンとした頭痛が襲い掛かってきて、このからだ、意識、ぜんぶを包み込まれているようだった。寝なければ。明日は休みだけれど、そう、健全な人間として、寝なければならない。おそらく。
 ずっとなにか思い出して、そのたびに幸せと絶望をまぜこぜにしたような感情に駆られて、余計に目が覚めてしまう。相手から見れば取るに足りないような、物語にはあまりに陳腐な日常が、あまりにも甘やかで幸せたらしめる出来事のように見えていた。たとえば「そうだね」と肯定されるだけで嬉しくて堪らなかったし、「そう思わない」と否定されるだけでこの世のすべてに絶望した。けれども、ずっと友達であり続けている。夢みたいな思い出だけをバスタブに溜めて、そこの中にざぶんと浸かってしまえたらいいんだと思う。でも溢れてしまうから、それは名案ではないかもしれない。
 目が冴えてきた。ベッドサイドのミニテーブルに置き去りにした箱を手にとって、シートからひとつカプセルを取り出す。転がしたジュースで流し込む。いい夢が見れそうだと言い聞かせる。天井の染みは、どことなく、ハートのかたちをしていた。あのとき揃いで買った、ストラップに似ていた。

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